Saturday, August 19, 2017

「タンカリー氏の後妻」 アーサー・ウィング・ピネロ

The Second Mrs. Tanqueray (1893) by Arthur Wing Pinero (1855-1934)

 「堕落した女」というテーマはもともとはフランスの演劇界で大流行だったテーマだ。たしかヘンリー・ジェイムズがフランスの演劇について、このテーマばっかり、とこぼしていたような気がする。その流行が一八九〇年代にイギリスにもやってきた。
 今訳している「悪魔の悲しみ」にもこんな一節が出てくる。
最近舞台監督が好んで取りあげる例の主題を扱った芝居だよ。『堕落』した貴婦人を賛美するというやつさ。堕落した婦人が、じつは純粋で善良きわまりないことを示し、素朴な観客たちの目を驚かそうというのだ。
ピネロ
こういう劇はちょっと前まではイギリスで上演されなかったものだ。堕落した婦人が純粋さ、善良さを持つなどというのは、社会風俗の混乱を招く、というのがその理由である。ところが十九世紀後半のイギリスでは性風俗に一大変化が起きていた。面倒なのでいちいち確かめないけれど、ある医者が女性のある種の病気には性行がよく効くとか言って、性交渉を勧めたり、女性の権利にめざめた人々が因習的な道徳観念を否定して、結婚や性の関係に新しい考え方を持ち込んだのだ。

 こういう背景があったせいなのだろうか、「堕落した女」というテーマはイギリスでも大流行した。その手の劇のあまりの猖獗ぶりに、「ピーター・パン」の作者バリーは「アリス」という劇を書いている。二十歳前のあるうら若き乙女は、友人と週に四度も五度も「堕落した女」を扱う劇を見ている。夫が出てきて、妻が出てきて、妻が知り合いの男と不倫するという、おきまりのパターンの演劇だ。それによって想像力を刺激されたのだろうか、彼女は自分の母も知り合いの男と不倫をしていると考えるようになる。それくらい「堕落した女」は九〇年代から二十世紀のごく初期の頃までおおはやりした。

 その中でもとりわけ大評判となったのが「タンカリー氏の後妻」である。はじめて読んだが、ギャグが織り込まれたり、適度に深刻さを装っていて、なるほど大衆にも批評家にもそれなりに受けそうな作品と感じられた。

 筋書きはこんな具合だ。上流階級のタンカリー氏はある日友人を招いて、自分が再婚する予定であることをもらす。しかし相手が問題だ。後妻となるのは、過去においていろいろ男といかがわしい噂のあるポーラという女だ。しかも彼女は下層階級に属する。しかし少々お坊ちゃま的なナイーブさがあるタンカリー氏は、自分の愛を貫き、彼女と結婚する。

 当然予想されることだが、しばらくするとポーラはこの結婚生活に退屈しはじめる。とくにタンカリー氏が最初の妻とのあいだにもうけた娘、つまりポーラにとっては継娘になるのだが、この娘がポーラになつかない。険悪な態度を取るわけではないけれど、なんともよそよそしいのである。

 さて、ここで問題が起きる。娘は友人と一緒にパリへ旅行に行き、そこである軍人と知り合い恋に陥りいる。この軍人というのが、ポーラが昔つきあっていた男なのである。ポーラは娘に軍人の中を裂こうとするが、結局は自殺してしまう。

 粗筋を書いていても最後の自殺がいかにも唐突に響く。昔の恋人が継娘の結婚相手になる、と
ポーラを演じたパトリック・キャンベル
いう事態は確かにショッキングかもしれないが、ポーラはそれで自殺するほど動揺するタマではないはずである。しかしそれが自殺してしまうというところに、ある種の純潔さを暗示しようとしているのだろうか。正直言ってどうもピンとこない。

 この劇を読み終わってからしばらく考えていたのだが、このピンとこない感覚はどこかで味わったことがあるという気がしてきて、ふと夏目漱石の「虞美人草」を思い出した。そういえば、あの作品の最後で藤尾が死ぬのもどうも理解ができなかった。はっきり言って藤尾は魅力的な近代的女性である。これからの世界でのしていこうとしている女なのである。一方、小夜子はたかが田舎娘である。その貧相なこと、藤尾の敵じゃない。小野さんが小夜子より藤尾に魅力を感じるのは当たり前じゃないか。しかし作者はどうしても藤尾を悪者にしたかったらしい。それで彼女を殺してしまうのである。しかし無理に彼女を殺してしまうものだから、読者には(すくなくとも私には)どうもピンとこない、という印象を与えてしまうのだと思う。

