Wednesday, September 6, 2017

終わりに(その五)

後書き

 五

 最後に本作のテーマにかかわる問題点を指摘しておきましょう。現代の目から見ても非常に興味深い問題が読み取れます。

 「悪魔の悲しみ」はファウスト伝説にのっとった物語です。ファウスト伝説というのは、現世的利益(金を儲ける、美人と結婚する、など)を得る代わりに悪魔に魂を売るという、誰もがよく知っている話です。クリストファー・マーローの「ファウスト博士」やゲーテの「ファウスト」、ミハイル・ブルガコフの「巨匠とマルガリータ」、ちょっと変わったところではウィリアム・ヒョーツバーグの「墜ちる天使」、いずれもファウスト伝説を利用した、あるいはファウスト伝説にひねりを加えた傑作です。マリー・コレーリもなかなか独創的な伝説を創り出しています。天使ルシファーは、神が人間に神性を付与するのを見て反対し、人間を徹底的に滅ぼしてやると叫ぶ。その結果ルシファーは天を追われ、人間を堕落させることに全力を尽くさなければならなくなる。これがパラドキシカルな状況のはじまりです。ルシファーは自分の目論見に成功したとき、つまり人間を堕落させたとき、みずから天への道を閉ざすことになり、失敗したとき、つまり人間が真の信仰心を見せたとき、天へと一歩近づくことができる。ルシオはこの伝説にたいして「詩的なところがある」といい、ジェフリー・テンペストも「美しい」などといっていますが、じつはここにこそ「悪魔の悲しみ」の最大の問題点が隠されているとわたしは思います。それを説明するには意外かもしれませんが、ジェフリーの信仰の構造、彼とシビルの夫婦関係を見なければなりません。

 ジェフリーの信仰の構造は非常に奇怪です。金持ちになってからのジェフリーは道徳的に堕落していきます。ギャンブルをし、いかがわしい店で遊びほうける。彼は神を信じていません。しかも「男というものは好きなことをなんでも、好きなときに、好きなようにしてよいのだと考えていた。その気になれば獣より堕落することもできる」と考えている。ところが妻にたいしては「自分の汚れと正比例の完璧な純潔さを求める権利がある」と思っているのです。そして妻のシビルが自分と同じ堕落した人間であることが明白になると、彼は絶望し、湖のまわりをうろつきながら自殺を考える。なぜシビルが純潔で、信仰心を持つことが、彼にとってそれほどに大切なのでしょうか。彼自身が神に祈らないのなら、そして祈りなどまったく無意味だと思っているのなら、妻が祈らなくてもかまわないではありませんか。

 一見すると矛盾撞着したジェフリーの態度からわかるのは、彼は神を否定しているが、しかし神を信じている他者を必要としているということです。あたかも彼は信仰心をみずからの外にはじき出して徹底した無神論者、堕落した存在になるけれども、外にはじき出した信仰心、貴重な自分の一部を、無用のものとして捨てることができず、それを他者に預け置いているかのようです。すなわち彼はみずから祈ることはないが、他者を通して祈るのです。ジェフリーはじつは神を信じている。ただしその信仰心は他者の中にあると言ってもいい。

 神を信じる心、罪の意識といったものは、普通、神を信じる人の内部、罪を感じている人の内部にあると考えられています。しかしそうしたものが外部に存在することもありえるのです。この場合、その人と外部化された信仰心、罪の意識のあいだには、アンビバレントな関係が生じます。外部化された信仰心や罪の意識は、自分とはまるで正反対のものであり、自分にとっては無意味・無価値なものです。同時にそれは、もともと自分の一部であったもの、自分を構成する絶対的に必要な一部でもあるのです。こう考えれば、ジェフリーが無神論者であり、神を否定するけれども、同時に自分の信仰心を預け置いているシビルに信心深さや純潔さを要求する理由がわかります。彼女に信仰心がないということは、ジェフリーにとって何よりも大切な自分の一部がなくなることを意味するのですから。ジェフリーは彼女を「商品=もの」として扱いますが(シビルは女が「おもちゃ」扱いされることにたいして猛烈に抗議していますね)、彼女の信仰心のあるなしは彼の生死を左右しかねない重大事なのです。

 これはとんでもなくおかしな「信」のありように思えるかもしれませんが、じつは谷崎潤一郎の「或る調書の一節」(一九二一)という短編なども、他者を通しての信というパラドクスを描いているのです。横道にそれるようで気が引けるのですが、面白いのでちょっとご紹介しましょう。

 この短編はAとB、二人の会話という形で進行します。Aは警察の取調官、Bは犯罪者である土工の頭です。Bは結構な収入があるのですが、家の外に女をつくり、賭博、窃盗、強姦、殺人と悪事の限りを尽くしています。ジェフリーが悪徳にふけるのと同じですね。Bは「私は一生悪いことは止められません。私は善人になれたにしてもなりたいとは思わないのです。悪い事をする方がどうも面白いのです」と言います。

 しかしBに罪の意識がまるでないかというと、そうではない。彼には女房がいて、彼が罪を犯すたびに、「どうか自首してください」「何卒改心してください」「真人間になってください」と言って、ぽろぽろと涙をこぼす。それを聞くとBはなんとなくしんみりしたいい気持ちになって自分も泣いてしまう。「胸の中がきれいに洗い清められるような気になる」。しかもこれがやめられない。この清浄な気持ちを味わうために、彼にとって女房は「非常に大切」な人間となる。とことん悪徳に浸っているのかと思いきや、実はBは「女房を通して」善良な心を持っているのです。

 注意しなければいけないのは、かりにBが一時的に「胸の中がきれいに洗い清められるような気」になったとしても、それで彼が善人になるわけではない、ということです。彼は「後悔したって始まらないと思います」と言い放っている。彼はあくまで悪事を行うことに固執する。善良な心は彼にとって外部的なものなのです。しかし他方において彼は女房に泣いていさめられると「ただその時だけちょいと好い気持がする」、そしてそれが<span class="dotted">やめられない</span>。やめられないのは、「善良な心=外部的なもの」が実は内部的なものでもあるからです。この外部にして内部、自分と正反対のものであり、かつ自分そのものでもある他者に対して、Bはジェフリーと同じようにアンビバレントな態度を取ります。Bはジェフリーがシビルをもの扱いするように、妻を「犬猫同然」に扱う。しかし同時に彼女を「非常に必要な人間」とも見なしている。このパラドキシカルな関係に取調官は困惑し、しつこく土工を追求することになるのです。

 イギリスでも日本でも外在化された「信」をテーマにした文学作品が書かれているという事実は非常に興味深い。しかも「悪魔の悲しみ」においてはヴィクトリア朝時代のブルジョア家族主義、「或る調書の一節」においては日本の家父長制家族が背景に存在しています。そしていずれの作品においても「夫」が、隷属する「妻」に祈る役目を押しつけている、あるいは押しつけようとしている。押しつけることによって夫は「効率的」に不道徳にふけることができたのではないでしょうか。西洋にはこんなジョークがあります。カトリックとプロテスタントは何をしてもいい。カトリックは罪を犯しても告解をすればいい。プロテスタントは罪を犯しながら罪の意識を感じればいい。これに悪のりしてつけ加えるなら、ヴィクトリア朝の紳士は何をしてもいい。家庭の天使である妻が、彼の代わりに祈っていれば。

 これとコレーリが考えだしたルシファー伝説とは、どう関係しているのか。もうおわかりと思いますが、ルシファーも他者を通して祈っているのです。ルシファーは神に反抗し、神が造った人間を堕落させると誓った。彼は目的にむかってまっしぐらに突き進んでいく。つまり徹底して悪を行う、あるいは行わなければならない。しかし彼は明らかに神への信仰を持っています。ただしその信仰は他者によって表現されます。つまり人間がルシオ=悪魔を否定し、神を選び取るとき、彼の信仰心は満たされ、一歩天へ近づくことができる。コレーリは本作の最後で、彼が天国へ昇る壮麗な場面を描き出していますが、谷崎風に言えば「ちょいと好い気持ちがする」というわけです。

 ジェフリーとシビルの関係、そしてルシオと人間の関係は完全にパラレルです。どちらの場合も前者は後者を見下しています。男は女より「すぐれた性」であり、ルシオにとって人間は「被造物」にすぎません。しかし前者は後者にその信仰心を預けていて、後者が神を信じることは前者にとって死活に関わる問題となる。前者は祈ることができません。しかし後者を通して祈るのです。ルシオはメイヴィスに、祈ることのできない者のために祈ってくれ、と言っていますね。このような転移された「信」の構造をファウスト伝説に組み込んだことこそ、コレーリの独創であったと思います。

 「信」の外部化は「悪魔の悲しみ」を読み解く鍵になります。たとえば、ジェフリーの文学作品も、彼の「信」を外部化したものと考えることができます。彼がみずから書いたものであるにもかかわらず、今や富裕の身となった彼が信じていない神への信仰、理想的な生き方を描いているのですから。(ジェフリーの文学作品は彼がみずから製作した「商品」です。シビルもロンドンの結婚市場で彼が購入した「商品」です。この作品において人は科学や啓蒙のおかげで神の存在といった「迷妄」から解き放たれていますが、しかし彼らの代わりに「商品」が祈る役割を担わされている。「信」の外部化は資本主義の体制と関連していると思います。本書では悪魔も人間も自由意志を持ち、選択の自由を持っていることが強調されています。自由な個人は前資本主義体制においてはなかったもの、資本主義体制に至って存在するようになったものです。)またメイヴィスのユニークさは、彼女と信仰=作品の間に乖離がないことだということもわかります。さらにコレーリにとっては芸術が「信」の疎外の問題と切り離せないということも見えてくるでしょう。

 すこしはしょった書き方をしてしまいましたが、もしも理論的なものに関心があり、「悪魔の悲しみ」をさらに深く読み解きたいとお考えになるのでしたら、ぜひ哲学者のスラヴォイ・ジジェクや、ロベルト・プファーラーを参照してください。とくにネット上でも読めるジジェクの The Interpassive Subject という短い論文、そしてプファーラーの On the Pleasure Principle in Culture という本は、「信」の転移の問題を明快に説明しているだけでなく、これがわれわれの日常のあらゆる局面(商品フェティシズムから子供の遊びに至るまで)に存在することを教えてくれます。「悪魔の悲しみ」は文学からこの問題を考えようとする人々にとって、格好の出発点になるのではないでしょうか。

