Sunday, July 16, 2017

「文化における快楽原理――持ち主のいない幻想」 ロベルト・プファーラー (その二)

On the Pleasure Priciple in Culture -- Illusions without Owners by Robert Pfaller

 プファーラーは faith/belief という区別を立てて、その間の差異をじつに理論的に明らかにしていく。そのとき導きの糸となるのは、マノーニやホイジンガやフロイトである。たとえば彼は belief はイマジナリーのレベルにあり、belief はシンボリックのレベルにあるという。一見すると逆のようだが、しかし考えてみるとプファーラーが正しい。faith というのは熱烈な信仰であり、理想自我との一体化を目指す段階である。理想自我との一体化を目指すのはまさしくイマジナリーなレベルである。それにたいして belief はそうしたものとのあいだにシニカルな距離が存在している。これはシンボリックなレベルだ。

 また faith と belief は理論的にどちらが先行するのかという問いにプファーラーは belief であると考える。普通は最初に faith があり、その堕落した形態として belief があらわれると考えるのだが、逆である。こまかい議論なので詳細は省くが、彼はこうした意外な発見をきわめて論理的で刺激的な議論を通して重ねていく。

 私は読みながらいろいろなことを考えさせられたが、実は私が考えている「信」のあり方はプファーラーが取りあげていない「信」のあり方である。コレーリの「悪魔の悲しみ」および谷崎の「或る調書の一節」において私が見出したのは、夫は神を信じないが、妻が夫の代わりに神に祈る、という形である。この場合、夫は妻を通して神に祈っている。あたかも夫は信仰心を自らの中から排出し、徹底した無神論者、モラル無き存在となるが、排出された、しかし自分の一部でもある信仰心を投げ捨てることができず、それを妻の中に保存しているようなものである。信仰心は夫にとって同一であり、かつ非同一なものとなる。

 排出された信仰心、他者に転移された信仰心に対して夫はアンビバレントな態度を取ることになる。まずそれは自分とは正反対のもの、否定されるべきものである。なぜなら夫は無神論者であり、モラル無き者だが、信仰心は神を信じ、モラルを守る心を意味するのだから。そういう意味で彼は信仰心、およびそれを担う妻をないがしろにする。同時に信仰心は彼そのものであり、彼はそれなしでは「やっていけない」。「悪魔の悲しみ」では妻が信仰心を持たないことを知って夫は絶望し、死ぬことを考える。「或る調書の一節」では夫は妻を犬猫同然に扱いながらも「非常に必要」な存在とみなす。

 プファーラーの本は、副題を見ればわかるように「持ち主のいない」信の形をとりあつかっている。私の場合は持ち主はいる。それは夫本人ではなく、妻であり、他者である。自分以外の何者かが信を保持しているという点で、私の考えている信の構造は belief に近いが、しかし belief にあるようなシニカルな距離感がない。夫にとって信は絶対的に不用であると同時に絶対的に必要なものでもあるという点で belief とは違っているのだ。こういう信の構造をプファーラーは扱っていない。さらに言うとジジェクも「本人以外の特定の誰かに転移された信」については議論をしていないようだ。

 だとすれば、この特殊な信の形態については自分で考えざるを得ないのだが、しかしそれにしても先行するこれら二人の議論は本当に参考になる。正直、いろいろなことを考えさせられすぎて、頭のなかがかえって混乱しているくらいである。前回、頭のなかで渦が巻いているといったけれど、第一の渦はこういうものである。

 最近この渦に第二の渦が加わった。それはずいぶん以前に考え、しばらくほったらかしにしていた問題である。

Friday, July 7, 2017

「文化における快楽原理――持ち主のいない幻想」 ロベルト・プファーラー (その一)

On the Pleasure Priciple in Culture -- Illusions without Owners by Robert Pfaller

