Saturday, December 31, 2016

番外 無料配布

「完璧な執事」 マージェリー・アリンガム

 英国ミステリの大家マージェリー・アリンガムは1904年生まれで、没年は1966年。つまり今年は没後51年目ということになる。彼女の作品は日本ではパブリックドメイン入りしたのである。ようこそ、アリンガム。

 彼女の短編を一作、無料配布する。私のこの翻訳もパブリックドメインである。


 内容は……。いやいや、これは十分で読めるような短編なのでなにも言わないことにする。読むと思わせぶりな書き方だなあと思うかもしれないが、最後に到達したとき、フラッシュバックするようにすべての意味がわかるようになっている。

 下のリンクをクリックすればダウンロードできます。

 マージェリー・アリンガム作「完璧な執事」

Sunday, December 25, 2016

「歪めて見る」 スラヴォイ・ジジェク作 (その1)

Looking Awry (1991) by Slavoy Zizek

 この本は全編面白いが、特にミステリを扱った第三章のみを扱う。しかも私にとって興味のある部分を論じるので、全体を俯瞰したような解説は期待しないでほしい。

 まずこの章の後半部分から見ていく。ここではまず古典的探偵小説とハードボイルドの比較が行われている。よく言われるのは、前者の探偵は知的な営みをおこなうが、後者の探偵は肉体的・物理的な営みをおこなうということだ。つまり古典的ミステリおける探偵は事件をパズルとして解き、ハードボイルドの探偵は暴力にまきこまれる。

 ジジェクはもっと根本的な違いを考える。そして古典的な探偵は実存的な意味で容疑者たちのやりとりの外にいる、と言う。なんのことはない、彼は「事件=ドラマ」の外部に位置するということだ。探偵はドラマにいっさいかかわらず、部外者として外から事件を眺める。事件を外形として見る、と言ってもいい。あるいは分析者が被分析者に対するように、事件を徴候として読む、とも言える。このことを私は前のブログ(「本邦未訳ミステリ百冊を読む」)でさんざん書いた。私はこの本を出版されたてすぐロンドンの書店で買ったから、二十年以上かけて私は彼の言ったことをじわじわと理解してきたということになる。もっとも谷崎潤一郎の短編を読んで外形について考えはじめたのは、それよりももっと前のことだけれど。

スラヴォイ・ジジェク
それに対してハードボイルドの探偵は「事件=ドラマ」にかかわっていく。ジジェクはそのかかわり具合をチャンドラーの「赤い風」という短編を例にとって示している。ちょっと長くなるが、わかりやすい説明だから紹介しよう。

 「赤い風」の筋はこうだ。ローラには昔恋人がいたが、急に死んでしまった。彼女は大切な恋人だった彼の思い出として彼の贈り物、高価な真珠のネックレスを大切に持っていた。しかし夫の疑惑をそらすため、彼女はそれがイミテーションだと言っていた。さて彼女の車を運転していた運転手がこのネックレスを盗み、彼女に金を要求する。運転手はこの宝石が彼女にとってどんな意味を持つのか知っていたのだ。恐喝者が殺された後、ローラはジョンという男(マーローの前身にあたる)に盗まれたネックレスを捜してほしいと頼む。ところがそれを見つけたジョンは、その宝石がイミテーションであることに気づくのだ。ローラの昔の恋人は彼女を欺していたのである。そこでジョンはどうするか。彼はわざとイミテーションのイミテーションを宝石屋につくらせる。そしてそれを彼女にわたすのだ。もちろんローラはそれが偽物であることを見破るが、ジョンはこう説明する。たぶん恐喝者は本物を売り飛ばし、あなたにはこの偽物を渡すつもりだったのだろう、と。こうしてジョンはローラの愛の記憶を汚さないようにしたのである。

 こんなふうにハードボイルドの探偵は「事件=ドラマ」の渦中にある人のことをおもんばかるのだ。こういうところが、「事件=ドラマ」にかかわるということなのである。古典的な探偵はこういうことをしない。彼はあくまでも外部にとどまる。私は前のブログで、最初は探偵のように振る舞っていた人間が「事件=ドラマ」の渦中にある人間と、たとえば恋愛関係に陥ったりすると、とたんにその物語は探偵小説ではなくメロドラマになることを示した。彼は事件の謎を知的に解き明かすことができなくなるのである。事件が解決に導かれたとしても、それは彼が事件を徴候としてとらえ、読解したからではない。偶然に解決されたに過ぎないのである。「事件=ドラマ」の内部に取り込まれた探偵はもはや探偵ではなくなるのだ。