Tuesday, September 5, 2017

終わりに(その四)

後書き

 四

 さて「堕落した女」と「新しい女」についても簡単に説明しておきましょう。

 本書では女性の堕落が何度も問題にされています。出版社のモージソンは、最近は家庭内に不道徳な事件が起きるという話が受けるんだ、と言い、シビルは不貞をはたらこうとし、ルシオは子育てに専念しない女性をこっぴどく批判し、堕落した女性を嫌悪しています。テンペストがはじめてシビルに出会った劇場では堕落した貴婦人を賛美する芝居を上演していました。じつは一八九〇年代は「不道徳な女」、「過去のある女」を主題にした文学作品がおそろしくたくさん発表された時期でした。とりわけ演劇ではこの主題が大人気だった。誘惑に屈する処女、捨てられた情婦、不倫をする女、未婚の母、等々を扱った劇は、もともとはフランスで盛んに演じられていたのですが、九〇年代に入ってその流行がイギリスにもやってきました。ヘンリー・アーサー・ジョーンズやアーサー・ウィング・ピネロといった劇作家は隨分この手の作品を書いていますし、オスカー・ワイルドやジョージ・バーナード・ショーも例外ではない。当時のはやりの劇はみんなふしだらな主題を扱っていたと言っていいくらいです。特にピネロの「タンカリーの後妻」(一八九三)は有名です。上流階級のタンカリーが身分違いの、しかもいかがわしい過去のある女と再婚します。後妻は上流人士の生活に自分を合わせようとしますが、なかなかうまくいかない。そこに決定的な悲劇が生じます。タンカリーの娘(後妻にとっては継娘)が恋に陥るのですが、その相手というのが後妻と昔関係のあった男だったのです。これが原因となって後妻は自殺してしまう、という内容です。

 「ピーター・パン」の作者J・M・バリーは、この手の劇の氾濫を風刺して「アリス」(一九〇五)という抱腹絶倒の喜劇(半分小説で、半分戯曲のような作品です)を書いています。一週間に五回も六回も「過去のある女」の演劇を見ている二十歳前の女の子が、お芝居に想像力を刺激されたせいでしょうか、自分の母親が父親以外の男と関係を持っていると妄想するようになるのです。「悪魔の悲しみ」の中でシビルは自分のことを「いまの時代の道徳的な堕落と扇情的な文学によって、徹底的にしつけられてきた退廃的な女」などと言っています。これを読んで、文学ごときに人間性がそれほど左右されるものかと、彼女の言葉の大袈裟さに鼻白んだ方もいらっしゃるかもしれませんが、しかし女の堕落を描いた作品は事実として当時非常に多かったし、女性はこうした作品に接すると、その影響を強く受けると一般に考えられていたのです。今の世の中でも、ポルノグラフィーが性犯罪の誘因になっていると考える人がいるのと同様です。

 堕落した女にかてて加えて、「新しい女」も世間を騒がせていました。「新しい女」とは今で言うフェミニストのようなものです。(ちなみに本書には「新しい××」という言い方がたくさん出てきますが、この当時は間近に新世紀が迫っていることもあって、いろいろなものに「新しい」という形容詞がくっつけられました)十九世紀のイギリスは産業化が進み、女性が有力な労働力として社会に進出するようになりました。そうなれば当然、女性の権利の拡大が求められ、古くさい道徳観や慣習が否定されるようになります。旧来のおしとやかな女性、夫を慰め、子供を優しく育てる女性ではなく、自転車に乗って颯爽と道を行く女性、鼻眼鏡をかけ堂々と議論する女性、スポーツをする女性、煙草をふかす女性、性愛や結婚に対して新しい考え方を持つ女性。こうした女性が世紀末のイギリスに登場し、雑誌や新聞の紙面をにぎわせたのです。

 「新しい女」は小説によってよく主題として取りあげられました。ハーディ、メレディス、ギッシングといった大物作家も「新しい女」を扱った作品を書いていますし、九〇年代に入ると、本書でも言及されている「新しい女流作家」たちが、かなりどぎつい論争的な作品を書くようになりました。とりわけ「悪魔の悲しみ」が出た一八九五年は小説の世界において「新しい女」がたいへん話題になった。この年の二月にグラント・アレンという作家が「やってしまった女」という小説を発表し、大人気になったのです。これは主人公の若い女性が恋人に、結婚せずに同棲しようともちかけ(彼女は牧師の娘ですからこれだけでもうスキャンダラスです)、そのために恋人が死んだときに遺産を受けることができず、シングル・マザーとして娘を育てるという話です。この女主人公は「新しい女」の典型と見なされ、またこの作品はフェミニズム運動において里程標的な一冊と考えられています。さらにこの作品に刺激されて、同じ年のうちに二冊の似たようなタイトルの本が出版されました。ヴィクトリア・クロスの「やらなかった女」とルーカス・クリーブの「やろうとしなかった女」です。この現象は、「悪魔の悲しみ」が書かれた時期、「新しい女」にどれだけ注目が集まっていたか、そして「新しい女」がどれだけ盛んに議論されていたかということを象徴的に示していると思います。実際、九〇年代は、ノーティー・ナインティーズ(お行儀の悪い九〇年代)などと呼ばれることもあります。


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 「堕落した女」と「新しい女」は厳密に言えば別物ですが、ただどちらも旧来の女性道徳に反旗を翻したという点では同じです。そのためごちゃ混ぜにされて論じられることもしょっちゅうでした。「悪魔の悲しみ」で言えば、シビルは堕落した女であり、メイヴィスは新しい女(もっとも通俗的な「新しい女」のイメージからはかけはなれているようですが)と言えるでしょう。しかしシビルは自分のことを「新しい女」の時代の一人と考えているようですし、ルシオが女性を非難する口ぶりを見ていると、「堕落した女」と「新しい女」は截然とは区別されていないように思えます。

Monday, September 4, 2017

終わりに(その三)

後書き

 三

 「悪魔の悲しみ」は百年以上も前に書かれた作品なので、多少は歴史的な背景について説明が必要でしょう。それを「物質主義」「心霊主義」「堕落した女」「新しい女」という四つのキーワードに沿って簡単に試みておこうと思います。また、百年以上前に書かれた作品であっても、非常に現代的な問題がそこに読み取れるということも指摘しておきたいと思います。

 まずは「物質主義」。誰もがご存じでしょうが、十九世紀のイギリスでは産業化が進み、中産階級が拡大し、帝国主義国家として大いに経済が繁栄しました。そこで生まれてきたのがこの物質主義です。下世話な言い方をすれば、お金を儲け、美食を味わい、宝石を身につける。こうしたことに人生の価値を置き、精神的なものや宗教的信仰をないがしろにする態度です。J・ジェフリー・フランクリンという学者によると、「物質主義」という単語は当時、無神論、科学、マモニズム(拝金主義のことです。本書にも「富の神マモン」という言い回しが出てきますが、それからできた言葉です)などを指す言葉として一般的によく使われました。そして物質主義は人間の魂を否定するものとして、時代の悪の根源のように見なされていたのだそうです。物質主義が科学をも含んでいるというのは、ちょっと奇異な感じがするかもしれませんが、しかし「悪魔の悲しみ」を読めばおわかりになるように、科学は神や魂の存在を否定していたのですから、無神論と同等と見なされたのも無理はありません。ダーウィンの進化論も、動物は神の創造物という従来の考え方を否定して大きな衝撃を与えました。またルシオは物質主義者の傲慢さを幾度となく批判していますが、わたしはとりわけこれは当時の科学者の態度にあてはまるのではないかと思います。当時の科学者は自然の原理はほぼ解明しえたと考えていましたから。物理学者のウィリアム・トムソンなどは、物理的事実の根底にある大原則はしっかりと定められた、あとは小数点以下の数値を精密に決定するだけだ、とまで言っています。

 こうした物質主義に対していろいろな形で反発が表明されました。その一つが本書にもあらわれている「神秘思想」あるいは「心霊主義」とでも呼ぶべきものです。おそらく本作を読んでいちばん「おや」と思うのは、キリスト教を擁護しているようで、正統的なキリスト教の考え方からはずれた要素が多々見られる、ということではないでしょうか。輪廻思想も見られますし、脳細胞は原子であり、そのなかには記憶がつまっている、などという奇妙な議論が展開され、悪魔のいっぷう変わった位置づけがなされる。シビルが死ぬとき、いや、新しい生の段階に移行する際の描写も異様で、キリスト教とは関係のないオカルト的な発想がまじっていることは明らかです。さらにコレーリの処女作「二つの世界のロマンス」ではイエスやモーゼは体内から電気を発し、その力で奇蹟を起こすことができたのだ、などと書かれています。電気ウナギじゃあるまいし、逆にキリスト教を冒涜しているともとられかねない考え方です。しかしこうした混淆はコレーリの独創というより、ヴィクトリア朝末期に特徴的に見られた現象でした。

 じつはイギリスでは十九世紀前半から霊的なものへの関心がとても高かった。三〇年代はフランツ・アントン・メスメルの「動物磁気」に関心が呼び起こされました。宇宙には目に見えない流体が存在し、それが人体をも天体をも流れている。この流体の体内におけるバランスが健康状態を左右する。そう考えたメスメルは流体が体内を適切に流れるように、金属の磁性を利用した治療をこころみたのです。四十年代に入るとニュー・イングランドで発生したオカルト・ブームがイギリスにもやってきて、大流行します。霊媒があらわれ、降霊会が開かれるようになり、テーブルが持ちあがるのを見たり、死者の声を聞いたりした、というわけです。さらに六〇年代にはいると、オカルト的な世界観といったものが組織化されていきます。「悪魔の悲しみ」にもブラバツキー夫人、ベサント夫人といった名前が出てきますが、こうした人々が神智学協会を設立し、オカルト的な思想の由来や原理が定められていきます。このときにエジプトの多神教とか、カバラとか、プラトニズムとか、占星術とか、グノーシス主義、ヒンデゥー教、仏教といったいろいろなオカルト的教義が混淆されていったのです。マリー・コレーリのニュー・エイジ的な宗教観も明らかにこうした流れの中にあります。実際彼女は一時期、薔薇十字会とも関係がありました。