 「タンカリー氏の後妻」も同じじゃないだろうか。ポーラは罪の意識と言うより、何かイデオロギーのようなものに殺されたのじゃないだろうか。

Tuesday, August 15, 2017

「マスター・クリスチャン」マリー・コレーリ作

The Master-Christian (1900) by Marie Corelli

 正直に言って無駄に長い小説だった。前に語られたことがしつこく、何度も繰り返され、思わず好い加減にしてくれと叫びたくなった。よくわからないが、連載もので、読者の記憶を新たにするために繰り返しが多くなったのだろうか。

 長大な小説だが肝腎な部分だけ筋を抜き出すとこうなる。枢機卿のフェリックスがあるとき教会の前で一人の男の子を保護する。実はこの男の子は天使が姿を変えて地上に現れたもので、不思議な力を持っている。もちろんフェリックスはそんなことなど知らない。

 滞在先でフェリックスは、貧しい子供たちから、友達の中に足のきかない子がいるから、治るように祈ってくれないかと頼まれる。子供たちは偉い枢機卿が祈れば、神様はきっと足のきかない子供を元気な身体に戻してくれると考えていたのだ。フェリックスは信仰が厚く、人格の優れた人ではあるけれど、自分の祈りで病を治すことはとてもできないと正直に言う。しかし祈るだけは祈ってみようと約束する。

 ところが祈ってしばらくすると足の悪い子供は、本当に動けるようになったのだ。もちろんフェリックスに保護された天使のおかげなのだが、人々は、フェリックスが軌跡を起こしたと大騒ぎする。

 さて、この噂がローマの法王の耳にとどく。マリー・コレーリが描くローマの法王庁は、実にいやな人間どもの巣窟である。とにかく金に汚い。がめつい。自分たちの利益のために陰謀を巡らす。スパイを派遣することも平気だ。キリスト教の根本的な思想なんてどうでもいい。彼らにとっては自分たちが豊かになり、自分たちの身分が保障されることが何よりも大事なのだ。

 彼らはフェリックスを法王庁に呼びつけ、彼が起こした奇蹟の取り調べを行おうとする。ところがフェリックスと一緒に来た、男の子の姿をした天使が、烈々火を吐くような言葉遣いで法王と法王庁を批判するのだ。これがきっかけとなって法王庁はフェリックスと男の子を迫害する計画を立てる。そして後者の二人は命からがらイタリアを脱出することになる。

 これがメインの筋で、その他にフェリックスの姪で画家のアンジェラの話、革命家の話など、いくつかのサブ・プロットが存在する。

 宗教改革が起きるときは、いつも「今の信仰の形は、形式にとらわれている。信仰を信者の心に取り返さなければならない」と言われる。マリー・コレーリが描き方を見ると、法王庁は物質主義と拝金主義に陥って、本来の信仰心を失っている。それに対立するのは信仰心をみずからの中にたもっている人々である。つまり作者はこの作品で宗教改革の必要を説いていると言っていいだろう。これは他の作品でも作者が繰り返し主張していることだ。ただ、この主張はあまりにもまっとうすぎて、すくなくとも私にはひどく「くさい」ものに感じられる。マリー・コレーリの思想の幼稚さが出ているように思う。

 アンジェラの話はいわゆる当時の「新しい女」を擁護するような内容になっている。従来女は結婚して良人のよき慰め手、パートナーとなるべきと考えられていたが、十九世紀の後半になるとそれに異議を唱える人々が出てくる。とくに一八九〇年代には、そういう人々が大勢あらわれ、新聞や雑誌で揶揄的に言及されたものだ。アンジェラは画家で、物語の時点で大作の製作に取りかかっている。完成したそれを見るとキリストを描いたすばらしい傑作である。ところが彼女の恋人は(恋人も画家だ)、それを見て、アンジェラの才能に嫉妬し、彼女を殺そうとするのである。彼女は男の子の姿をした天使のおかげで、一命を取り留めるのだが、この挿話で言わんとすることは非常に明瞭だ。女であっても男以上の創造的才能を発揮することができる。決して女は家庭の守り手で終わる存在ではないということだ。

 「新しい女」が登場し出すと、とたんに世の中には「女は男よりも劣った性である」といった言説があらわれたが、そうした男尊女卑の考え方にマリー・コレーリは真っ向から対立している。いささか単純すぎる図式的な思考とはいえ、一九〇〇年の社会状況をよく示す物語にはなっている。
 

