Saturday, February 18, 2017

「リリスの魂」 マリー・コレーリ

The Soul of Lilith (1892) by Marie Corelli (1855-1924)

 以前書評した「ジスカ」が非常に面白かったので、コレーリの作品をふたつ読んでみた。「アーダス」と「リリスの魂」である。ただ両者はよく似たテーマを扱った物語で、どちらかと言えば後者のほうが出来はいいので、ここでは「リリスの魂」を紹介する。

三巻本の長い話だが、主人公はエルラミという東洋人の科学者である。マリー・コレーリの物語ではよく科学と信仰が対立している。彼女が生きた時代は科学者が傲慢な発言をしていた時代で、たとえばウィリアム・トムソン(1824-1907)という物理学者などは、物理的事実の根底にある大原則はしっかりと定められた、あとは小数点以下の数値を精密に決定するだけだ、などとまで言っている。これに対しては当然ながら反発が起こり、科学では解明できない神秘への関心も高まった。それがスピリチュアリズムで、コナン・ドイルなどもこれには深甚な関心を寄せている。マリー・コレーリも科学が嫌いである。それは愛とか魂とか死後の世界などといったロマンチックな夢を否定するからだ。エルラミは徹底して科学の力を信じている。しかも実際に一度死んだ女の子を薬によって生き返らせるほどの科学的知識を持っている。このエルラミによって生き返った女の子が表題のリリスだ。

 生き返った、といっても、普通の人間のように動きまわることはできない。彼女はただ死者のように寝ているだけである。それでも息をし、成長もするのだ。いま彼女は小さな女の子から美しい女へと育った。エルラミが話しかけると、彼女はその声に応える。そしてエルラミを困惑させるようなことを言うのである。

 リリスは死は存在しないという。魂がべつの世界へ移動するだけなのだという。それは光に満ちた宇宙であり、エルラミの家のように薄暗くはない。ところがリリスは科学の力によって命を長らえさせられ、肉体を保持され、魂がべつの世界へ完全に移行することができないのだ。

 肉体は魂の牢獄である、という考え方がプラトン以来あるけれど、「リリスの魂」の根底にあるのはこの思想だと思う。魂は死んだとき薄汚れた肉体からイデアの世界に移行するのだ。しかしリリスはその移行を邪魔されている。彼女は現世と来世の中間地帯にいて、来世という光の世界へ行きたいのに、それがままならないのである。

 「リリスの魂」も「アーダス」も科学と神秘思想の対立に関していろいろな議論を長々と展開している。物質論的、現世主義的、拝金主義的な当時の考え方を批判するという点で、神秘思想はある程度有効である。しかしどちらの小説を読んでも私はあまり感銘を受けなかった。なぜならこのような対立は贋の対立だからである。べつにデリダのように二項対立を脱構築しなくてもいい。物質的で、現世主義的で、拝金主義的な人間が、コレーリの説くような神秘思想、イデア的な世界に親しむことはよくあるということに気づけば、両者の間に本質的な対立がないことがわかるだろう。たとえば鈴木大拙なんぞは、仏教哲学者で深遠な神秘思想の持ち主だったが、同時に彼はその神秘思想をもっていかに中国人を殺すかと言うことを軍人に説いていたのである。神秘主義と血なまぐさい現実主義とは対立するどころかつながっているし、補完し合ってすらいる。がめつく金儲けにはげむ社長さんが、熱心に写経したり、教会に通うことはよくあることである。

 「リリスの魂」を読んでいてつまらないのは、作者がそのことに気づいていないからである。彼女の批判を読んでも、結局のところ、私はブルジョア世界の外に出たという気がしない。それどころかブルジョア的な価値観を強化しているのではないのかという疑いさえ抱く。