Hours with the ghosts, or, Nineteenth century witchcraft - illustrated investigations into the phenomena of spiritualism and theosophy (1897) (14591719210).jpg
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 先にも言いましたが、心霊主義やオカルト思想には、物質主義への反発という側面があります。「神は死んだ」という標語に代表されるように、科学によって宗教的なものが否定されるようになり、正統的な信仰が力を失ってきた。ところが心霊主義は霊媒を通して死者が語ったり、音を立てたりするわけですから、これこそ霊的な世界の証明であると、すくなくとも一部の人には、めざましい説得力を持っていた。心霊主義は科学主義によって凋落したキリスト教を再活性化しようとする試みであったともいえます。もちろんそれは代償をともなった。つまり正統的なキリスト教とは関係のないいろいろな要素がキリスト教にもちこまれてしまったという代償です。そのあたりの事情を「悪魔の悲しみ」は非常によく表しています。

Sunday, September 3, 2017

終わりに(その二)

後書き

 二

 本書の作者マリー・コレーリ(本名メアリ・マッカイ)の紹介をしておきます。彼女は一八五五年、ロンドンのベイズウオーターに生まれました。父親はジャーナリストで作詞家のチャールズ・マッカイ、母親はその家の女中メアリ・ミルズ……。そう、早い話がマリーは不義の子だったわけです。ただしチャールズは奥さんが一八六一年に亡くなるとメアリと結婚しています。

 マリーは十四歳の時、フランスの修道院付属学校へ行き、一八七三年にロンドンに戻ると、ジャーナリストとして身を立てようとします。ピアニストになることも考えていたようですが、こちらはじきにあきらめています。一八八六年にはマリー・コレーリのペンネームで最初の小説「二つの世界のロマンス」を発表。若い女性ピアニストが霊的な世界を発見する物語で、作者のトレードマークであるニューエイジ的な宗教観が展開されています。この年には「復讐」という小説も出しています。ペストにかかって一度死んだ貴族が墓の中で蘇生するのですが、家に戻ると最愛の妻が自分の親友と乳繰り合っている。結婚してから妻にずっと不貞をはたらかれていたことを知ったこの貴族は、嫉妬に狂い、二人に復讐するという物語です。この作品は日本でいちばんよく知られたコレーリの作品でしょう。黒岩涙香と江戸川乱歩がともに「白髪鬼」というタイトルで翻案作品を出していますから。わたしは未読ですが、平井呈一による翻訳もあるようです。

 このころは義兄(父と最初の妻のあいだに生まれた子)と衝突したりして、精神的につらい時期だったようですが、彼女は次々と話題作を生み出していきます。とくに一八八九年の「アーダス」は評判がよかった。主人公が異世界に移動するという、SF的な仕掛けをほどこした神秘的・宗教的な小説です。政治家のグラッドストーン、詩人のテニソンに絶賛され、ヴィクトリア女王からは、これ以後あなたの作品はすべてバッキンガム宮殿に送ってください、という電報が来たくらい人気になった。オスカー・ワイルドも「すばらしいことをすばらしい書き方で描き出している」と褒めたたえています。

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By F. Adrian - Appleton's Magazine: https://archive.org/stream/appletonsmagazin04newy#page/806/mode/2up, Public Domain, Link

 一八九三年に発表した「バラバ」もたいへんな好評でした。バラバはもちろんイエスが十字架に磔にされた日、恩赦を受けて釈放された泥棒のことです。コレーリはイエスが処刑され復活するまでの出来事をことこまかにこの三巻本の小説に書きました。そして最後には泥棒で殺人者のバラバがキリストの教えを信奉するようになるのです。この本は一年ちょっとのあいだに十四版を重ね、ヨーロッパの六つの言語に翻訳されました。しかし読者のあいだでは大変な評判だったのに、批評家にはこきおろされました。処女作の頃から批評家はとかく彼女に対して批判的であったのですが、両者の確執はこれを機にますます烈しくなる。本書「悪魔の悲しみ」の冒頭に批評家への謹告が掲げられているのを見て、驚かれた方もあると思いますが、それにはこういった背景があったのです。

 さて一八九五年に発表された「悪魔の悲しみ」ですが、これはイギリスで最初の(それゆえ世界で最初の)ベストセラーと言われています。なぜ「最初」なのか。これはイギリスの出版事情と関係があります。簡単に言うと、「悪魔の悲しみ」が出版される以前は、本というのは高価な商品で、一般人が購入できるようなものではなかった。大抵、貸本屋で借りるものだったのです。そして出版社は収益をあげるために、一冊の本を三冊に分けて出すのが普通でした。いわゆるスリー・デッカーと呼ばれる本です。ところが一八九五年にこの出版形態ががらりと変わりました。本は最初から廉価な一冊本として出版されるようになったのです。つまりイギリスは、本を借りる国から本を買う国に変貌したのですね。そしてこの変化が生じてから最初に人気を博した本、それが「悪魔の悲しみ」だったのです。

 メシュエン出版社から出た五百ページほどのこの本はじつによく売れました。部数はわからないのですが、出版されて一年あまりのあいだに三十二版(!)を重ね、その後も一九二〇年に至るまでほぼ毎年新しい版が出ています。コレーリの本は、ドイル、ウエルズ、キップリングを含む、当代の人気作家全員の本の売り上げよりももっと多く売れたそうですが、そう言われるだけのことはあります。ちなみに本書は二回ほど映画化もされています。

 コレーリはその後も「ジスカ」(一八九七)とか「マスター・クリスチャン」(一九〇〇)とか「イナセント」(一九一四)といった作品を発表しますが、第一次世界大戦中に食料の買いだめの罪を問われ、一夜にしてイギリス中の人々から憎まれることになります。この事件をきっかけに彼女は人気を失い、彼女の最後の作品である「愛と哲学者」(一九二三)はほとんど注目されることがありませんでした。

 コレーリは一生結婚せず、子供時代の女性の友達と一緒に暮らしました。なかにはレズビアン的な関係を疑う人もいますが、ヴィクトリア朝時代には未婚の女性同士が生活をともにすることはよくあったことなので、はっきりしたことはわかりません。また彼女は既婚者である画家のジェイムズ・サバーンに熱烈な思いを寄せ、「悪魔の車」(一九一〇)という短い童話のような作品を彼のイラスト入りで発表したこともあります。もっともこの恋がかなうことはありませんでした。

Saturday, September 2, 2017

終わりに(その一)

 「悪魔の悲しみ」の翻訳作業が終わりに近づき、いろいろ忙しくなってきた。あと数回訳文のチェックをした後、epub版の作成や、表紙の作成をしなければならない。これが結構たいへんなのだ。とくに美的なセンスのない私にとって表紙の作成はアタマがいたい。

しかし解説はそれなりによいものが書けたと思っている。私がミステリの問題点として考えてきた外形性の問題が、「悪魔の悲しみ」では「信」の外部性という形で展開されていることを指摘できたのだから。たぶんこんなことは今まで誰も指摘していないだろうし、私はこれは重要な論点になると思う。

 というわけで、翻訳作業の終了が目前に迫ってきたのでこのブログはここで終了しようと思う。初回に書いたように「唐突に」終わりを迎えることになったが、しかしこのブログであれこれ考えたことが「悪魔の悲しみ」の読解に大いに役に立ったことは間違いない。その意味では立派な成果を出してこのブログは終わることになる。

 最後に新しい翻訳の後書きをここに転載しておこうと思う。私は後書きを読んでその本を買うか買わないか決めることが多い。この後書きを読んで本を買ってくれる人が増えたらうれしい。隨分苦労して訳出した作品だから。(後書きは長いので五回に分けて掲載します)

――

後書き

 一

 本書を読まれた方は、主人公のジェフリー・テンペストをどのような人間だと想像されたでしょうか。

 一九二二年の五月、パリにいたジェイムズ・ジョイスは、とあるパーティーではじめてマルセル・プルーストに会いました。プルーストが毛皮のコートを着てようやく部屋に入ってきたとき、ジョイスはその格好を見て「『悪魔の悲しみ』の主人公みたいだ」と思い、そのことをパーティーの帰りに友人に語っています。リチャード・エルマンの伝記によるとジョイスが「悪魔の悲しみ」を読んだのは一九〇五年ごろのこととか。「失われた時を求めて」の作者に会ったのは、それから十七年後のことです。そんなに時間が経っても、ふとその小説のタイトルを口にしたということは、「悪魔の悲しみ」の印象がそれなりに強く残っていたということでしょう。ジョイスも堕天使の物語に惹かれ、自分の作品の中に取り込んでいたのですから、彼が「悪魔の悲しみ」をよく覚えていたとしても不思議ではないのですが、しかしそれにしてもプルーストとの初めての出会いでこの作品の名を出したという事実はちょっと意外で印象的です。わたしはこの挿話が非常に強く記憶に残り、「悪魔の悲しみ」を読むときはいつも、あのまぶたの重たげなプルーストの顔を思い浮かべてしまいます。

Saturday, August 19, 2017

「タンカリー氏の後妻」 アーサー・ウィング・ピネロ

The Second Mrs. Tanqueray (1893) by Arthur Wing Pinero (1855-1934)

 「堕落した女」というテーマはもともとはフランスの演劇界で大流行だったテーマだ。たしかヘンリー・ジェイムズがフランスの演劇について、このテーマばっかり、とこぼしていたような気がする。その流行が一八九〇年代にイギリスにもやってきた。
 今訳している「悪魔の悲しみ」にもこんな一節が出てくる。
最近舞台監督が好んで取りあげる例の主題を扱った芝居だよ。『堕落』した貴婦人を賛美するというやつさ。堕落した婦人が、じつは純粋で善良きわまりないことを示し、素朴な観客たちの目を驚かそうというのだ。
ピネロ
こういう劇はちょっと前まではイギリスで上演されなかったものだ。堕落した婦人が純粋さ、善良さを持つなどというのは、社会風俗の混乱を招く、というのがその理由である。ところが十九世紀後半のイギリスでは性風俗に一大変化が起きていた。面倒なのでいちいち確かめないけれど、ある医者が女性のある種の病気には性行がよく効くとか言って、性交渉を勧めたり、女性の権利にめざめた人々が因習的な道徳観念を否定して、結婚や性の関係に新しい考え方を持ち込んだのだ。