 古典的探偵は事件の外部にとどまり、ハードボイルドの探偵は内部に入りこむ。ジジェクはこのことから次の二点を指摘している。これは精神分析を多少かじってないとちょっとむずかしく聞こえるが大切な点だ。

 第一に古典的探偵が活躍する物語は、たいていワトソン役の人物がいて、彼が物語を書くことになっている。あるいは三人称で書かれる場合もある。しかし探偵が一人称で物語ることは普通はない。これはなぜか。ここで古典的探偵と分析者のホモロジーが役に立つのだが、探偵も分析者もいずれもラカンが言う「知っているとされる主体」なのである。この「知っているとされる主体」は転移関係において他者によって設定される存在であって、構造的に一人称ではあらわせないのだ。

 これはジジェクらしいクレバーな説明である。もちろんこの原則に反する物語もあって、それらは個々別々に検討されるべきだろう。

 第二のちがいは探偵と報酬の関係をめぐるものである。古典的探偵は報酬を手にする。たとえばポーのデュパンは「盗まれた手紙」において報酬を要求するが、それは報酬をもらうことによって事件とはすっぱり手を切ることができるからである。報酬をもらわずに無料で事件を解決したら、それは事件にかかわった誰かに、たとえば善意を感じている、負債を感じている、などということになる。そうなると彼は事件という内部にかかわりを持つことになるのだ。そうしたかかわりを一切絶ちきるのが報酬の受け取りなのである。

 それに反してハードボイルドの探偵は報酬を受け取らないこともある。彼は内部にかかわりをもち、内部の人間になんらかの負債を感じる場合があるからである。
(つづく)

Thursday, December 22, 2016

番外 読書と大統領

 日本では読書の秋と言って、秋を以て読書のシーズンとしているが、欧米では夏休み、クリスマス休みが読書のシーズンとなる。本好きの人々は旅行カバンにぎっしり本を詰めこんで旅行にでかけるのである。私はネット版ガーディアン紙の大ファンだが、この頃になると、本を選ぶ参考にと、おすすめ本のリストが掲載される。小説家や批評家といった目利きが選んだリストだからそれなりに信用できる。私はそれを見ながら自分で読む本を選択するのだ。

 アメリカの大統領も休暇中に読書をする。いつごろからやっているのかかわからないが、ホワイトハウスは休暇がはじまる前に、大統領の読書リストを発表している。2016年の夏休みにオバマ大統領が読もうとした本はつぎの五冊だ。

"Barbarian Days: A Surfing Life" by William Finnegan
"The Underground Railroad" by Colson Whitehead
"H Is for Hawk" by Helen Macdonald
"The Girl on the Train" by Paula Hawkins
"Seveneves" by Neal Stephenson

SFあり、ミステリあり、ノンフィクションありでなかなか楽しめそうだ。とくにホワイトヘッドの新作が含ま

れているところがいい。この本は私も夢中になって読んだ。大統領はどんな感想をいだいたのだろうか。
 ひるがえって日本の首相が夏休み中になにをしていたかというと……新聞を読む限りゴルフ三昧である。ここに彼我の指導者の、教養の差があらわれている。

 しかしホワイトハウスははたして来年も大統領の読書リストを発表するだろうか。なにしろトランプという男は本を通読したことがないという話だから。

 昔(九十年代の中ごろだろうか)、プロレスラーのボブ・バックグラウンドが冗談に大統領選出馬演説をテレビでやったことがある。そこで彼は、おれが大統領になったら国民の教養の程度をあげるために、学生の夏休みは廃止する、小学校から古典を読ませる、とぶちあげて、私は大笑いして聞いていた。しかしあの頃常識だった教養や読書の大切さは、今ではもう通用しないようだ。世界じゅうのあちこちで教養のない政治家が民衆の支持を博し、図書館は閉鎖され、人文科学は力を失っている。それも当然かも知れない。ピュー・リサーチによると全米の大人の26%は今年、一冊の本も読んでいない、読もうともしていないという調査結果を出している。日本でも読書の習慣はすたれているし、漢字の読み書きすらあやしい人々が中年以上の人々のあいだにも大勢いる。中国や韓国は日本よりはましだが、それでも読書する人の数は減少している。