 エドガー・アラン・ポーが「大渦に呑まれて」という短編を書いている。ノルウェイの海岸のごく近くには、地形的な理由から大渦が発生する場所がある。あるとき三人の漁師の兄弟がこの渦に巻きこまれてしまった。巨大な渦の壁をぐるぐる回転しながら次第に底の方へ沈んでいく船。もちろん底まで行ってしまえば、あとは船はばらばらになり、乗組員の命はない。ところが、兄弟のうちの一人だけが、恐怖と大混乱の中で希望の曙光を見出した。彼は恐怖の中で理性を働かせ、大混乱の中に規則性を見出したのだ。
 その第一は、通例、物体が大きければ大きいほど、その落ちかたが早いということ。第二は、球形のものと何か他の形のものとでは、同じ大きさでも、球形の方が落下の早さが優っているということ。第三は、円筒形のものと何か他の形のものとでは、同じ大きさでも、円筒形のものの方が吸いこまれかたが遅いということです。

 もうひとつ著しい出来事があって……(中略)……それは一回転するごとに船は樽だとか船の帆桁やマストのようなものを追いこすばかりでなく、わしがはじめて眼を開けて渦巻きの不思議に眼を見はったとき、こういう種類の物体の多くは、わしらの船と同じ高さにあったのに、いまでは船よりもずっと高くなって、はじめの位置からあんまり動いていないように見えるということです。
そこで彼は水樽に体をくくりつけ、船を跳び出した。彼の兄弟は恐怖で体が麻痺して、何をすべきか手でわからせようとしても、絶望的に頭を振るだけ。結局、規則性を見出した男だけが助かった。

 私はこの話が好きで何回も読んだ。物事を考えはじめると、私はいつも頭のなかで渦が巻きはじめるような気がする。その渦の中には気になる言葉の切れっ端がいくつもぐるぐると回転している。なんらかの結論を得たとき、それは渦の中に規則性を見つけることができた瞬間である。言葉や事象のあいだに連関性を見出し、もちろん渦の全体のメカニズムを理解し、渦を消滅させることなどできないけれど、すくなくとも命からがらその渦から脱出することはできるようになる。ポーの短編小説は、私の思考のいとなみの原型的な表現なのである。

 もっともさいわいなことに私の思考の渦は、「放置しておく」ことができる。私はいくつか渦をかかえているのだが、残念ながら規則性を見出すことができない場合は、その渦を頭のどこかにほったらかしにしている。思考するとき私は真剣だけれども、同時に長い人生を生きるためには、そうした呑気さも必要なのである。

 じつは今も私の頭のなかでなにかが渦を巻いている。「悪魔の悲しみ」という渦である。いくつかの規則性を見出しはしたが、まだそこから生還できるほど充分には理解していない。それどころか、この渦は昔ほったらかしにしておいた渦と似ているところがあり、その渦と力を合わせてより強力な渦になりつつある。そんなことを書きつけておきたいと思う。

ロベルト・プファーラーの「文化における快楽原理」を読み直しているのだが、これはやっぱり理論書の大傑作である。

 こまかな点については実際に読んでもらった方がいい。ここでは彼の議論の前提になる faith と belief の違いを簡単に紹介する。

 普通、信仰というと、たとえば「私はキリスト教徒です。毎日寝る前にお祈りし、日曜日には教会へ行きます。子供の時は日曜学校に行っていました」などと誇らしげに語る人を連想したりする。この人は自分が信仰の持ち主であることを明言しているし、それを誇りに思っている。こういうのはプファーラーの分類では faith という。

 一方、日本でもそうだが、地方には昔の伝説に基づいたいろいろな宗教行事や祭が行われる。なんとかの怒りを静めるために鎮魂祭をやったりとか慰霊祭をやるようなものだ。それをやる人々に、「あなたは行事のもとになる伝説を信じていますか」と聞いてみたなら、「いや、昔の人は信じていたんでしょうけど、今の人は嘘だって事を知っていますよ」と答えるだろう。しかし嘘だって事を知りつつも、伝説を信じているかのように祭を毎年行うのである。この場合の信仰は、持ち主がいない。今の人は誰も昔の伝説を信じていないのだから。しかし形の上では伝説はいまなお力を持っている。こういう信仰をプファーラーは belief と呼んでいる。