 こういう背景があったせいなのだろうか、「堕落した女」というテーマはイギリスでも大流行した。その手の劇のあまりの猖獗ぶりに、「ピーター・パン」の作者バリーは「アリス」という劇を書いている。二十歳前のあるうら若き乙女は、友人と週に四度も五度も「堕落した女」を扱う劇を見ている。夫が出てきて、妻が出てきて、妻が知り合いの男と不倫するという、おきまりのパターンの演劇だ。それによって想像力を刺激されたのだろうか、彼女は自分の母も知り合いの男と不倫をしていると考えるようになる。それくらい「堕落した女」は九〇年代から二十世紀のごく初期の頃までおおはやりした。

 その中でもとりわけ大評判となったのが「タンカリー氏の後妻」である。はじめて読んだが、ギャグが織り込まれたり、適度に深刻さを装っていて、なるほど大衆にも批評家にもそれなりに受けそうな作品と感じられた。

 筋書きはこんな具合だ。上流階級のタンカリー氏はある日友人を招いて、自分が再婚する予定であることをもらす。しかし相手が問題だ。後妻となるのは、過去においていろいろ男といかがわしい噂のあるポーラという女だ。しかも彼女は下層階級に属する。しかし少々お坊ちゃま的なナイーブさがあるタンカリー氏は、自分の愛を貫き、彼女と結婚する。

 当然予想されることだが、しばらくするとポーラはこの結婚生活に退屈しはじめる。とくにタンカリー氏が最初の妻とのあいだにもうけた娘、つまりポーラにとっては継娘になるのだが、この娘がポーラになつかない。険悪な態度を取るわけではないけれど、なんともよそよそしいのである。

 さて、ここで問題が起きる。娘は友人と一緒にパリへ旅行に行き、そこである軍人と知り合い恋に陥りいる。この軍人というのが、ポーラが昔つきあっていた男なのである。ポーラは娘に軍人の中を裂こうとするが、結局は自殺してしまう。

 粗筋を書いていても最後の自殺がいかにも唐突に響く。昔の恋人が継娘の結婚相手になる、と
ポーラを演じたパトリック・キャンベル
いう事態は確かにショッキングかもしれないが、ポーラはそれで自殺するほど動揺するタマではないはずである。しかしそれが自殺してしまうというところに、ある種の純潔さを暗示しようとしているのだろうか。正直言ってどうもピンとこない。

 この劇を読み終わってからしばらく考えていたのだが、このピンとこない感覚はどこかで味わったことがあるという気がしてきて、ふと夏目漱石の「虞美人草」を思い出した。そういえば、あの作品の最後で藤尾が死ぬのもどうも理解ができなかった。はっきり言って藤尾は魅力的な近代的女性である。これからの世界でのしていこうとしている女なのである。一方、小夜子はたかが田舎娘である。その貧相なこと、藤尾の敵じゃない。小野さんが小夜子より藤尾に魅力を感じるのは当たり前じゃないか。しかし作者はどうしても藤尾を悪者にしたかったらしい。それで彼女を殺してしまうのである。しかし無理に彼女を殺してしまうものだから、読者には(すくなくとも私には)どうもピンとこない、という印象を与えてしまうのだと思う。

 「タンカリー氏の後妻」も同じじゃないだろうか。ポーラは罪の意識と言うより、何かイデオロギーのようなものに殺されたのじゃないだろうか。

Tuesday, August 15, 2017

「マスター・クリスチャン」マリー・コレーリ作

The Master-Christian (1900) by Marie Corelli

 正直に言って無駄に長い小説だった。前に語られたことがしつこく、何度も繰り返され、思わず好い加減にしてくれと叫びたくなった。よくわからないが、連載もので、読者の記憶を新たにするために繰り返しが多くなったのだろうか。

 長大な小説だが肝腎な部分だけ筋を抜き出すとこうなる。枢機卿のフェリックスがあるとき教会の前で一人の男の子を保護する。実はこの男の子は天使が姿を変えて地上に現れたもので、不思議な力を持っている。もちろんフェリックスはそんなことなど知らない。

 滞在先でフェリックスは、貧しい子供たちから、友達の中に足のきかない子がいるから、治るように祈ってくれないかと頼まれる。子供たちは偉い枢機卿が祈れば、神様はきっと足のきかない子供を元気な身体に戻してくれると考えていたのだ。フェリックスは信仰が厚く、人格の優れた人ではあるけれど、自分の祈りで病を治すことはとてもできないと正直に言う。しかし祈るだけは祈ってみようと約束する。

 ところが祈ってしばらくすると足の悪い子供は、本当に動けるようになったのだ。もちろんフェリックスに保護された天使のおかげなのだが、人々は、フェリックスが軌跡を起こしたと大騒ぎする。

 さて、この噂がローマの法王の耳にとどく。マリー・コレーリが描くローマの法王庁は、実にいやな人間どもの巣窟である。とにかく金に汚い。がめつい。自分たちの利益のために陰謀を巡らす。スパイを派遣することも平気だ。キリスト教の根本的な思想なんてどうでもいい。彼らにとっては自分たちが豊かになり、自分たちの身分が保障されることが何よりも大事なのだ。

 彼らはフェリックスを法王庁に呼びつけ、彼が起こした奇蹟の取り調べを行おうとする。ところがフェリックスと一緒に来た、男の子の姿をした天使が、烈々火を吐くような言葉遣いで法王と法王庁を批判するのだ。これがきっかけとなって法王庁はフェリックスと男の子を迫害する計画を立てる。そして後者の二人は命からがらイタリアを脱出することになる。

 これがメインの筋で、その他にフェリックスの姪で画家のアンジェラの話、革命家の話など、いくつかのサブ・プロットが存在する。

 宗教改革が起きるときは、いつも「今の信仰の形は、形式にとらわれている。信仰を信者の心に取り返さなければならない」と言われる。マリー・コレーリが描き方を見ると、法王庁は物質主義と拝金主義に陥って、本来の信仰心を失っている。それに対立するのは信仰心をみずからの中にたもっている人々である。つまり作者はこの作品で宗教改革の必要を説いていると言っていいだろう。これは他の作品でも作者が繰り返し主張していることだ。ただ、この主張はあまりにもまっとうすぎて、すくなくとも私にはひどく「くさい」ものに感じられる。マリー・コレーリの思想の幼稚さが出ているように思う。

 アンジェラの話はいわゆる当時の「新しい女」を擁護するような内容になっている。従来女は結婚して良人のよき慰め手、パートナーとなるべきと考えられていたが、十九世紀の後半になるとそれに異議を唱える人々が出てくる。とくに一八九〇年代には、そういう人々が大勢あらわれ、新聞や雑誌で揶揄的に言及されたものだ。アンジェラは画家で、物語の時点で大作の製作に取りかかっている。完成したそれを見るとキリストを描いたすばらしい傑作である。ところが彼女の恋人は(恋人も画家だ)、それを見て、アンジェラの才能に嫉妬し、彼女を殺そうとするのである。彼女は男の子の姿をした天使のおかげで、一命を取り留めるのだが、この挿話で言わんとすることは非常に明瞭だ。女であっても男以上の創造的才能を発揮することができる。決して女は家庭の守り手で終わる存在ではないということだ。

 「新しい女」が登場し出すと、とたんに世の中には「女は男よりも劣った性である」といった言説があらわれたが、そうした男尊女卑の考え方にマリー・コレーリは真っ向から対立している。いささか単純すぎる図式的な思考とはいえ、一九〇〇年の社会状況をよく示す物語にはなっている。
 

Saturday, August 5, 2017

「文化における快楽原理――持ち主のいない幻想」 ロベルト・プファーラー (その三)

On the Pleasure Priciple in Culture -- Illusions without Owners by Robert Pfaller

 PCがいかれてしまったので、買い換えることにした。貧乏な私にとって万単位の買い物は痛い。何度も何軒も電気屋を訪れ、慎重に機種選びをしたので、時間がかかってしまった。久しぶりのブログ更新である。しかしPCは変わったが、私の頭は変わらないので、内容に清新さはない。

 「転移された信」について考えていたのだが、「私」と「転移された信」との関係はパラドキシカルである。それは同一性を持っている。なぜなら「転移された信」は「私」の信であるのだから。それは非同一である。なぜなら「転移された信」は「私」の外部に存在するもの、「私」が信じていない「信」であるから。

 「私」と「転移された信」のあいだにはこの矛盾する関係が同時に成立している。

 この関係に気がついて、私はシェイクスピアの「冬物語」を思い出した。この劇は二人の王の関係を描いたものである。二人の王は小さい頃から一緒に育ち、「双子のように」、あるいは「一本の木の二本の枝のように」そっくりなのだ。もちろん彼らは実際に双子なのではない。地球の反対にある国同士の王なのである。しかし両者は大きくなっても「無限に遠く離れていながら、常に手を取り合っているような関係」を保っているのだ。私はこの二人の王の関係を読みながら、考えこんだ。「双子」、「一本の木の二本の枝」、「無限に遠く離れていながら、常に手を取り合っているような関係」、これは何を意味するのだろうと。それは端的にこういう問いを発していると思う。彼らは一なるものなのか、それとも他なるものなのか。双子は一人なのか、それとも二人の異なる人間なのか。一本の木の二本の枝は、一つの木なのか、それとも異なる二つの枝なのか。無限に遠く離れている、とは、両者の間に決定的な距離、差異があることを意味するだろうが、同時に手を取り合っている、とは、両者の間に距離も差異もないことを意味するだろう。どうも二人の王の描写は、一であるとも二であるとも決定できない状態を表しているのではないか。彼らは一体、すなわち同一でありつつ、かつ、同一ならざるものでもある。同一なものが内的なずれをかかえて、二つのものに見えているのではないか。

 この関係が「私」と「転移された信」の関係とそっくりなのはわかってもらえると思う。

 シェイクスピアの「冬物語」からはさらに重要なことがわかる。同一なるものの内部にある「ずれ」は、女性によって占められる位置なのである。二人の王の一方が他方を訪ねて楽しく交流を深めている。ついに一方の王が自国に帰らなければならない時が来る。そのとき、彼をもてなしていたほうの王は、もう少しだけ滞在を延ばしてはどうだろうと言う。相手がやはり帰ると言うので、もてなしていたほうの王は妻に向かって、おまえがわたしに代わって彼を説得してくれないかと頼む。妻の説得は功を奏し、客の側の王はもうしばらく滞在を延ばすことになる。

 この挿話は何を意味するだろう。妻が二人の王を「結び合わす」ということだ。

 しかし妻が説得に成功したとたん、夫である王は疑心暗鬼にとらわれる。あまりにも妻は友人となれなれしいのではないか。二人は不貞をはたらいているのではないか。突然そう考えた王は友人と妻を裏切りの罪で捕まえようとする。