 このことは啓蒙の伝統を受け継ぎ、正義と公平を訴え、公立大学の授業料無償化のように教育の大切さを訴えたバーニー・サンダースが大統領候補から蹴落とされてしまったことにもあらわれている。クリントンとトランプは見た目ほど差がないと私は思う。どちらも資本主義のエンジンをふかすことにしか興味がないのである。クリントンはグローバル企業と強く結びついているし、トランプだって資本家だ。「クリントン・トランプ」vs「バーニー・サンダース」、これが本当の対立図式だったのだが、それを民主党自身がつぶしてしまった。リベラルの絶望的な状況がここにあらわれている。トランプが大統領になったことよりも、バーニー・サンダースが民主党の候補にならなかったことのほうが私には衝撃だった。

 バーニー・サンダースが大統領になっていたなら、ホワイトハウスは夏休み前にどんな読書リストを発表していただろうか。われわれは貴重なリストを失ってしまった。

Tuesday, December 13, 2016

「マルクスのために」 ルイ・アルチュセール (その3)

For Marx (1965) by Louis Althusser (1918-1990)

 El Nost Milan はメロドラマの世界と現実の世界が対立している劇である。その対立はなにも起きない長い空虚な時間と、電光石火のように事件が起きる短い充実した時間の対立となってあらわれている。この二つの相容れない時間は、劇に亀裂を走らせている。

 後者の短い充実した時間は、なぜ長い空虚な時間のあとに、しかもほとんどの人間が消えてしまったあとの舞台上で展開されるのだろうか。アルチュセールは面白いことを言っている。

 長い空虚な時間、それはメロドラマの時間であり、具体的にはニーナの父親の時間である。父親はニーナに幻想を与えて、その球体世界のなかに包み込み、外部から彼女を守ろうとした。長い空虚な時間は、この球体世界の時間、父親の意識の時間なのである。

 それに対して短い充実した時間は、覚醒したニーナの時間である。彼女は父親が教える世界が虚構であることを知る。そして現実世界、お金が支配する世界へ出ていくのだ。つまり短い時間は「気づき」の時間なのである。

 「気づき」の時間は当然、気づかない時間のあとに来る。しかも舞台から人がいなくなったときに。アルチュセールはマルキストらしく「意識は遅れるのだ」と言う。そう、ミネルヴァのふくろうはたそがれに飛ぶ、というわけだ。

 この解釈が正しいのかどうなのか、私は判断を保留したい。なにしろ原作を読んでいないし、それに……ちょっと理論が上滑りしているような感じがする。

 それはともかく、劇の構造にある種の亀裂が走っているという点は非常に参考になる。ミステリにおいても事件の渦中にある人物たちと、事件を外部から徴候として見る探偵とのあいだには亀裂が生じているのだ。

 アルチュセールは El Nost Milan の分析を終えると、今度はブレヒトの劇について話を敷衍する。しかしここは話が一般的すぎてあまり面白くない。要するに古典的な劇は単一の意識に支配される物語になっているが、ブレヒトの劇は El Nost Milan のように分裂した意識をかかえている。それゆえ観客は単純に中心人物に同化することはできない、ということが言いたいだけだ。私はブレヒトの劇の解釈としてはつまらないと思う。それゆえこの部分をいちいち紹介することはしない。

 メロドラマを読んでいると、たしかに意識の球体、あるいはイデオロギーの球体のなかに閉ざされている、という感じがする。マルクスはそれをもって「パリの秘密」を批判しているようだ。このことは非常に重要である。メロドラマのなかではさまざまな対立が生じるようだが、それは贋の対立である。それは解消されることを前提としている、いわば出来レースのような対立に過ぎない。意識は、その意識の内部において、意識を越え出る契機を生み出すことができない。それゆえ意識の内部において真の弁証法は生じないのである。意識はしかしラディカルな他者に事故的にぶつかることがある。そのような事故的なぶつかりが、どうも十九世紀の終わり頃からあちらこちらで描かれるようになってきたような気がするのだが……。まあ、このブログを書くあいだ、私はそんなことに留意しながらいろいろと作品を読んでいこうと思っているのだ。

Wednesday, December 7, 2016

「マルクスのために」 ルイ・アルチュセール (その2)

For Marx (1965) by Louis Althusser (1918-1990)

 El Nost Milan はメロドラマと現実世界が対立している劇である。もちろんここで、想像的な状況に決定的に対立するような「現実」などというものが本当にあるのかどうかと問うことはできる。どのような現実もじつは想像的な状況に過ぎないのではないか。ニーナはメロドラマから現実世界に出ていくというが、それは資本主義というべつの想像的状況に出ていくということではないのか。結局、外部と言っても相対的なものでしかないのではないか。そういう疑問は当然だけれども、ここではあえて無視しよう。この問題についてアルチュセールがつっこんだ議論をしていないにしろ、この論文は充分に面白く読めるし参考になる。