Saturday, August 5, 2017

「文化における快楽原理――持ち主のいない幻想」 ロベルト・プファーラー (その三)

On the Pleasure Priciple in Culture -- Illusions without Owners by Robert Pfaller

 PCがいかれてしまったので、買い換えることにした。貧乏な私にとって万単位の買い物は痛い。何度も何軒も電気屋を訪れ、慎重に機種選びをしたので、時間がかかってしまった。久しぶりのブログ更新である。しかしPCは変わったが、私の頭は変わらないので、内容に清新さはない。

 「転移された信」について考えていたのだが、「私」と「転移された信」との関係はパラドキシカルである。それは同一性を持っている。なぜなら「転移された信」は「私」の信であるのだから。それは非同一である。なぜなら「転移された信」は「私」の外部に存在するもの、「私」が信じていない「信」であるから。

 「私」と「転移された信」のあいだにはこの矛盾する関係が同時に成立している。

 この関係に気がついて、私はシェイクスピアの「冬物語」を思い出した。この劇は二人の王の関係を描いたものである。二人の王は小さい頃から一緒に育ち、「双子のように」、あるいは「一本の木の二本の枝のように」そっくりなのだ。もちろん彼らは実際に双子なのではない。地球の反対にある国同士の王なのである。しかし両者は大きくなっても「無限に遠く離れていながら、常に手を取り合っているような関係」を保っているのだ。私はこの二人の王の関係を読みながら、考えこんだ。「双子」、「一本の木の二本の枝」、「無限に遠く離れていながら、常に手を取り合っているような関係」、これは何を意味するのだろうと。それは端的にこういう問いを発していると思う。彼らは一なるものなのか、それとも他なるものなのか。双子は一人なのか、それとも二人の異なる人間なのか。一本の木の二本の枝は、一つの木なのか、それとも異なる二つの枝なのか。無限に遠く離れている、とは、両者の間に決定的な距離、差異があることを意味するだろうが、同時に手を取り合っている、とは、両者の間に距離も差異もないことを意味するだろう。どうも二人の王の描写は、一であるとも二であるとも決定できない状態を表しているのではないか。彼らは一体、すなわち同一でありつつ、かつ、同一ならざるものでもある。同一なものが内的なずれをかかえて、二つのものに見えているのではないか。

 この関係が「私」と「転移された信」の関係とそっくりなのはわかってもらえると思う。

 シェイクスピアの「冬物語」からはさらに重要なことがわかる。同一なるものの内部にある「ずれ」は、女性によって占められる位置なのである。二人の王の一方が他方を訪ねて楽しく交流を深めている。ついに一方の王が自国に帰らなければならない時が来る。そのとき、彼をもてなしていたほうの王は、もう少しだけ滞在を延ばしてはどうだろうと言う。相手がやはり帰ると言うので、もてなしていたほうの王は妻に向かって、おまえがわたしに代わって彼を説得してくれないかと頼む。妻の説得は功を奏し、客の側の王はもうしばらく滞在を延ばすことになる。

 この挿話は何を意味するだろう。妻が二人の王を「結び合わす」ということだ。

 しかし妻が説得に成功したとたん、夫である王は疑心暗鬼にとらわれる。あまりにも妻は友人となれなれしいのではないか。二人は不貞をはたらいているのではないか。突然そう考えた王は友人と妻を裏切りの罪で捕まえようとする。

 妻が両者を「結び合わせた」その瞬間に、彼女は両者を「切断」するものとしてもはたらくのである。

 妻(女)は王(男)の同一性の中にある「ずれ」である。それは同一性を成立させているものでもあり、同時にそれを不可能にしているものでもある。

 「私」と「転移された信」においても同じような三者関係が見られないだろうか。「私」と「転移された信」は妻(女)によって媒介されている。それは両者を切断し、結合する役割を果たしている。

 シェイクスピアのことはずっと昔に考え、エマニュエル・レヴィナスの父と子の議論と関係づけたこともある。レヴィナスにとって父と子は同一にして同一ならざるものなのだ。レヴィナスは明示的に言ってはいなかったと思うけど、実はこの関係には第三項が隠されている。母の存在である。母の存在が父の子の同一性を可能にし、また両者を決定的に切断するのだ。

 私はプファーラーの本を読みながらこの三者関係のことを思い出し、いったいこれらがどういうつながりを持っているのだろうと考えこんだ。今も考えこんでいる。思考の渦と渦がぶつかりあって、なんだか海底の深みに呑みこまれそうな気がする。