 妻が両者を「結び合わせた」その瞬間に、彼女は両者を「切断」するものとしてもはたらくのである。

 妻(女)は王(男)の同一性の中にある「ずれ」である。それは同一性を成立させているものでもあり、同時にそれを不可能にしているものでもある。

 「私」と「転移された信」においても同じような三者関係が見られないだろうか。「私」と「転移された信」は妻(女)によって媒介されている。それは両者を切断し、結合する役割を果たしている。

 シェイクスピアのことはずっと昔に考え、エマニュエル・レヴィナスの父と子の議論と関係づけたこともある。レヴィナスにとって父と子は同一にして同一ならざるものなのだ。レヴィナスは明示的に言ってはいなかったと思うけど、実はこの関係には第三項が隠されている。母の存在である。母の存在が父の子の同一性を可能にし、また両者を決定的に切断するのだ。

 私はプファーラーの本を読みながらこの三者関係のことを思い出し、いったいこれらがどういうつながりを持っているのだろうと考えこんだ。今も考えこんでいる。思考の渦と渦がぶつかりあって、なんだか海底の深みに呑みこまれそうな気がする。

Sunday, July 16, 2017

「文化における快楽原理――持ち主のいない幻想」 ロベルト・プファーラー (その二)

On the Pleasure Priciple in Culture -- Illusions without Owners by Robert Pfaller

 プファーラーは faith/belief という区別を立てて、その間の差異をじつに理論的に明らかにしていく。そのとき導きの糸となるのは、マノーニやホイジンガやフロイトである。たとえば彼は belief はイマジナリーのレベルにあり、belief はシンボリックのレベルにあるという。一見すると逆のようだが、しかし考えてみるとプファーラーが正しい。faith というのは熱烈な信仰であり、理想自我との一体化を目指す段階である。理想自我との一体化を目指すのはまさしくイマジナリーなレベルである。それにたいして belief はそうしたものとのあいだにシニカルな距離が存在している。これはシンボリックなレベルだ。

 また faith と belief は理論的にどちらが先行するのかという問いにプファーラーは belief であると考える。普通は最初に faith があり、その堕落した形態として belief があらわれると考えるのだが、逆である。こまかい議論なので詳細は省くが、彼はこうした意外な発見をきわめて論理的で刺激的な議論を通して重ねていく。

 私は読みながらいろいろなことを考えさせられたが、実は私が考えている「信」のあり方はプファーラーが取りあげていない「信」のあり方である。コレーリの「悪魔の悲しみ」および谷崎の「或る調書の一節」において私が見出したのは、夫は神を信じないが、妻が夫の代わりに神に祈る、という形である。この場合、夫は妻を通して神に祈っている。あたかも夫は信仰心を自らの中から排出し、徹底した無神論者、モラル無き存在となるが、排出された、しかし自分の一部でもある信仰心を投げ捨てることができず、それを妻の中に保存しているようなものである。信仰心は夫にとって同一であり、かつ非同一なものとなる。

 排出された信仰心、他者に転移された信仰心に対して夫はアンビバレントな態度を取ることになる。まずそれは自分とは正反対のもの、否定されるべきものである。なぜなら夫は無神論者であり、モラル無き者だが、信仰心は神を信じ、モラルを守る心を意味するのだから。そういう意味で彼は信仰心、およびそれを担う妻をないがしろにする。同時に信仰心は彼そのものであり、彼はそれなしでは「やっていけない」。「悪魔の悲しみ」では妻が信仰心を持たないことを知って夫は絶望し、死ぬことを考える。「或る調書の一節」では夫は妻を犬猫同然に扱いながらも「非常に必要」な存在とみなす。

 プファーラーの本は、副題を見ればわかるように「持ち主のいない」信の形をとりあつかっている。私の場合は持ち主はいる。それは夫本人ではなく、妻であり、他者である。自分以外の何者かが信を保持しているという点で、私の考えている信の構造は belief に近いが、しかし belief にあるようなシニカルな距離感がない。夫にとって信は絶対的に不用であると同時に絶対的に必要なものでもあるという点で belief とは違っているのだ。こういう信の構造をプファーラーは扱っていない。さらに言うとジジェクも「本人以外の特定の誰かに転移された信」については議論をしていないようだ。

 だとすれば、この特殊な信の形態については自分で考えざるを得ないのだが、しかしそれにしても先行するこれら二人の議論は本当に参考になる。正直、いろいろなことを考えさせられすぎて、頭のなかがかえって混乱しているくらいである。前回、頭のなかで渦が巻いているといったけれど、第一の渦はこういうものである。

 最近この渦に第二の渦が加わった。それはずいぶん以前に考え、しばらくほったらかしにしていた問題である。

Friday, July 7, 2017

「文化における快楽原理――持ち主のいない幻想」 ロベルト・プファーラー (その一)

On the Pleasure Priciple in Culture -- Illusions without Owners by Robert Pfaller

 エドガー・アラン・ポーが「大渦に呑まれて」という短編を書いている。ノルウェイの海岸のごく近くには、地形的な理由から大渦が発生する場所がある。あるとき三人の漁師の兄弟がこの渦に巻きこまれてしまった。巨大な渦の壁をぐるぐる回転しながら次第に底の方へ沈んでいく船。もちろん底まで行ってしまえば、あとは船はばらばらになり、乗組員の命はない。ところが、兄弟のうちの一人だけが、恐怖と大混乱の中で希望の曙光を見出した。彼は恐怖の中で理性を働かせ、大混乱の中に規則性を見出したのだ。
 その第一は、通例、物体が大きければ大きいほど、その落ちかたが早いということ。第二は、球形のものと何か他の形のものとでは、同じ大きさでも、球形の方が落下の早さが優っているということ。第三は、円筒形のものと何か他の形のものとでは、同じ大きさでも、円筒形のものの方が吸いこまれかたが遅いということです。

 もうひとつ著しい出来事があって……(中略)……それは一回転するごとに船は樽だとか船の帆桁やマストのようなものを追いこすばかりでなく、わしがはじめて眼を開けて渦巻きの不思議に眼を見はったとき、こういう種類の物体の多くは、わしらの船と同じ高さにあったのに、いまでは船よりもずっと高くなって、はじめの位置からあんまり動いていないように見えるということです。
そこで彼は水樽に体をくくりつけ、船を跳び出した。彼の兄弟は恐怖で体が麻痺して、何をすべきか手でわからせようとしても、絶望的に頭を振るだけ。結局、規則性を見出した男だけが助かった。

 私はこの話が好きで何回も読んだ。物事を考えはじめると、私はいつも頭のなかで渦が巻きはじめるような気がする。その渦の中には気になる言葉の切れっ端がいくつもぐるぐると回転している。なんらかの結論を得たとき、それは渦の中に規則性を見つけることができた瞬間である。言葉や事象のあいだに連関性を見出し、もちろん渦の全体のメカニズムを理解し、渦を消滅させることなどできないけれど、すくなくとも命からがらその渦から脱出することはできるようになる。ポーの短編小説は、私の思考のいとなみの原型的な表現なのである。

 もっともさいわいなことに私の思考の渦は、「放置しておく」ことができる。私はいくつか渦をかかえているのだが、残念ながら規則性を見出すことができない場合は、その渦を頭のどこかにほったらかしにしている。思考するとき私は真剣だけれども、同時に長い人生を生きるためには、そうした呑気さも必要なのである。

 じつは今も私の頭のなかでなにかが渦を巻いている。「悪魔の悲しみ」という渦である。いくつかの規則性を見出しはしたが、まだそこから生還できるほど充分には理解していない。それどころか、この渦は昔ほったらかしにしておいた渦と似ているところがあり、その渦と力を合わせてより強力な渦になりつつある。そんなことを書きつけておきたいと思う。

ロベルト・プファーラーの「文化における快楽原理」を読み直しているのだが、これはやっぱり理論書の大傑作である。

 こまかな点については実際に読んでもらった方がいい。ここでは彼の議論の前提になる faith と belief の違いを簡単に紹介する。

 普通、信仰というと、たとえば「私はキリスト教徒です。毎日寝る前にお祈りし、日曜日には教会へ行きます。子供の時は日曜学校に行っていました」などと誇らしげに語る人を連想したりする。この人は自分が信仰の持ち主であることを明言しているし、それを誇りに思っている。こういうのはプファーラーの分類では faith という。

 一方、日本でもそうだが、地方には昔の伝説に基づいたいろいろな宗教行事や祭が行われる。なんとかの怒りを静めるために鎮魂祭をやったりとか慰霊祭をやるようなものだ。それをやる人々に、「あなたは行事のもとになる伝説を信じていますか」と聞いてみたなら、「いや、昔の人は信じていたんでしょうけど、今の人は嘘だって事を知っていますよ」と答えるだろう。しかし嘘だって事を知りつつも、伝説を信じているかのように祭を毎年行うのである。この場合の信仰は、持ち主がいない。今の人は誰も昔の伝説を信じていないのだから。しかし形の上では伝説はいまなお力を持っている。こういう信仰をプファーラーは belief と呼んでいる。

Wednesday, June 28, 2017

谷崎潤一郎「或る調書の一節」

谷崎潤一郎「或る調書の一節」(1921)

 最初読んだときはなにを言おうとしているのか、さっぱりわからなかった。ただ妙に気になって、忘れることができなかった短編小説である。パラドキシカルな「信」の構造を描いているのだ(説明しているのだ)と気づいてから、何回か読み返してみた。いま訳している「悪魔の悲しみ」とも主題的に関係がある作品なので、簡単に話をまとめておこう。もっともごくごく短い作品なので自分で読んだほうが早いかもしれないけど。

 この短編はAとB、二人の会話という形で進行する。Aは警察の取調官、Bは犯罪者である土工の頭だ。Bは結構収入があるのに、家の外に女を作り、賭博、窃盗、強姦、殺人と悪事の限りを尽くしている。彼は「私は一生悪いことは止められません。私は善人になれたにしてもなりたいとは思わないのです。悪い事をする方がどうも面白いのです」という。

