マルクスの議論は多岐にわたり、彼が溜め込んでいる知識の膨大さがよくわかった。とてもそのすべては私にはわからないし、それ故紹介もできない。ここに書いたのは彼の議論の急所と私が考える部分だけである。そこをもう一度整理しておきたい。
「パリの秘密」というメロドラマはイデオロギー装置である。それは人々にブルジョア的な観念を植えつけようとするものだ。ブルジョア的な観念とはとりわけ道徳とか信仰のことである。これをブルジョア以外の、その支配下にある人々に教えこむこと。下層階級からしてみれば、「外部の意識」を与えられることである。この「外部の意識」が当然であり、「自然」なのだということを下層階級に納得させるために、ブルジョアはさまざまな脅し(牧師の説教とか)や社会機構(警察とか牢獄とか)を使う。
ところで一方で、ブルジョアたちはブルジョア的な観念を信じているのかというと、それはとんでもない間違いである。ルドルフは自分ではブルジョア的な観念を信じていると思っている。もしかしたら本気で自分は信仰と道徳のかたまりだと思っているのかもしれない。しかし彼はあきらかに私的な利害関係で動いている。どうやら自分が私的な利害で動いていることに気がつかず、ブルジョア的価値観を世界に広げるために自分は働いていると考えているらしい。マルクスの「パリの秘密」論でもっとも肝腎な論点はここだ。マルクスは意識と、行為の外形とのあいだにあるギャップを知っていたのだと思う。
「神聖家族」のなかで語られているわけではないが、読んでいて私が考えたことについても書いておこう。「パリの秘密」はルドルフを善であり英雄であるとしている。彼はブルジョア的な観念を世界に広めるために努力している。しかし同時にこの作品は、「じつはそうでない」という秘密ももらしてしまっている。マルクスのように細かく読めば、ルドルフがまったく善ではなく、英雄でもないことがわかるように書かれている。いったいこれはどういうことなのか。なぜ作者はブルジョア的観念を世界に広める善人、かつ英雄として描かなかったのか。彼のうっかりなのか、それともイデオロギーはおのずとその限界をあらわしてしまうものなのか。
私は後者なのだと考える。つまりイデオロギーは自分を規定し、規定しながらその限界を提示してしまうのである。その限界の読み取りは必ずしも容易ではないけれど、しかし可能である。たとえば時代の変遷がそれを可能にすることもあるだろう。実際、十九世紀末においては、ルドルフを善人・英雄と読み取る輩がいて、マルクスはそれを痛烈に批判するためにこの論文を書いたのである。しかし今、「パリの秘密」を読むとどうだろう。すくなくとも私はルドルフを嫌悪した。ルドルフが怪力のやくざ者を捕らえ、目をつぶしてしまう場面など、反吐がでるくらいだ。こんなふうに時代が変われば感性が変わり、その作品の限界が見えてくることがある。
もう一つ考えたことがある。メロドラマをいろいろ読み返しているうちに、どうもブルジョア的な価値観を俗っぽい形で提示したものと、特徴付けることができそうな気がしてきた。しかしメロドラマというのは、批評家によってもっとも批判・非難されるものである。「あれはメロドラマだ」といえば、あの作品はくだらないと言うに等しい。では批評家はブルジョア的な価値を否定しているのかというと、そうでもない。だいたい彼らはブルジョアに属する人々である。ブルジョアがブルジョアの価値観を貶める? これはどういうことなのか。
私の疑問が筋違いなものではないと仮定して考えるなら、二つの理由がすぐに思いつく。一つはマルクスが活躍した頃にはもうメロドラマがステレオタイプ化していたということ。なにしろフランス革命のあとに出てきた形式だから、生まれてもう百年が経つわけだ。いやになるのも当然である。
もう一つの理由は、ブルジョアがブルジョアの価値観を称賛するなど、いかにも恥ずかしい行為である。最近はそうでもないようだが、この頃はまだ知的な慎みというものがあったのだろう。(日本文化はクールだ、などと、日本政府が言うのは恥ずかしいことである)
Saturday, March 25, 2017
Monday, March 20, 2017
「神聖家族」 マルクス・エンゲルス (その三)
ルドルフの慈善は利己的な理由からなされている。彼が悪人を裁くときも、一見するとそれは正義のためのようだが、本当は個人的な理由から行われている。つまり正義とか道徳というのは建前・カモフラージュにすぎない。聖書には「御使等いでて、義人の中より、悪人を分かつ」とか「すべて悪をおこなう人には患難と苦難とあり、凡て善をおこなう人には、光栄と尊貴と平安あらん」という言葉があるが、
ルドルフは世界の審判者を気取り、「先生」と呼ばれる悪党をわなにかけ、ひっとらえてから失明させる。しかしこの行為が単純に「悪を懲らしめる」という目的を達成するためのものと考えてはいけない。筋を説明するのは面倒くさいので省略するが、「先生」はある伯爵夫人の書類入れを持っていて、ルドルフはこの書類入れを取り返したいという個人的な利害を持っていたのである。ここが肝腎なところだ。書類入れを持っていなければ、ルドルフはこの悪党になんの関心も抱かなかったかもしれないのだ。しかもこの悪党に殺されかけたルドルフは、彼を失明させるという野蛮な懲罰を科す。この男ルドルフは性格的に野蛮と言わざるをえない。しかし彼は「自分の邪悪な情熱の爆発を、悪人の熱情にたいする爆発であるように、自分自身にも他の人々にも示す」(「神聖家族」からの引用)のである。彼は「先生」に残虐な刑を科すにあたって、異端審問をおこなう裁判所のようなセッティングをととのえ、わざと「おちついた、ものがなしい、心をしずめた」さまを見せるのだ。
ルドルフの刑法理論の二重性についてマルクスは非常にわかりやすく、こう書いている。
ルドルフは自分でこのような御使のつもりでいる。彼は義人のなかより悪人をわかち、悪人を罰し、善人にむくいるために、世のなかへでかける。善悪の観念は彼の弱い頭脳に非常な感銘をあたえたので、彼は生身のサタンがいるものと信じ、ボン大学の故ザック教授のように、悪魔を生けどりにしたいとおもう。他方ではこれと反対に、悪魔の対立者である神を小規模に摸倣しようとつとめる。彼は「摂理の役割をいささか演じること」がすきだ。現実のうちでは、すべての区別が、ますます貧富の区別に融合するように、理念のうちではすべての貴族主義的な区別が、善と悪の対立に解消する。この区別は、この貴族主義者が自分の偏見にあたえる最後の形態である。ルドルフは自分は善人のつもりでいる。悪人が存するのは、自分が卓越しているという自己満足を彼ルドルフにあたえんがためである。マルクスは痛烈な言葉でルドルフを批判している。まずルドルフの正義が本質的に利己的なものであることを示唆する例をひとつ引こう。彼は物語の冒頭で雛菊に出会い、彼女の不幸な生い立ちを聞いて涙がこぼれるくらい感動する。そして雛菊を虐待した育ての親の邪悪さに興奮し、おごそかに従者にむかって言う。「おまえも知っているように、ある復讐は、わたしにはたいへん貴重なのだ。ある苦痛はたいへん大切なのだ」そう言いながら、悪魔的に顔をしかめて見せたので、従者はぎょっとして「おお、殿下!」と思わず叫んでしまう。悪人に苦難を与えるという高貴な行為の背後に、悪魔的ななにかが潜んでいることを露見させる一瞬である。