 さてもう一度くりかえそう。El Nost Milan はメロドラマと現実世界が対立している劇である。この対立は劇の内部に裂け目をつくっていて、それは二つの異なる時間となってあらわれている。粗筋を示したときに指摘したように、この劇においてはどの幕においても最初延々と貧民街の様子が描き出され、最後のほうで稲妻のように出来事が起きる。貧民街の様子が描き出されるところでは、なにも起きない。そこにあるのは空虚な時間だ。これに対してそれぞれの幕の最後で起きる短い出来事、それは充実した、ドラマチックな時間である。これこそ弁証法的な時間だ、とアルチュセールは言う。

 この劇に深みを与えているのはこの二つの時間の対立だ。つまりなにも起きず、行為へとむかう内的推進力を持たない時間と、稲妻のように一瞬生じるだけだが、充実した、ドラマチックな、弁証法的に展開していく時間の対立。これがじつはメロドラマ的な時間と、現実世界の時間の対立なのである。

 ここからアルチュセールは面白い議論を展開する。ちょっと難しいが、まるでわからないということはないので、すこし辛抱して読んでもらおう。メロドラマ的な時間はなぜ非弁証法的であり、なにも起きないのだろうか。アルチュセールはマルクスが「神聖家族」のなかでユージーン・スーの「パリの秘密」(これまた代表的なメロドラマだ)について議論しているところを引きながらこう言う。メロドラマに出てくる人物たちの行動を根本的に規定しているのは、じつはブルジョア的な道徳観なのである。不幸な人々が不幸な人生を生きている。しかし彼らは彼らの状況をありのままに見ているのではなく、ブルジョア的な宗教意識、道徳意識を通して見ているのである。そう、彼らは外から借りてきた意識で自分たちの現実の状況を見ている、いや、現実の状況を見えなくしてしまっているといったほうが正確だろう。メロドラマ的な意識と登場人物の生のあいだには矛盾が存在しない。メロドラマ的な意識は単に外から借りてこられたものにすぎず、もともと彼らの生と弁証法的な関係を結んでいないのだから。メロドラマ的な意識のなかにあるかぎり弁証法は作動しない。だから劇のメロドラマ的な時間帯においてはなにも起きないのだ。

 ここは非常に示唆に富む部分だ。私はまだスーの「パリの秘密」を読んでいないが、これを読んで是非とも一読しようと決意した。あれは膨大な小説なので読み終わるのにかなりの時間がかかるだろうが。さらにマルクスの「神聖家族」も読んでおかなければならない。またメロドラマの意識が外から借りてこられた意識であるという点も参考になる。貧乏人のなかには実に敬虔におのれの貧乏という現実を堪え忍ぼうとする人がいるけれども、その敬虔さは彼らを支配しているブルジョア階級の意識ではないか。現在の日本に例を取ろう。たとえばよい仕事が見つからず、派遣として苦しい生活を送っている人々がいる。そのなかには自分がよい仕事にありつけないのは自分に仕事のスキルがないからだ、自分に強いメンタルがないからだ、などと考えている人がいる。そのような考え方こそ「外から借りてこられた意識」なのである。

 メロドラマの意識は非弁証法的であるとアルチュセールは言う。しかしメロドラマにおいてもさまざまな対立が生じるではないかと反論する向きもあるだろう。たしかにそうだ。しかしそれは真の意味での弁証法的対立だろうか。私もはっきりと断言はできないが、そのような対立は予定調和的な、見せかけだけの、偽物の対立であるような気がする。それはメロドラマという意識の内部のドラマであって、メロドラマ的意識という球体そのものを破砕するものではないのではないか。この点はメロドラマをいろいろ読みながら点検していかなくてはならない。(つづく)

Saturday, December 3, 2016

「マルクスのために」 ルイ・アルチュセール (その1)

For Marx (1965) by Louis Althusser (1918-1990)

 「マルクスのために」を全編読んだわけではなく、ベルトラッチとブレヒトを論じた章のみを読んだ。ベルトラッチは十九世紀後半に活躍したミラノの劇作家である。彼が書いた El Nost Milan が1962年七月にピッコロ劇場で上演されのだが、あまり評判はよくなかった。アルチュセールはそれに反論し、この劇の見逃されている真価について議論している。