 ところがBに罪の意識がまるでないかというと、あるのである。彼には女房がいて、彼が罪を犯すたびに

、「どうか自首してください」とか「何卒改心してください」とか「真人間になって下さい」と言って、ぽろぽろと涙をこぼす。それを聞くとBはなんとなく「しんみりした気持」になって自分も泣いてしまう。「胸の中がきれいに洗い清められるような気になる」。
 ここで注意すべきは、彼には本気で改心する気などないという点だ。彼は「後悔したって始まらないと思います」と言っている。それにもかかわらず、女房が泣いていさめると、「ただその時だけちょいと好い気持がする」のである。そしてこれがやめられないのだ。

 Bが徹底して悪事を働く人間なら、なぜ犯罪を犯すたびに女房を泣かせ、「胸の中がきれいに洗い清められるような気持」を求めようとするのか。

 もう一つBにはおかしなところがある。彼は女房をかわいげのある女とは見ていない。「器量もよくはありませんし、色が黒くって、鼻が低くって、体つきにもお杉(Bの愛人)のような意気な婀娜っぽいところがちっともなくって、物の言いっ節なんぞがイヤに几帳面で、不細工で、私は不断はあんな味もそっけもない女はないと思って」いる。しかしそれにもかかわらず、彼は女房と別れることができない。「犬猫同様に扱われて」いる彼女が「非常に必要な人間」なのである。

 取調官は彼と女房の奇妙な関係に気づき、この点をしつこく追求する。しかし追求しても明快で一貫した説明は出てこない。

 われわれがBの釈明に一貫した説明を与えようとするなら二つのパラドクスを組み合わせなければならない。まず一つパラドクスは、悪事に快楽を覚えるためには最低限の罪の意識がなければならないということだ。悪事にふける人間には罪の意識がないというのは嘘である。罪の意識がなければ悪事の快楽もない。これは精神分析のイロハである。

 第二のパラドクスは、罪の意識は悪事を働く者の内部ではなく、外部にあってもよい、ということだ。これはちょっと聞くと異常なことのように思えるが、Bと女房の関係はそうとらえるしかない。女房はBの外部化された罪の意識なのである。

 Bが悪事に快楽を覚えるには女房の罪の意識が必要だ。それがなければすでに言ったように悪事の快楽すらなくなる。女房はBの「代わりに」罪を悔いる。Bは罪の意識を自分から追い出し、女房という形で外在化することで、より効率的に快楽にふけることができるのだろう。

 しかし意識が外部化されるとはどういうことだろう。自分の意識と自分とのあいだにある種の境界線が引かれることだ。この境界線は二重のはたらきをする。接続すると共に、切断するのである。自分の意識の一部であるから、それが外部に置かれようとそれは自分のものである。その意味で境界線は接続の役割を果たす。しかしそれは自分とは別物であることを示すサインでもある。この二重性がBの妻に対する態度となってあらわれる。Bにとって妻はまったくどうでもいい他者、犬猫同然に扱いうる、自分には意味のない存在であり、同時に彼女は自分そのものであり、「非常に必要な人間」でもある。この関係が取調官をとまどわせるのだ。

 意識の外部化の構造という点から見る限り、Bとその妻を二項対立的に考えるのは間違いである。妻はBの一部が外化されたものにすぎないからである。そしてこれが父権的なものの構造なのだと思う。

 内部が外部化される物語はほかにもあるはずだ。まずは新しい全集も出たことだし、谷崎を読み返そうかと思っている。

Friday, June 23, 2017

「かわいい娘」ディオン・ブーシコー作

The Colleen Bawn (1860) by Dion Boucicault (1822-1890)

 イギリス十九世紀の文学作品には、よく秘密結婚の話がでてくる。領主の息子などが若気の至りで身分の低い女と結婚式をあげてしまう。しかしそのことを公にするとスキャンダルになるので、親にも誰にも告げず、今まで通り普通に自分の家で生活しながら、こっそり家族の目を盗んで妻の家にかようのだ。ところが、縁談がもちあがって、二重結婚せざるをえない羽目に陥ることがある。両親の経済的な事情から、どうしても金持ちの令嬢と一緒にならざるを得ない、なんてことは実際にあったらしい。しかし事情はどうあれ、最初の結婚を解消しない限りは、二回目の結婚は法律的には無効となる。二人目の妻とのあいだに子供ができたとしても、彼らは私生児というわけだ。

 私は以前、「雲形紋章」という、イギリスではマニアックな人気のある作品を訳したことがあるが、これも秘密結婚を扱った物語である。現実にこういう事例がどれだけあったのかは知らないが、文学ではよく取りあげられるようだ。「かわいい娘」のヒーローとヒロインも秘密結婚をしている。

 この作品は名前だけはよく知っていたが、読んだことはなかった。そして一読して、なるほどこれはメロドラマの最たるものだと思った。主人公たちが窮地に陥り、ちょっと信じられないような偶然に助けられて、そこから一気に抜け出す。劇の最後、善玉は仕合わせになり、悪玉はこらしめられる。この唖然とするほど凡庸な終わり方も、じつにメロドラマらしい。
作者プーシコー

 アイルランドの地主クリーガンは母親に黙って教養のない農家の娘アイリーと結婚する。彼らは夜になると光を使って合図をかわし、こっそりアイリーの家で密会している。

 一方、母親は息子を金持ちの娘アンと結婚させたがっている。というのは一家が経済的苦境に陥り、その地方の行政長官コリガンに大きな借金をしているからである。その借金を返すためにはどうしてもアンの家の金銭的な助力が必要なのだ。

 ある日この行政長官のコリガンがやってきて、借金を返してくれと母親に言う。もしも返せないなら、おれと結婚してくれないか、とおかしなことまで言いはじめた。母親はもちろんコリガンとなど結婚したくないし、彼女の息子も母親の再婚には大反対である。

 これでドラマの舞台はできあがったわけだが、このあとは説明しようとすると非常にややこしい。登場人物の思惑がさまざまに入り乱れ、いろいろな勘違いがその過程で生じていくからである。それを無理矢理簡単に言うと、まずクリーガンの忠実な召使いがアイリーを殺そうとする。アイリーが死ねばクリーガンはアンと結婚できると考えたのである。しかしアイリーは危ないところを助けられ、ひそかにとある小屋で介抱される。しかし人々はアイリーが殺されたものと思ってしまう。行政長官のコリガンは、アイリーを殺したのはクリーガンだと考え、兵士を連れてクリーガンとアンの結婚式に乗り込み、彼を逮捕しようとする。ところがここですべての真実が明かされ、クリーガンは逮捕をのがれ、命を助けられたアイリーと暮らしていくことを決心する。またアンはクリーガン家の借金を肩代わりしてやり、彼女を慕うべつの男と一緒になることにする。

 三幕の芝居だけれど結構ボリュームがあって、いろいろな事件が展開される。そのいずれもがいかにもメロドラマらしいのだ。登場人物の類型性、事件に対する彼らの反応のある種の単純さ、現実的ではない(いわゆるメロドラマチックな)事件の進展。馬鹿馬鹿しいと言えば馬鹿馬鹿しい劇だが、逆にこういう作品には問題性を感じてしまう。このドラマの始点となる設定、地主階級の没落は、非常に現実的な状況を示している。しかしその没落が回避される過程はメロドラマという非現実的な展開を示す。ここにはなにかを隠蔽し、無理矢理表面を取り繕ろおうとする力がはたらいているように感じられる。

 ウィキペディアによると、この作品は現実の事件がもとになっているらしい。ジョン・スキャニオンという男が十五才の少女エレンと結婚するのだが、彼女が家族には受け入れられないことがわかるや、ジョンは召使いに命じて彼女を殺させるのである。そして現実の事件では本当にエレンは殺され、のちにジョンも召使いも捕まれて絞首刑になっている。こういう陰惨な事件をある種のハッピーエンドに変えていくメロドラマは、現実の亀裂を糊塗するという、イデオロギー的な機能を持たされているのではないか。そういう意味ではこれは案外興味深い劇になっていると思う。

Monday, June 12, 2017

近況報告(その五)

 ついでだからもっと書いておこう。前回紹介した、他者を通しての信仰、というのは哲学の世界ではインターパッシヴィティという名前で知られている。スラヴォイ・ジジェクやロベルト・プファーラーが盛んに議論している概念で、私は今、復習のためにいろいろな文献を読み返している。

Robert Pfaller, Philosoph, a photo taken by Suzie1212 from Wikimedia (https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Robert_Pfaller.jpg)
「悪魔の悲しみ」に即してもう一度この奇怪な信仰を説明すると、主人公で語り手のジェフリー・テンペストは神を信じていない。さらに彼は、当時の上流階級の男たちと同様に、悪徳にふける。彼は、男は好きなことを、好きなときに、好きなようにする権利があると考えている。しかし妻には、自分の悪徳に正比例した美徳を要求する権利もあると考えている。簡単に言えば、夫は好きなだけ悪徳にふけることが許されるが、妻には信心深くあってほしいと思っているのだ。ところがジェフリー・テンペストが結婚したシビルという女は、彼に負けないくらい無神論者で、悪徳にふける。彼女は外面的にはイギリスで一番をうたわれるほどの美人だが、その内面は腐りきっていて、そのためにジェフリーは絶望に陥る。

 ここで注意すべきは、ジェフリーは神を否定しているが、しかし神を信じている他者を必要としているという点だ。彼はみずからは祈ることはないが、他者を通して祈るのである。この他者は彼にとって自分とおなじくらい大切であって、だからこそ妻が無神論者で道徳のかけらも持たないことを知ると愕然として苦悩することになるのだ。

 ヴィクトリア朝時代には、妻は家庭の天使と呼ばれたものだが、「悪魔の悲しみ」には夫と家庭の天使のあいだの関係がいかなるものであるのか、それが見事に表現されていると思う。妻は夫の「代わりに」祈ることを期待されている。いったいこれはどういうことなのだろう。

 早急に結論を下したくはないのだけれど、今の段階で私はこんなことを考えている。無神論者になるためには神を信仰しなければならない。ただしその信仰はその人の内部にあるのではなく、他者に存する。だが他者であってもその人にとってかけがえのない他者である。悪徳にふけるには清浄な心が必要である。ただしその清浄な心はやはり他者に存する。かけがいのない他者のなかに。彼は信仰をもたず、悪徳にふけるが、他者のなかに信仰や清浄な心を見いだせないとき、絶望に陥るのだ。他者が祈り、清い心を持っている限りにおいて、彼は無神論者であり、放蕩者でありえる。