ルドルフは世界の審判者を気取り、「先生」と呼ばれる悪党をわなにかけ、ひっとらえてから失明させる。しかしこの行為が単純に「悪を懲らしめる」という目的を達成するためのものと考えてはいけない。筋を説明するのは面倒くさいので省略するが、「先生」はある伯爵夫人の書類入れを持っていて、ルドルフはこの書類入れを取り返したいという個人的な利害を持っていたのである。ここが肝腎なところだ。書類入れを持っていなければ、ルドルフはこの悪党になんの関心も抱かなかったかもしれないのだ。しかもこの悪党に殺されかけたルドルフは、彼を失明させるという野蛮な懲罰を科す。この男ルドルフは性格的に野蛮と言わざるをえない。しかし彼は「自分の邪悪な情熱の爆発を、悪人の熱情にたいする爆発であるように、自分自身にも他の人々にも示す」(「神聖家族」からの引用)のである。彼は「先生」に残虐な刑を科すにあたって、異端審問をおこなう裁判所のようなセッティングをととのえ、わざと「おちついた、ものがなしい、心をしずめた」さまを見せるのだ。
ルドルフの刑法理論の二重性についてマルクスは非常にわかりやすく、こう書いている。
ついにルドルフ自身は、彼のカトリック的刑罰理論をとりけす。彼は死刑を廃止して、刑罰をくいあらためにかえようと欲した。ただしそれは殺人者がほかの人々を殺し、ルドルフ一門のものにはさわらない場合にかぎる。ルドルフは、殺人が一族にかかるやいなや、死刑を採用する。彼には二重の立法が必要だ。一つは彼自身のために、一つは俗衆のために。これが「善良なる」ルドルフの正体であるとマルクスは言う。いや、まったくその通りだと私も思った。「パリの秘密」が出たとき、セリガ=ヴィシヌーという批評家はこの本を称賛したけれど、いま読むととても感心などはできない本である。わたしも読んでいてルドルフの残酷さの異様さに辟易としたが、作品それ自体はそれを異様とはみなしていないようなのである。私はマルクスの丁寧で説得力のある解釈に全面的に賛成する。ルドルフは金持ちのぼんぼんによくある、自己抑制のきかない、わがままな人間である。それどころか異様な復讐欲にとりつかれている。「彼はまさしくありとあらゆる悪人の情熱をそなえており、そのため他人の目玉をえぐりとるのだ。ただ僥倖と、金と、階級が、この『善人』の牢獄入りを救ったのである」
Tuesday, March 7, 2017
「神聖家族」 マルクス・エンゲルス (その二)
マルクスは雛菊の宗教教育の過程を丁寧に追い分析しているが、ここでは一気にその最後に向かおう。要するに彼女は生活者としての現実感覚を失い、「この世ならぬ」態度を取るようになる。そのきわめつけは現実との関わりをまったく絶つことである。そう、彼女は修道院に入り、そこの尼院長に昇進する。しかし彼女はそこで死んでしまうのである。マルクスはこう書いている。
マルクスは同様の分析を「匕首」に対しても行っている。彼は野育ちのやくざ者だが、ルドルフの教育によって改造され、「くいあらための生きた、ためになる実例として、なかなか信じたがらない世間の見せ物にするために」(「パリの秘密」からの引用)匕首はアフリカに送られる。そこで彼はイギリス植民地を襲う現地人と戦うのだ。彼はイギリス帝国主義の犬となる。西欧世界のキリスト教の教義を示さなければならなくなる。こうした改造のきわめつけの結果は彼の最後の場面に示される。匕首はルドルフの身代わりになって刺殺されるのだが、彼は「純粋な献身と、道徳的ブルドッグ主義の生涯をりっぱにおえた」(「神聖家族」からの引用)のだ。虫の息の匕首はルドルフにこう言う。「私みたいなミミズのようなものでも、あなた様のようなえらい殿下のお役にたつことも、たまにはあるものだといってようございましょうね」彼は犬のように屈従的な存在になってしまっていた。これがルドルフの教育の結果である。
私はアルチュセールのメロドラマ批判を紹介したとき、「外から借りてこられた意識」という考え方について説明したけれど、雛菊にとっても匕首にとってもブルジョア的な信仰心・道徳心は、まさしく外部の意識である。
ルドルフは最下層の人間であっても見どころのある人間はこのように「教育」をほどこして助ける(結局は殺されるようなものだけど)。そして悪者を成敗する。今度は成敗の場面に着目してみよう。そこにはおそるべき「すりかえ」や「ごまかし」が見られる。
しかしその前に、そもそもなぜルドルフは慈善を施すのか、マルクスがその理由をえぐり出しているのでそこを確認しておこう。ちょっと長いが引用する。
修道院生活はマリ(雛菊のこと)の個性にふさわしくない――彼女は死ぬ。キリスト教は彼女を想像のなかでなぐさめるだけである。あるいは、彼女のキリスト教的なぐさめは、まさに彼女の現実の生活と本質の絶滅――すなわち彼女の死なのである。雛菊の死が、彼女の個性の死とともに訪れるという解釈は充分な説得力がある。冒頭の、華奢でありながらも溌剌として、それなりに力強い存在であった彼女は、物語が進むに連れて、なにやら衰弱していくような印象を与える。それを彼女の宗教教育と結びつけて考えるのは当然だろうが、マルクスはそのことをじつに理路整然と、段階を負って説明している。
マルクスは同様の分析を「匕首」に対しても行っている。彼は野育ちのやくざ者だが、ルドルフの教育によって改造され、「くいあらための生きた、ためになる実例として、なかなか信じたがらない世間の見せ物にするために」(「パリの秘密」からの引用)匕首はアフリカに送られる。そこで彼はイギリス植民地を襲う現地人と戦うのだ。彼はイギリス帝国主義の犬となる。西欧世界のキリスト教の教義を示さなければならなくなる。こうした改造のきわめつけの結果は彼の最後の場面に示される。匕首はルドルフの身代わりになって刺殺されるのだが、彼は「純粋な献身と、道徳的ブルドッグ主義の生涯をりっぱにおえた」(「神聖家族」からの引用)のだ。虫の息の匕首はルドルフにこう言う。「私みたいなミミズのようなものでも、あなた様のようなえらい殿下のお役にたつことも、たまにはあるものだといってようございましょうね」彼は犬のように屈従的な存在になってしまっていた。これがルドルフの教育の結果である。