 El Nost Milan は残念ながらテキストが手に入らなかった。なのでアルチュセールのまとめを利用して、その内容を推測するしかない。

 この劇は全部で三幕。いずれの幕も1890年代のミランの貧民街の様子が延々と描かれ、最後のほうでちょこっと事件が起きる。

 第一幕は霧の濃い秋の日に貧民街でお祭りが開かれている。職にあぶれた人々、こじき、売春婦、すり、金が落ちてないかとうろつく老人、警官がぞろぞろと歩いている。彼らはなにかが起きることを待っているが、なにも起きない。そして最後のほうで小さな事件が描かれる。ニーナという女の子がサーカスのテントの裂け目から道化師の危険な曲芸を見ている。そこへトガッソというヤクザ者がやってきて、彼女を誘惑しようとする。彼女はそれをはねつける。そこへ彼女の父親「火食い奇術師」がやってきて、どうやら「娘に手を出すとどうなるかわかっているだろうな」などとトガッソを脅したようだ。

ルイ・アルチュセール
第二幕は安い食堂の広々とした店内で繰り広げられる。時間は真っ昼間。ここでも貧しい人々がぞろぞろと出入りする。彼らは食べ、待つが、なにも起きない。そしてやはり最後になって小さな事件が描かれる。食堂にニーナがあらわれ、彼女は道化師が死んだことを聞く。さらに人々がいなくなったころにトガッソがあらわれ、ニーナに無理矢理キスをし、金をくれというのだ。すぐにニーナの父親が登場し、トガッソと格闘になり、トガッソをナイフで殺し逃走する。

 第三幕は女性に一晩の宿を貸す避難所で繰り広げられる。時刻は夜明け。壁にもたれかかったり、座ったり、おしゃべりしたり、黙ったままの女たち。ミサの鐘が鳴り人々がいなくなると、また小さなドラマが起きる。ニーナはこの避難所で寝ていたのだが、そこに父親がやってくる。彼は牢屋に入れられる前に娘に会いに来たのだ。彼はこう言う。「おれはお前のために彼を殺したのだ。お前の名誉を守るために」ところがニーナは父親を見て、彼が彼女に与えてきた幻想と嘘を否定する。彼女は言う。トガッソは正しかったのだ。私はこの夜と貧困に包まれた場所を去り、快楽と金の支配する世界へ行く。身体を売らなければならないだろうが、その代償をはらっても自由と真実の側へ行く、と。父親は去り、ニーナは日の光のなかへ出ていく。

 さて、この劇は新聞などの評価によるとおセンチなメロドラマということらしいが、アルチュセールは、この劇こそおセンチなメロドラマを批判した劇なのであると主張する。ニーナが父親を否定してもう一つの世界のほうへ出ていくという場面にそれはあらわれている。実際の劇を読んでないので、父親が娘にどんなことを話したのかわからないが、とにかくアルチュセールのまとめによると、父親は娘のために「想像的な状況」をつくりだし、彼女のロマンチックな幻想を助長しようとした。彼は娘の心に幻想を与え、それをはぐくみ、かつそれに血と肉を与えようと必死になったのだそうだ。そうやって外部の世界から彼女を守ろうとした。トガッソにあらわされるような外部の悪から彼女を守ろうとしたのである。この父親こそまさしくメロドラマのイメージそのものなのではないか、とアルチュセールは言う。そしてニーナが否定するのは父親が無意識のうちにつむぎだしている想像的な、モラリスチックな世界だ。彼女は父親の無意識的な観念が繭のように取り囲む世界に住んでいたが、道化師の死や父親の暴力をきっかけにして、現実の世界を意識するようになったのである。

 「想像的な状況」とはわかりにくい用語だが、原発事故を思い出せば多少は理解されるだろう。いわゆる原子力村の人々は現実を見ずに、「想像的な状況」を生きており、それをわれわれにまで信じさせようとしていたではないか。ニーナの父親もおなじことをしていたのである。

 ヴィクトリア朝期、あるいは二十世紀前半のジャンル小説を読んでいると、幽霊や怪物の存在を信じている人がずいぶんと出てくる。前のブログでも相当数そんな作品を取りあげた。彼らもある種の「想像的な状況」に閉ざされた人々である。

 私がアルチュセールの批評を読んで面白いと思ったのは、ニーナがこの想像的な状況の外に出るという点である。メロドラマという形式を脱却して成立した近代的なミステリにおいては、探偵は事件=ドラマの外に立つ。メロドラマを否定したドラマ El Nost Milan においても主人公は父親のつむぎだす「想像的な状況」の外に出る。外に出ることによって今までその内部にいた状況を批判的に見ることができるようになる。(つづく)