 この男と女の関係は「悪魔の悲しみ」においては悪魔と人間、創造者と被創造者の関係にも投影されている。悪魔は徹底的に人間を堕落させようとする。この当時、最大の社会悪は物質主義であると言われていたが、悪魔は人間を信仰心のない物質主義者に変えてしまおうとする。だが前段で述べたことは悪魔にも適用される。悪魔が徹底して悪を広めようとするには、善を信じなければならない。ただしその善は悪魔の内部にあるのではなく、彼が堕落させようとしている対象、他者に仮託されているのだ。

 人間が悪魔になれるとしたら、良心を自分の中から放逐しなければならない。しかしそれは良心などなくなってもいいというのではなく、他者のなかに保存しておかなければならないということらしい。他者の中に良心がみつからないと、彼は悪魔ではいられなくなる。悪を行う意欲もなくなるほど絶望してしまうのである。

 妻を家庭の天使などと呼んで持ち上げ、信仰心や無垢を強制することは、夫が悪徳にふけるための前提条件となっている。

 快楽を感じるためには罪の観念がなければならない、罪の観念がなければ快楽もない、というのは、精神分析では常識だが、この罪の観念は行為をする人の中になければならない、ということではないのだ。外にあってもよいのである。

 こんな冗談がある。カトリックもプロテスタントも好きなことをしていい。ただしカトリックは週の終わりに告解をし、プロテスタントは行為の最中に罪の意識を感じればいいのだ。ヴィクトリア朝時代の男についていえば、彼らはなにをしてもいいのだ。ただし妻が代わりに祈ってくれていさえすれば。

 さらにこんなことも私は考えている。今述べたことは実は英国と植民地の関係についてもいえることではないか。イギリスが植民地の文化を褒め称えるとき、それはイギリスが自らのなかから放逐した良心をそこに見出しているのではないのか。それを見出すことは他者の文化を称揚することではなく(一見してそう見えるが、本当はそうではなく)、他者を徹底的に踏みにじるための(帝国主義的に植民地を搾取するための)前提条件となっているのではないか。

 それを考えると十九世紀末に日本の文化がヨーロッパで関心を呼んだことも喜ばしい一方の現象とは言えない。ヨーロッパの日本に対する視線は帝国主義的な視線ではなかったか。それは相手を持ち上げれば持ち上げるほど凶悪な反面を持ち合わせる視線の筈である。フランスの核実験を批判した大江健三郎に対してクロード・シモンは、日本は芸術によってわれわれを驚かせてくれ、というようなことを言い、大江はシモンの日本認識が十九世紀のヤポニスムをいくらも出ないことを知って唖然としたらしいが、こういう言説と帝国主義との関係を私は非常に疑っている。

Friday, June 9, 2017

近況報告(その四)

 「悪魔の悲しみ」についてもう一点、書いておこう。理論的なことである。

 私は前のブログ「本邦未訳ミステリ百冊を読む」で谷崎潤一郎の「途上」という短編小説をもとに「行為の外形性」について考えたことがある(http://untranslatedmysterybooks.blogspot.jp/2015/)。人間がなにをしようとしているのか、それをその人の意識に問うてはならない。その人の行為の外形に求めなければならないというのが論点である。「途上」について言えば、ここに出てくる会社員は、病弱な妻のためにいろいろと忠告を与えるが、なぜそうするのか、その理由を会社員の意識に尋ねると、「妻を愛しているから、妻の健康が気遣われるから」などという返事が返ってくるだろう。しかしそれは嘘なのだ。意識は嘘をつくのだ。「途上」に出てくる探偵は会社員の意識による説明には論理矛盾があることを暴露し、彼の行為を外形において捕らえようとする。すると彼が密かに妻の死を願っていることがわかってくるのである。ここにこそミステリと精神分析の接点があると私は考える。

 さらにここから私は「信」の問題にぶつかった。前のブログでは幽霊の例を出して説明した(http://untranslatedmysterybooks.blogspot.jp/2016/09/blog-post_15.html)。私は幽霊を信じていない。しかし寂しい夜道を歩くとき、私はあたかも幽霊を信じているかのように怖れを感じる。私の意識に問えば、私は幽霊を否定する。しかし夜道を歩く私の行為の外形を見れば、私は幽霊を信じている。

 じつは谷崎潤一郎もやはりこの「信」の問題を作品化している。「ある調書の一節」というのがそれだ。女遊びにふけり、悪いことばかりをしている土工の頭が警察で尋問を受ける。彼は悪事がやめられない。やめる気などさらさらない。しかし善女である女房が彼のことを思ってしくしく泣き出すと、なんだか自分の罪が滅ぼされるような気がする。でも彼は悔い改めることはしないのだ。とことん彼は悪人なのである。

 まったく妙な話ではあるけれど、この男は善を信じている。が、彼が信じているのではない。女房が信じているのである。彼の「信」は彼の外に存在している。でも外に存在しているからと言って、それが彼から切り離し可能かというとそうではない。彼が女房と別れることができないということは、彼が外的な「信」を失うことができないことを意味しているだろう。彼の「信」は外的だが、絶対必要という意味においてそれは彼にとって「内的」なものでもあるのだ。

 こういう「信」の不思議な構造についてはスラヴォイ・ジジェクも議論している。YouTube の Slavoy Zizek: Only An Atheist Can Believe を見ていただければ彼の最新の議論がだいたいわかるはずだ。

Slavoj Zizek Fot M Kubik May15 2009 02.jpg
By Mariusz Kubik, http://www.mariuszkubik.pl - Own workhttp://commons.wikimedia.org/wiki/User:KmariusCC BY 3.0Link
じつは私は「悪魔の悲しみ」はこの妙ちくりんな「信」の構造を主題化していると考えている。いや、まだ考えがまとまっていないので、ここでは示唆的なことしか言えないのだが、たとえば悪魔の力によってイギリス社交界でいちばんの美人と結婚するジェフリー・テンペストは、妻が無神論者であることを残念に思う。彼自身が無神論者であるにもかかわらず、だ。彼は金持ちになると同時に悪徳にふけるようになるのだが、妻には純潔でセンチメンタルな心情をもっていてほしいと願う。彼は「神」や「善」といったものへの「信」を自分の代わりに妻に持っていてほしい考えるのである。

 これはまことに身勝手な男の言い分のように聞こえるが、身勝手と非難してすむような問題ではない。「信」のあり方そのものにかかわってくる問題である。

 このことに気づけば、この作品のあちらこちらに同じような内容の言説が見つかるだろう。だいたい悪魔そのものがその「信」を外に置いているではないか。彼は悪へとまっしぐらに突き進もうとする。それが彼の自由意志だ。しかし彼は人間の「信」によって天へと一歩近づくのである。「ある調書の一節」に出てくる土工の頭のように、外的な「信」によってなんともいい気分になってしまう(=天国に近づく)のである。

 翻訳は今年中には出したいと思うけれど、それまでに「信」の問題について考えがまとまるかどうかはわからない。

Friday, June 2, 2017

近況報告(その三)

 近況報告というより「悪魔の悲しみ」に関する議論のようになってしまった。これなら粗筋を最初に紹介すればよかった。テーマを決めずにぼんやりと、思いついたことを書こうとしたのが間違いだった。申し訳ない。
ミルトン作「失楽園」の挿絵から

 「悪魔の悲しみ」はファウスト伝説の変形である。悪魔が人間を訪れ、おまえの欲望をかなえてやろう、しかしあとでおまえの魂をいただくぞ、と言う。人間はその条件を呑んで、金持ちになったり、世界一の美女と結婚したりする。この話はマーロウの「ファウスト博士」、ゲーテの「ファウスト」、ブルガコフの「巨匠とマルガリータ」といった傑作の骨格を形づくってきた。「悪魔の悲しみ」において悪魔はルシオ・リマネズ皇子という美貌の、しかしこの世のものとも思われぬ威厳に満ちた男である。彼は貧乏に苦しみ、ほとんど飢え死に寸前の三文作家フェフリー・テンペストのもとを訪れ、彼を一躍イギリスで最大級の金持ちにし、イギリス上流社会でいちばんの美女と結婚させてくれる。

 これだけとれば、普通のファウスト伝説だが、コレーリが描く悪魔はちょっと正統的な悪魔解釈からはずれている。悪魔はもともとは光の天使であり、それが堕落して悪魔になったとされる。なぜ堕落したのかは諸説あるようだが、コレーリは神が地球を創造する際、そこに住む卑小な人間どもが転生の末に自分たちとおなじ永生を得ることに光の天使が異を唱え、創造主にむかって「わたしは人間どもを徹底的に滅ぼしてやる」と叫ぶ。すると神は
「黎明の子、ルシファーよ。わたしの前でたわごとやむだ口がきけないことはよくわかっているはずである。自由意志は不死なる者に生まれつきそなわっているもの。それゆえお前は口にしたことを必ずや行為にしなければならない! 落ちよ、おごりたかぶる精霊よ。その高き位を捨てて、お前に付き従う者どもとともに落ちよ。そして人間によって救い出されるまで二度と戻ってはならぬ。お前の誘惑に屈する人間の魂ひとつひとつが、お前と天国とをさえぎる新たな障害物を築くであろう。みずからの選択によりお前をはねつけ、お前に打ち克つ魂が、お前を高みに押しあげ、失われた故郷へと近づけるであろう。世界がお前を拒絶するとき、わたしはお前を許し、ふたたび天に迎え入れよう。しかしそのときが来るまでは、許すことも迎え入れることもない」
と言う。こうしてコレーリ版の悪魔は堕落するのである。それゆえこの悪魔にはおかしな特徴がある。彼は天にもどることにあこがれているが、天にもどることを不可能にする行いをしつづけなければならないのである。彼は人間を誘惑するが、彼の目論見通り人間がその誘惑に乗ることは、彼が天から遠ざかることを意味し、彼を悲しませ苦しめるのである。逆に彼の目論見が否定されるとき、彼は天に一歩近づき、喜びを味わうのだ。これがコレーリがファウスト伝説に加えた「ひねり」である。「悪魔の悲しみ」というタイトルの意味もこれでおわかりになるだろう。

 さて、悪魔であるルシオ・リマネズ皇子は、ジェフリー・テンペストが完全には善へのあこがれを失っていないことに気づき、彼に人間の生のおそるべき真実を教えてやる。その結果、後者は「わたしは神のみに仕える」と叫び、悪魔ルシオを否定することになる。そしてルシオの力によって得たすべての富を失い、もとの三文作家として、しかし神を信じ、喜びにみちた人間として、自らの力で生きていこうと決意するのである。