私はアルチュセールのメロドラマ批判を紹介したとき、「外から借りてこられた意識」という考え方について説明したけれど、雛菊にとっても匕首にとってもブルジョア的な信仰心・道徳心は、まさしく外部の意識である。
ルドルフは最下層の人間であっても見どころのある人間はこのように「教育」をほどこして助ける(結局は殺されるようなものだけど)。そして悪者を成敗する。今度は成敗の場面に着目してみよう。そこにはおそるべき「すりかえ」や「ごまかし」が見られる。
しかしその前に、そもそもなぜルドルフは慈善を施すのか、マルクスがその理由をえぐり出しているのでそこを確認しておこう。ちょっと長いが引用する。
貧困は、慈善家に「小説のピリッとしたところ、好奇心の満足、冒険、変装、自分の優秀さをたのしむこと、神経の激動」その他をあてがうために、意識的に逆用される。要するにルドルフは心から貧困という「無限の棄却」のなかにある人々を憐れんで彼らを助けようとするのではない。そうする過程において小説的で刺激的な冒険を楽しみ、自分の立場の優越性を感じ、味わおうとしているのである。逆に言えば、施しものをする側は自己満足につながらない慈善などはしないということだ。実際にそのような偽善的な例が「パリの秘密」のなかにはちゃんと出てくる。
これによってルドルフは、人間的貧困そのものが、施しものをもらわねばならぬような無限の棄却が、金と教養をもった貴族のあそびとして、彼らの自愛をまんぞくさせるために、彼らの傲慢心をくすぐるために、彼らのなぐさみのために役だたねばならぬという、ずっと前から暴露されていた秘密を、それと知らずに公言したのである。
ドイツのたくさんの慈善協会、フランスのたくさんの慈善団体、イギリスの多数のドンキホーテ的空想の慈善会、音楽会、舞踏会、演劇、貧民給食、それから災害者のための公共募金にいたるまでが、それ以外の意味をもつものではない。つまり、このようにして慈善も、ずっとむかしからたのしみとして組織されたのであろう。
Friday, March 3, 2017
「神聖家族」 マルクス・エンゲルス (その一)
この本はマルクスとエンゲルスの共著である。そのうち第五章と第八章でウジェーヌ・シューの「パリの秘密」が扱われている。この二章の作者はいずれもマルクスである。たんたんと議論が展開するなら読みやすいのだが、皮肉やひやかしが随所にまじっていて、ベンサムやフーリエやヘーゲルなどの哲学にも通じていないと読みこなせない。わたしはベンサムもフーリエもヘーゲルもろくに知らないので、マルクスの意図を充分に汲み取れたとはとても言えない。しかし辛抱強く読めば彼の言わんとすることは「だいたい」わかる。
マルクスはウジェーヌ・シューの「パリの秘密」をどう批判しているのか。「パリの秘密」は膨大な小説で、登場人物も多いし、彼らのあいだの関係もややこしい。しかしそれを思い切り簡略化するならゲロルトシュタインという小さなドイツの公国の侯爵ルドルフが、水戸黄門よろしく青草人とまじわりつつ冒険を重ね、、悪人を成敗し、善人を助けるという話である。この「悪人を成敗し、善人を助ける」過程で強調されるのは、道徳と信仰だ。ルドルフは下層階級に道徳と信仰を押しつけ、またそれによって彼らを裁く。
しかし第一の問題はこの道徳と信仰がブルジョア的な価値観であるということだ。下層民たちは自分たちとはおよそ縁のない人々の価値観を無理矢理押しつけられ、その結果、「匕首」と呼ばれるやくざ者や、「雛菊」と呼ばれる少女は死んでいくのである。
第二の問題は、ルドルフは道徳と信仰を理由に下層民を裁くが、実はそれは建前で、本当は私的な怨恨、激情から裁くのである。マルクスはこの出鱈目さを徹底的にえぐり出している。
第一の問題点については「雛菊」について議論を展開した部分を紹介したい。雛菊は物語の最初でルドルフが出会う貧民街の少女である。ルドルフは彼女が、行方不明となった自分の娘と同じ年齢であることから奇妙に愛着を覚える。(彼女がまさに自分の娘であったことが後に判明する)彼女は親の代わりに犯罪人の女に育てられてきたのだが、つらい人生を送ってきたにもかかわらず、「生気、精力、快活、性格のしなやかさ」を持っている。彼女の考え方は、ブルジョア的な信仰や道徳とはちがう、「人間的な」ものである。たとえば彼女は売春婦なのだが、キリスト教徒なら自分の罪深い過去を悔い改めようとするであろうが、彼女はつらいと思いつつも「すんだことはしかたがないわ」と言うのである。庶民的な処世術を感じさせるひと言である。
また牧師から「神様のお慈悲はつきることがないのだよ! 神様はあんたを、たいへんくるしい試みのなかにもお見捨てにならないで、お慈悲をお示しなされた」と言われたとき、彼女はこう反論する。「あたしは自分をあわれんでくださった方、あたしを神様のところへつれもどしてくださった方のためにお祈りをいたします」これまた素朴な、人間的な考えではないだろうか。神様は大切かもしれないが、それよりも直接彼女に親切を施してくれた人に対して、彼女は祈りで感謝の意をあらわすのである。
しかしルドルフから雛菊の宗教的教育を任されたこの牧師は、こうした異端的な彼女の考え方を少しずつ変えていこうとする。そして彼女はこんなふうに変化する。「あたしはたえずルドルフさんのことを思いました。何度もあたしは空を見あげて、神様ではなく、あの方、ルドルフさんをさがし、お礼をもうしあげようとしました。ほんとうに――神父さま、、あたしは自分がわるいとせめるのです。あたしは神様よりも、あの方のことをたくさん思いました」雛菊は貧民街の娼婦という悲しい境涯から救ってくれたルドルフに深く感謝するのだが、それが神への感謝に変わっていくというわけだ。
ここでマルクスはこう書いている。雛菊はルドルフによって与えられた「新しい幸福な境涯を、ありのままに、新しい幸福とだけ感じたこと、つまり新しい境涯に自然的な態度をとり、超自然的な態度をとらなかったことは、正しくないのだと言うことが、もうわかっている。彼女は、自分を救った人を、ありのままに彼女の救済者と考え、想像上の救済者たる神とすりかえなかったといって、もう自分をせめている。もう彼女は宗教的偽善におかされている。この偽善は、私のために他の人がつくしてくれたことを彼からとりあげて、これを神のわざとするものであり、一般的にいえば、人間のうちの人間的なものはすべて人間と縁がなく、人間のうちの非人間的なものはすべて彼の本来の性質であるとみなすのである」
「自然」とか「超自然」とかマルクスは書いているけれど、これはそれぞれ「俗なもの」、「宗教的・霊的なもの」と解しておけばいい。「あたしは自分をあわれんでくださった方、あたしを神様のところへつれもどしてくださった方のためにお祈りをいたします」と言ったころの雛菊とはずいぶん変化した。マルクスの言うように「宗教的偽善」に染まってしまった。
Photo by John Jabez Edwin Mayall - International Institute of Social History in Amsterdam, Netherlands, Public Domain, Link
マルクスはウジェーヌ・シューの「パリの秘密」をどう批判しているのか。「パリの秘密」は膨大な小説で、登場人物も多いし、彼らのあいだの関係もややこしい。しかしそれを思い切り簡略化するならゲロルトシュタインという小さなドイツの公国の侯爵ルドルフが、水戸黄門よろしく青草人とまじわりつつ冒険を重ね、、悪人を成敗し、善人を助けるという話である。この「悪人を成敗し、善人を助ける」過程で強調されるのは、道徳と信仰だ。ルドルフは下層階級に道徳と信仰を押しつけ、またそれによって彼らを裁く。
しかし第一の問題はこの道徳と信仰がブルジョア的な価値観であるということだ。下層民たちは自分たちとはおよそ縁のない人々の価値観を無理矢理押しつけられ、その結果、「匕首」と呼ばれるやくざ者や、「雛菊」と呼ばれる少女は死んでいくのである。
第二の問題は、ルドルフは道徳と信仰を理由に下層民を裁くが、実はそれは建前で、本当は私的な怨恨、激情から裁くのである。マルクスはこの出鱈目さを徹底的にえぐり出している。
第一の問題点については「雛菊」について議論を展開した部分を紹介したい。雛菊は物語の最初でルドルフが出会う貧民街の少女である。ルドルフは彼女が、行方不明となった自分の娘と同じ年齢であることから奇妙に愛着を覚える。(彼女がまさに自分の娘であったことが後に判明する)彼女は親の代わりに犯罪人の女に育てられてきたのだが、つらい人生を送ってきたにもかかわらず、「生気、精力、快活、性格のしなやかさ」を持っている。彼女の考え方は、ブルジョア的な信仰や道徳とはちがう、「人間的な」ものである。たとえば彼女は売春婦なのだが、キリスト教徒なら自分の罪深い過去を悔い改めようとするであろうが、彼女はつらいと思いつつも「すんだことはしかたがないわ」と言うのである。庶民的な処世術を感じさせるひと言である。
また牧師から「神様のお慈悲はつきることがないのだよ! 神様はあんたを、たいへんくるしい試みのなかにもお見捨てにならないで、お慈悲をお示しなされた」と言われたとき、彼女はこう反論する。「あたしは自分をあわれんでくださった方、あたしを神様のところへつれもどしてくださった方のためにお祈りをいたします」これまた素朴な、人間的な考えではないだろうか。神様は大切かもしれないが、それよりも直接彼女に親切を施してくれた人に対して、彼女は祈りで感謝の意をあらわすのである。
ここでマルクスはこう書いている。雛菊はルドルフによって与えられた「新しい幸福な境涯を、ありのままに、新しい幸福とだけ感じたこと、つまり新しい境涯に自然的な態度をとり、超自然的な態度をとらなかったことは、正しくないのだと言うことが、もうわかっている。彼女は、自分を救った人を、ありのままに彼女の救済者と考え、想像上の救済者たる神とすりかえなかったといって、もう自分をせめている。もう彼女は宗教的偽善におかされている。この偽善は、私のために他の人がつくしてくれたことを彼からとりあげて、これを神のわざとするものであり、一般的にいえば、人間のうちの人間的なものはすべて人間と縁がなく、人間のうちの非人間的なものはすべて彼の本来の性質であるとみなすのである」
「自然」とか「超自然」とかマルクスは書いているけれど、これはそれぞれ「俗なもの」、「宗教的・霊的なもの」と解しておけばいい。「あたしは自分をあわれんでくださった方、あたしを神様のところへつれもどしてくださった方のためにお祈りをいたします」と言ったころの雛菊とはずいぶん変化した。マルクスの言うように「宗教的偽善」に染まってしまった。
Photo by John Jabez Edwin Mayall - International Institute of Social History in Amsterdam, Netherlands, Public Domain, Link
Thursday, February 23, 2017
「オリオール」 W.ハリソン・エインズワース作
Auriol (1844) by W. Harrison Ainsworth (1805-1882)
ファウスト伝説を主軸にしたゴシック小説である。意外と面白かったので書評を書く気になった。
エインズワースは十九世紀の中期から後期にかけて活躍した作家である。最初は法律家を目指していたようだが、性に合わず、ジャーナリズムや文学の世界に飛びこむことになる。生前はかなり人気があって、多作だったが、今は忘れられてしまった作家である。しかし彼の「ウィンザー城」はいまでもなかなかの幽霊譚だと評価されている。
「オリオール」はまず1599年から始まる。オリオール・ダーシーという若者がオールド・ロンドン・ブリッジの近くで怪我をし、錬金術師をしているお祖父さんの家へ運ばれる。この錬金術師、そのときちょうど不老長生の薬を発明したところで、喜んで飲もうとしたのだが、突然発作に襲われ薬を飲むことができなくなる。そしてオリオールがかわりにそれを飲んでしまうのである。飲むと怪我はたちまちにして癒え、彼は永遠の生を得た。
今度は舞台は1830年に移る。オリオールはあるとき暴漢に襲われ、意識を失ったまま鍛冶屋のソーニークロフトの家に運ばれる。ここで彼女の娘エッバがハンサムなオリオールに懸想するようになる。オリオールはエッバに、私のことは締めてほしい、私を愛すると大変なことが起きると言う。彼は奇怪な人物によってその運命を握られていて、彼を愛した女はみなこの奇怪な人物に奪い去られることになっているだ、と。そして実際、エッバは奇怪な人物によって誘拐され、肉体と魂を彼に引き渡すという証文にサインさせられるのである。
さて今度は1800年が舞台となる。ここで前に出た奇怪な人物がサイプリアン・ルージュモントという貴族であることが分かる。彼は悪魔から得た財産を使ってオリオールとこんな契約をかわす。おまえにわたしの贅沢な屋敷と十二万ポンドの現金をやろう。そのかわりおまえを愛した女をわたしは生贄としてもらうぞ、と。オリオールはそのときエリザベスという女と恋をしていたが、金がなく結婚ができないでいた。そこで悩みながらもこの契約に同意したのだが……契約が成立するとサイプリアンはさっそくエリザベスを生贄に捧げることを要求してきたのである。こうしてエリザベスは連れ去られてしまった。
最後の場面は1830年に戻る。エッバが連れ去られたあと、彼女の父や何名かの協力者がエッバを探してあやしげな屋敷に潜入する。そこでいろいろと恐ろしい目に会うのだが、ついにサイプリアンを探し出し、彼に向かってピストルを撃つ。ところがどうだろう、サイプリアンは銃弾をくらっても死なないのである。救助隊は落とし穴に落とされ、機械仕掛けの天井が徐々に彼らの頭の上に降りてくる……
と、そのとき、オリオールは眼を覚ますのである。ふと気がつくと彼がいるのは1599年の世界だ。お祖父さんの錬金術師も生きている。彼は何百年も生きた夢を見ただけなのである。
なんだその手の落ちが待ちかまえているのか、とがっかりすることはない。それまでの話はずいぶんと面白く書けている。まず雰囲気がいい。夜とか閉ざされた場所で事件が展開され、ほとんど息苦しいぐらいであるが、しかしこれがゴシック小説の書き方なのだ。物語の後半、エッバを探してあやしげな屋敷に潜入した捜索隊が、天井から降りてきた鐘状のマスクに顔をおおわれる部分などは、その異様さがウォルポールを思い起こさせる。
普通、ファウスト伝説では魂を悪魔に売り渡す代わりに現世の利得を手にする。その中には世界最高の美人も含まれているわけだ。ゲーテのファウストにしろ、マーローのファウスト博士にしろトロヤのヘレンを手に入れるし、マリー・コレーリの「悪魔の悲しみ」では主人公は当代随一の美人と結婚する。もっとも「悪魔の悲しみ」の場合、その結婚は破綻に終わるのだけれど。ところがオリオールは愛する人を悪魔のようなサイプリアンに奪われる。作者はファウスト伝説にちょっとしたひねりを加えたようだ。これも悪くない。夢から覚めたオリオールは、欲望の対象が常に奪い去られる自分の運命からなにを学んだのだろうか。

By Hablot Knight Browne (Phiz), scanned by Steven J Plunkett - Auriol by Harrison Ainsworth, early printing, Public Domain, Link
ファウスト伝説を主軸にしたゴシック小説である。意外と面白かったので書評を書く気になった。
エインズワースは十九世紀の中期から後期にかけて活躍した作家である。最初は法律家を目指していたようだが、性に合わず、ジャーナリズムや文学の世界に飛びこむことになる。生前はかなり人気があって、多作だったが、今は忘れられてしまった作家である。しかし彼の「ウィンザー城」はいまでもなかなかの幽霊譚だと評価されている。
「オリオール」はまず1599年から始まる。オリオール・ダーシーという若者がオールド・ロンドン・ブリッジの近くで怪我をし、錬金術師をしているお祖父さんの家へ運ばれる。この錬金術師、そのときちょうど不老長生の薬を発明したところで、喜んで飲もうとしたのだが、突然発作に襲われ薬を飲むことができなくなる。そしてオリオールがかわりにそれを飲んでしまうのである。飲むと怪我はたちまちにして癒え、彼は永遠の生を得た。
今度は舞台は1830年に移る。オリオールはあるとき暴漢に襲われ、意識を失ったまま鍛冶屋のソーニークロフトの家に運ばれる。ここで彼女の娘エッバがハンサムなオリオールに懸想するようになる。オリオールはエッバに、私のことは締めてほしい、私を愛すると大変なことが起きると言う。彼は奇怪な人物によってその運命を握られていて、彼を愛した女はみなこの奇怪な人物に奪い去られることになっているだ、と。そして実際、エッバは奇怪な人物によって誘拐され、肉体と魂を彼に引き渡すという証文にサインさせられるのである。
さて今度は1800年が舞台となる。ここで前に出た奇怪な人物がサイプリアン・ルージュモントという貴族であることが分かる。彼は悪魔から得た財産を使ってオリオールとこんな契約をかわす。おまえにわたしの贅沢な屋敷と十二万ポンドの現金をやろう。そのかわりおまえを愛した女をわたしは生贄としてもらうぞ、と。オリオールはそのときエリザベスという女と恋をしていたが、金がなく結婚ができないでいた。そこで悩みながらもこの契約に同意したのだが……契約が成立するとサイプリアンはさっそくエリザベスを生贄に捧げることを要求してきたのである。こうしてエリザベスは連れ去られてしまった。
最後の場面は1830年に戻る。エッバが連れ去られたあと、彼女の父や何名かの協力者がエッバを探してあやしげな屋敷に潜入する。そこでいろいろと恐ろしい目に会うのだが、ついにサイプリアンを探し出し、彼に向かってピストルを撃つ。ところがどうだろう、サイプリアンは銃弾をくらっても死なないのである。救助隊は落とし穴に落とされ、機械仕掛けの天井が徐々に彼らの頭の上に降りてくる……
と、そのとき、オリオールは眼を覚ますのである。ふと気がつくと彼がいるのは1599年の世界だ。お祖父さんの錬金術師も生きている。彼は何百年も生きた夢を見ただけなのである。
なんだその手の落ちが待ちかまえているのか、とがっかりすることはない。それまでの話はずいぶんと面白く書けている。まず雰囲気がいい。夜とか閉ざされた場所で事件が展開され、ほとんど息苦しいぐらいであるが、しかしこれがゴシック小説の書き方なのだ。物語の後半、エッバを探してあやしげな屋敷に潜入した捜索隊が、天井から降りてきた鐘状のマスクに顔をおおわれる部分などは、その異様さがウォルポールを思い起こさせる。
普通、ファウスト伝説では魂を悪魔に売り渡す代わりに現世の利得を手にする。その中には世界最高の美人も含まれているわけだ。ゲーテのファウストにしろ、マーローのファウスト博士にしろトロヤのヘレンを手に入れるし、マリー・コレーリの「悪魔の悲しみ」では主人公は当代随一の美人と結婚する。もっとも「悪魔の悲しみ」の場合、その結婚は破綻に終わるのだけれど。ところがオリオールは愛する人を悪魔のようなサイプリアンに奪われる。作者はファウスト伝説にちょっとしたひねりを加えたようだ。これも悪くない。夢から覚めたオリオールは、欲望の対象が常に奪い去られる自分の運命からなにを学んだのだろうか。

By Hablot Knight Browne (Phiz), scanned by Steven J Plunkett - Auriol by Harrison Ainsworth, early printing, Public Domain, Link
Saturday, February 18, 2017
「リリスの魂」 マリー・コレーリ
The Soul of Lilith (1892) by Marie Corelli (1855-1924)
以前書評した「ジスカ」が非常に面白かったので、コレーリの作品をふたつ読んでみた。「アーダス」と「リリスの魂」である。ただ両者はよく似たテーマを扱った物語で、どちらかと言えば後者のほうが出来はいいので、ここでは「リリスの魂」を紹介する。
三巻本の長い話だが、主人公はエルラミという東洋人の科学者である。マリー・コレーリの物語ではよく科学と信仰が対立している。彼女が生きた時代は科学者が傲慢な発言をしていた時代で、たとえばウィリアム・トムソン(1824-1907)という物理学者などは、物理的事実の根底にある大原則はしっかりと定められた、あとは小数点以下の数値を精密に決定するだけだ、などとまで言っている。これに対しては当然ながら反発が起こり、科学では解明できない神秘への関心も高まった。それがスピリチュアリズムで、コナン・ドイルなどもこれには深甚な関心を寄せている。マリー・コレーリも科学が嫌いである。それは愛とか魂とか死後の世界などといったロマンチックな夢を否定するからだ。エルラミは徹底して科学の力を信じている。しかも実際に一度死んだ女の子を薬によって生き返らせるほどの科学的知識を持っている。このエルラミによって生き返った女の子が表題のリリスだ。
生き返った、といっても、普通の人間のように動きまわることはできない。彼女はただ死者のように寝ているだけである。それでも息をし、成長もするのだ。いま彼女は小さな女の子から美しい女へと育った。エルラミが話しかけると、彼女はその声に応える。そしてエルラミを困惑させるようなことを言うのである。
リリスは死は存在しないという。魂がべつの世界へ移動するだけなのだという。それは光に満ちた宇宙であり、エルラミの家のように薄暗くはない。ところがリリスは科学の力によって命を長らえさせられ、肉体を保持され、魂がべつの世界へ完全に移行することができないのだ。
肉体は魂の牢獄である、という考え方がプラトン以来あるけれど、「リリスの魂」の根底にあるのはこの思想だと思う。魂は死んだとき薄汚れた肉体からイデアの世界に移行するのだ。しかしリリスはその移行を邪魔されている。彼女は現世と来世の中間地帯にいて、来世という光の世界へ行きたいのに、それがままならないのである。
「リリスの魂」も「アーダス」も科学と神秘思想の対立に関していろいろな議論を長々と展開している。物質論的、現世主義的、拝金主義的な当時の考え方を批判するという点で、神秘思想はある程度有効である。しかしどちらの小説を読んでも私はあまり感銘を受けなかった。なぜならこのような対立は贋の対立だからである。べつにデリダのように二項対立を脱構築しなくてもいい。物質的で、現世主義的で、拝金主義的な人間が、コレーリの説くような神秘思想、イデア的な世界に親しむことはよくあるということに気づけば、両者の間に本質的な対立がないことがわかるだろう。たとえば鈴木大拙なんぞは、仏教哲学者で深遠な神秘思想の持ち主だったが、同時に彼はその神秘思想をもっていかに中国人を殺すかと言うことを軍人に説いていたのである。神秘主義と血なまぐさい現実主義とは対立するどころかつながっているし、補完し合ってすらいる。がめつく金儲けにはげむ社長さんが、熱心に写経したり、教会に通うことはよくあることである。
「リリスの魂」を読んでいてつまらないのは、作者がそのことに気づいていないからである。彼女の批判を読んでも、結局のところ、私はブルジョア世界の外に出たという気がしない。それどころかブルジョア的な価値観を強化しているのではないのかという疑いさえ抱く。
以前書評した「ジスカ」が非常に面白かったので、コレーリの作品をふたつ読んでみた。「アーダス」と「リリスの魂」である。ただ両者はよく似たテーマを扱った物語で、どちらかと言えば後者のほうが出来はいいので、ここでは「リリスの魂」を紹介する。
三巻本の長い話だが、主人公はエルラミという東洋人の科学者である。マリー・コレーリの物語ではよく科学と信仰が対立している。彼女が生きた時代は科学者が傲慢な発言をしていた時代で、たとえばウィリアム・トムソン(1824-1907)という物理学者などは、物理的事実の根底にある大原則はしっかりと定められた、あとは小数点以下の数値を精密に決定するだけだ、などとまで言っている。これに対しては当然ながら反発が起こり、科学では解明できない神秘への関心も高まった。それがスピリチュアリズムで、コナン・ドイルなどもこれには深甚な関心を寄せている。マリー・コレーリも科学が嫌いである。それは愛とか魂とか死後の世界などといったロマンチックな夢を否定するからだ。エルラミは徹底して科学の力を信じている。しかも実際に一度死んだ女の子を薬によって生き返らせるほどの科学的知識を持っている。このエルラミによって生き返った女の子が表題のリリスだ。
生き返った、といっても、普通の人間のように動きまわることはできない。彼女はただ死者のように寝ているだけである。それでも息をし、成長もするのだ。いま彼女は小さな女の子から美しい女へと育った。エルラミが話しかけると、彼女はその声に応える。そしてエルラミを困惑させるようなことを言うのである。
リリスは死は存在しないという。魂がべつの世界へ移動するだけなのだという。それは光に満ちた宇宙であり、エルラミの家のように薄暗くはない。ところがリリスは科学の力によって命を長らえさせられ、肉体を保持され、魂がべつの世界へ完全に移行することができないのだ。
肉体は魂の牢獄である、という考え方がプラトン以来あるけれど、「リリスの魂」の根底にあるのはこの思想だと思う。魂は死んだとき薄汚れた肉体からイデアの世界に移行するのだ。しかしリリスはその移行を邪魔されている。彼女は現世と来世の中間地帯にいて、来世という光の世界へ行きたいのに、それがままならないのである。
「リリスの魂」も「アーダス」も科学と神秘思想の対立に関していろいろな議論を長々と展開している。物質論的、現世主義的、拝金主義的な当時の考え方を批判するという点で、神秘思想はある程度有効である。しかしどちらの小説を読んでも私はあまり感銘を受けなかった。なぜならこのような対立は贋の対立だからである。べつにデリダのように二項対立を脱構築しなくてもいい。物質的で、現世主義的で、拝金主義的な人間が、コレーリの説くような神秘思想、イデア的な世界に親しむことはよくあるということに気づけば、両者の間に本質的な対立がないことがわかるだろう。たとえば鈴木大拙なんぞは、仏教哲学者で深遠な神秘思想の持ち主だったが、同時に彼はその神秘思想をもっていかに中国人を殺すかと言うことを軍人に説いていたのである。神秘主義と血なまぐさい現実主義とは対立するどころかつながっているし、補完し合ってすらいる。がめつく金儲けにはげむ社長さんが、熱心に写経したり、教会に通うことはよくあることである。
「リリスの魂」を読んでいてつまらないのは、作者がそのことに気づいていないからである。彼女の批判を読んでも、結局のところ、私はブルジョア世界の外に出たという気がしない。それどころかブルジョア的な価値観を強化しているのではないのかという疑いさえ抱く。
Wednesday, February 8, 2017
番外 読書「刑」
歴史的なアフリカン・アメリカンの学校校舎に五人の少年が人種差別的、反ユダヤ的、そして猥褻な落書きをして捕まった。彼らに対する判決がヴァージニア州の裁判所で下された。裁判官は五人の少年に三十五冊の本を読み、十四の映画を見、二つの博物館を訪ね、「性、人種、宗教、偏見への理解を深めるために」レポートを一本書くように命じた。
検察のひとりの女性は司書の娘で、なにも知らないバカな少年たちを教育するにはいい機会であると、このような「刑」を求めたのだった。
ガーディアン紙の記事によると、読書を義務づける判決が出たのはこれが最初ではないそうである。去年の九月、イタリアで、売春をはたらいていた十五歳の少女が三十冊のフェミニズム関係の本を読まされることになった。ところがどういうわけか、この少女を買ってセックスをしようとした三十五歳の男にはただ二年間の禁固刑が下っただけだった。
私はこの記事を読んで二つのことを考えた。
まず第一に読書を「刑」に含めることは非常によい。もっとこのような判決が増えることを期待する。強制的な読書というのは苦痛であり、受刑者に砂を噛むような思いを味わわせるだけになるのかもしれない。そしてその結果いっそう偏見に凝り固まることになるのかもしれない。けれどもその一方で何人かは砂のなかにキラリと光る金を見つけ、それが心になにかを植えつけ、彼らを変えていくかもしれない。どちらの目が出るかはわからないが、とにかく教育の機会を与えることはすばらしいことである。ただ罰するための刑は受刑者を変えることはないだろう。
読書「刑」が増えて、新聞にもその「強制的」読書リストが公表されるようになれば、一般人も興味を惹かれて本を読むようになるかもしれない。自分が知らない「名著」を囚人が読んでいる、となると、勉強熱心な人なら読書の意欲をかき立てられるはずである。また読書リストに対して議論が湧き起こるかもしれない。この本よりもあの本のほうが興味深いし、テーマを深く掘り下げている、などといった具合に。犯罪から文化が生まれるなら、こんなに喜ばしいことはない。
もう一つ考えたことがある。それはイタリアの売春婦には読書が課せられたが、客の大人のほうにはそれがなかったという点にかかわる。なぜ大人には読ませないのか。子供はまだ知識が足りないが、大人には充分な分別が備わっている、あるいは大人はもう教育の余地がないとでも考えているのだろうか。永山則夫の例もあるように、大人だって教育を受けることは大切である。かりに受刑者が大学教授であってもだ。
司法と教育がこのように合致することに不安がないわけではない。たとえば国家が極端に内向き・保守化して、司法が受刑者に差別的書籍を強制的に読ませるようになったらどうなるだろうか。あるいは政府のイデオロギーに合致した書籍ばかりを読ませるようになったとしたら。わたしはそれでもかまわないと思う。読書、書籍というものは不思議なもので、どんなものも思考を鍛錬する。イデオロギーの別を問わず、すぐれたものほど思考を多面化し、複雑化する。
さて今回ヴァージニアの裁判所が五人の少年に読むことを課した三十五冊の本は次の通りである。
1. The Color Purple by Alice Walker
2. Native Son by Richard Wright
3. Exodus by Leon Uris
4. Mitla 18 by Leon Uris
5. Trinity by Leon Uris
6. My Name Is Asher Lev by Chaim Potok
7. The Chosen by Chaim Potok
8. The Sun Also Rises by Ernest Hemingway
9. Night by Elie Wiesel
10. The Crucible by Arthur Miller
11. The Kite Runner by Khaled Hosseini
12. A Thousand Splendid Suns by Khaled Hosseini
13. Things Falls Apart by Chinua Achebe
14. The Handmaid’s Tale by Margaret Atwood
15. To Kill a Mockingbird by Harper Lee
16. I Know Why the Caged Bird Sings by Maya Angelou
17. The Immortal Life of Henrietta Lacks by Rebecca Skloot
18. Caleb’s Crossing by Geraldine Brooks
19. Tortilla Curtain by TC Boyle
20. The Bluest Eye by Toni Morrison
21. A Hope in the Unseen by Ron Suskind
22. Down These Mean Streets by Piri Thomas
23. Black Boy by Richard Wright
24. The Beautiful Struggle by Ta-Nehisi Coates
25. Eichmann in Jerusalem by Hannah Arendt
26. The Underground Railroad by Colson Whitehead
27. Reading Lolita in Tehran by Azar Nafisi
28. The Rape of Nanking by Iris Chang
29. Infidel by Ayaan Hirsi Ali
30. The Orphan Master’s Son by Adam Johnson
31. The Help by Kathryn Stockett
32. Cry the Beloved Country by Alan Paton
33. Too Late the Phalarope by Alan Paton
34. A Dry White Season by Andre Brink
35. Ghost Soldiers by Hampton Sides
検察のひとりの女性は司書の娘で、なにも知らないバカな少年たちを教育するにはいい機会であると、このような「刑」を求めたのだった。
ガーディアン紙の記事によると、読書を義務づける判決が出たのはこれが最初ではないそうである。去年の九月、イタリアで、売春をはたらいていた十五歳の少女が三十冊のフェミニズム関係の本を読まされることになった。ところがどういうわけか、この少女を買ってセックスをしようとした三十五歳の男にはただ二年間の禁固刑が下っただけだった。
私はこの記事を読んで二つのことを考えた。

By Eneas De Troya from Mexico City, México - Lectura para unas vidas, CC BY 2.0, Link
まず第一に読書を「刑」に含めることは非常によい。もっとこのような判決が増えることを期待する。強制的な読書というのは苦痛であり、受刑者に砂を噛むような思いを味わわせるだけになるのかもしれない。そしてその結果いっそう偏見に凝り固まることになるのかもしれない。けれどもその一方で何人かは砂のなかにキラリと光る金を見つけ、それが心になにかを植えつけ、彼らを変えていくかもしれない。どちらの目が出るかはわからないが、とにかく教育の機会を与えることはすばらしいことである。ただ罰するための刑は受刑者を変えることはないだろう。
読書「刑」が増えて、新聞にもその「強制的」読書リストが公表されるようになれば、一般人も興味を惹かれて本を読むようになるかもしれない。自分が知らない「名著」を囚人が読んでいる、となると、勉強熱心な人なら読書の意欲をかき立てられるはずである。また読書リストに対して議論が湧き起こるかもしれない。この本よりもあの本のほうが興味深いし、テーマを深く掘り下げている、などといった具合に。犯罪から文化が生まれるなら、こんなに喜ばしいことはない。
もう一つ考えたことがある。それはイタリアの売春婦には読書が課せられたが、客の大人のほうにはそれがなかったという点にかかわる。なぜ大人には読ませないのか。子供はまだ知識が足りないが、大人には充分な分別が備わっている、あるいは大人はもう教育の余地がないとでも考えているのだろうか。永山則夫の例もあるように、大人だって教育を受けることは大切である。かりに受刑者が大学教授であってもだ。
司法と教育がこのように合致することに不安がないわけではない。たとえば国家が極端に内向き・保守化して、司法が受刑者に差別的書籍を強制的に読ませるようになったらどうなるだろうか。あるいは政府のイデオロギーに合致した書籍ばかりを読ませるようになったとしたら。わたしはそれでもかまわないと思う。読書、書籍というものは不思議なもので、どんなものも思考を鍛錬する。イデオロギーの別を問わず、すぐれたものほど思考を多面化し、複雑化する。
さて今回ヴァージニアの裁判所が五人の少年に読むことを課した三十五冊の本は次の通りである。
1. The Color Purple by Alice Walker
2. Native Son by Richard Wright
3. Exodus by Leon Uris
4. Mitla 18 by Leon Uris
5. Trinity by Leon Uris
6. My Name Is Asher Lev by Chaim Potok
7. The Chosen by Chaim Potok
8. The Sun Also Rises by Ernest Hemingway
9. Night by Elie Wiesel
10. The Crucible by Arthur Miller
11. The Kite Runner by Khaled Hosseini
12. A Thousand Splendid Suns by Khaled Hosseini
13. Things Falls Apart by Chinua Achebe
14. The Handmaid’s Tale by Margaret Atwood
15. To Kill a Mockingbird by Harper Lee
16. I Know Why the Caged Bird Sings by Maya Angelou
17. The Immortal Life of Henrietta Lacks by Rebecca Skloot
18. Caleb’s Crossing by Geraldine Brooks
19. Tortilla Curtain by TC Boyle
20. The Bluest Eye by Toni Morrison
21. A Hope in the Unseen by Ron Suskind
22. Down These Mean Streets by Piri Thomas
23. Black Boy by Richard Wright
24. The Beautiful Struggle by Ta-Nehisi Coates
25. Eichmann in Jerusalem by Hannah Arendt
26. The Underground Railroad by Colson Whitehead
27. Reading Lolita in Tehran by Azar Nafisi
28. The Rape of Nanking by Iris Chang
29. Infidel by Ayaan Hirsi Ali
30. The Orphan Master’s Son by Adam Johnson
31. The Help by Kathryn Stockett
32. Cry the Beloved Country by Alan Paton
33. Too Late the Phalarope by Alan Paton
34. A Dry White Season by Andre Brink
35. Ghost Soldiers by Hampton Sides
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