 メロドラマと言えばメロドラマだが、近況報告のその一でも言ったように、この作品には二つのスペクタクル・シーンが含まれている。ジェフリー・テンペストの結婚式の場面と、最後に人間の生の秘密を知る、氷に閉ざされた海の場面である。これはもう圧倒的な描写であって、コレーリのイマジネーションが爆発している。十九世紀の世紀末にこんな映画的な場面を描けた人は他にいないと思う。コレーリは欠点を含んだ作家だとは思うけれど、ここだけはすごい。それを伝えたくて翻訳をしたようなものだ。
 

Tuesday, May 30, 2017

近況報告(その二)

 十九世紀は合理性とか科学性とか物質主義といったものがはびこっていった反面、スピリチュアリズムという精神的なものへの関心も高まっていった。The Ashgate Research Companion To Spiritualism And The Occult (2012) の中でJ.ジェフリー・フランクリンという人が簡潔にスピリチュアリズムの歴史をまとめているのでそれをここに引き写すと、まず十九世紀前半(三〇年代)に、フランツ・アントン・メスメルの「動物磁気」を利用した治療法に対する関心が呼び起こされた。ちょうどイギリス国教会の力が衰えていった時期である。メスメルはヒステリー患者の身体に磁石をつけて、鉄を含む飲み物を飲ませ、体内に人工的な流れをつくり出して治療を試みたりした。彼の考え方や治療法からのちに「メスメリズム」(催眠術)が生み出されることになる。「動物磁気」に対する反応は賛否両論あった。フランクリンはこの論争を四つの陣営に分けて考えている。一つはジョン・エリオットソンのようにメスメルの言う「磁気」を自然に基づくものと考え、終極的には科学によって説明されるものとする意見。第二はそれに反発して、動物磁気は科学的ではないとする意見。第三は動物磁気は心霊現象で、科学的に考えようとする第一の意見は近視眼的だと考える立場。第四は動物磁気は、正統的なキリスト教の考え方からははずれている異端的立場である、あるいは逆に動物磁気は物質的すぎて心霊現象とはいえないとする立場である。

 こうしたメスメリズムの騒動のあとに来たのが、一八四〇年代にニュー・イングランドで発生したスピリチュアル運動で、これはイギリスと大陸を席捲した。このあたりのことはコリン・ウィルソンなどが面白い本を出しているので説明はそちらに譲るが、とにかくこれがきっかけとなってヴィクトリア朝の人々は降霊会を開くようになり、いかがわしい霊媒どもが跋扈するようになった。しかしこの動きは単に新奇なものへの興味だけから起きたわけではない。当時はびこりつつあった物質主義へのアンチテーゼという側面を見落としてはならないだろう。この「物質主義」という言葉は当時、無神論や科学主義、拝金主義(mammonism)などを意味する。人間の魂を否定するものとして、この時代の最大の悪者と見なされていたものである。「悪魔の悲しみ」においても無神論、科学主義、拝金主義は徹底的に批判されている。スピリチュアリズムを擁護する人々は、「物質主義」を否定する足がかりとして心霊現象を利用していたのである。

Hours with the ghosts, or, Nineteenth century witchcraft - illustrated investigations into the phenomena of spiritualism and theosophy (1897) (14755394226).jpg
By Internet Archive Book Images - https://www.flickr.com/photos/internetarchivebookimages/14755394226/ Source book page: https://archive.org/stream/hourswithghostso00evan/hourswithghostso00evan#page/n100/mode/1up, No restrictions, Link

 さらに一八六〇年代に入るとメスメリズム、スピリチュアリズムと続いてきた運動は世紀末を特徴付ける、オカルト的宗教運動へと変身していく。その特徴をあげると、たとえば神智学協会の設立に見られるように運動が組織化されたものになり、その思想の由来や原理が定められ、さまざまなオカルト的教義が混淆されたものとなる。オカルト的な教義の混淆とは、たとえばエジプトの多神教とかカバラとかプラト二ズムとか占星術とかグノーシス主義とかヒンデゥー教とか仏教の教えがいろいろと織り込まれているということである。

 ヴィクトリア朝のスピリチュアリズムの歴史をざっと振り返るとこんな具合になるのだが、おおざっぱでもそれを知っておくことは「悪魔の悲しみ」を理解する上で非常に役立つ。この作品のなかではキリスト教が支持され、神の存在が主張されているが、同時に一風変わった悪魔の位置づけが行われ、輪廻転生思想が混じり込んでいる。この混淆性はまさしく一八六〇年代からの宗教運動の影響を受けたものなのである。

 フランクリンが指摘していることのなかでもう一つなるほどと感心したのは、キリスト教の力が弱まったから、それを補う意味でスピリチュアリズムが利用されたという点である。十九世紀末と言えば、「悪魔の悲しみ」にも出てくるけれど、「神は死んだ」という標語がはやった時期である。信仰の力に疑問符がつけられた時代なのである。凋落したキリスト教をスピリチュアリズムによって再活性化しようとする試みが、ブルワー=リットンやコレーリの作品に見られるのではないか、とフランクリンは論じている。彼はスピリチュアリズムに注目してブルワー=リットン、ハガード(幻想的な冒険小説「彼女」の作者)、コレーリという系譜を見出しているのだが、これは今まであまり指摘されたことのないヴィクトリア朝文学の特色ではないだろうか。

Saturday, May 27, 2017

近況報告 (その一)

昨年からマリー・コレーリの The Sorrows of Satan の翻訳をしている。細かい活字で五百ページほどもあるので作業がなかなかはかどらなかったのだが、ようやく全体を訳し終わり、今は推敲の段階に入っている。翻訳作業の中で、実は、これがいちばん大変なのだ(私にとっては)。今までも何度も訳文を読み返して手を入れているのだが、それでも不満が次から次へと出てくる。それゆえまた原文を読み返し、訳文を改め、ときにはまるまる一章、訳し直したりする。推敲の課程は、はっきりいって絶望との戦いである。自分にはまるで文章の才能がないことを自覚させられ、それでも作業をつづけなければならない。気が滅入って、三行ほど読んで推敲をやめることもある。しばらく別のことをして、気を取り直し、国語辞書や類語辞典や自分で作った表現集などをひっくり返して、文章を書き改め、先に進む。こういうことを全編にわたって数十回繰り返すのである。短い作品なら百回はやるだろう。長い作品だと二十回くらいだろうか。


 The Curious Incident of the Dog in the Night-Time の作者マーク・ハドンが、あれはガーディアン紙だったろうか、自分の小説の書き方について記事を出していた。彼は書き上げてから延々と推敲をするのだそうである。そして奇跡が起きるのを待つのだそうだ。わたしも延々と推敲をするが、奇跡など起きたためしがない。もちろん創作と翻訳じゃ、ぜんぜん話がちがうのだろうし、そもそもハドンの才能と私の才能じゃ比較にはならないのだけれけど。しかし苦しんで推敲すれば非才の私の文章でもちょっとはよくなる(と思っている)。それを繰り返し、もうこれ以上はよくしようにも、自分の才能に限界があるとあきらめがついたとき、推敲をやめることにしている。時間をおいてまた推敲すれば訂正したい箇所が出てくることは事実だが、それをやっていたらいつまでも終わらないことになるから、その時その時の自分の限界をもって作業を終了することにしている。絶望と自己嫌悪にはじまり、奇妙なあきらめの境地で終わる、どこにも楽しさなど存在しない作業段階なのである。奇跡が起きてくれたらどんなにうれしいだろう。

 マリー・コレーリについてはこのブログで何度か作品をレビューした。彼女の第一印象を一言で言えば、スペクタクル描写がすばらしいということだろう。キリストが十字架にかけられるさまを描いた「バラバ」では、キリストが死んだ瞬間にエルサレムの町は暗闇におおわれ、雷が鳴る。その光と闇の描写はまことに圧倒的で、映画のスペクタクル・シーンを連想させる。「悪魔の悲しみ」にもそのような場面がいくつか出てくる。とりわけ物語中盤の結婚式の場面と、最後の氷に閉ざされた海の場面はマリー・コレーリの筆がうなりをあげているような迫力である。こんな書き方ができる作家は十九世紀世紀末の頃、彼女だけだったと思う。日本語に訳されているコレーリの作品が「白髪鬼」だけというのは残念なことだ。これはどろどろした復讐の情念に焦点があって、日本人の嗜好には合うのかもしれないが、コレーリのSF的な、スケールの大きい側面をあらわしてはいない。

 しかしコレーリがスペクタクル描写において異彩を放っていたことは事実だが、十九世紀はスペクタキュラーなものを常に追求した時代でもあった。たとえば演劇を取ってみても、十九世紀を通してどんどん音や光の舞台効果に工夫が重ねられていったし、一八五一年の万国博覧会は国威発揚としてのスペクタクルで……。いや、こんなことは文化史や歴史を調べてもらえばいくらでも書いてあることなので、私がここに書くまでもないだろう。ただ、「悪魔の悲しみ」が出た一八九五年は、リュミエール兄弟がはじめて工場労働者の様子を映画に撮影した年でもあることは、非常に暗示的な気がする。コレーリのスペクタクル・シーンはひどく映画的だから。要するに視覚文化は十九世紀にめざましい発展を遂げたし、コレーリのスペクタクル・シーンはそうした当時の視覚文化から確実に影響を受けていたのである。ちなみにコレーリはピアノ演奏にたけ、ワグナーを評価していたらしい。

 コレーリの特徴の第二は、スピリチュアリズムとの関係である。しかし記事が長くなったので、これは来週書くことにする。

Marie Corelli blue plaque -Church St, Stratford upon Avon, Warwickshire, England-30Sept2011.jpg
By summonedbyfells - MARIE CORELLI - STRATFORD-UPON-AVON Uploaded by snowmanradio, CC BY 2.0, Link

Saturday, May 20, 2017

「鈴の音」 レオポルド・デイヴィス・ルイス作

The Bells (1871) by Leopold Davis Lewis (1828-1890)

 ヴィクトリア朝時代は心霊現象にずいぶん興味を示した時代でもある。一八三〇年代頃から催眠術(メスメリズム)やポルターガイスト現象、降霊会といったものがはやりだし、一般の人のみならず、コナン・ドイルやチャールズ・ディケンズのような著名人、さらには科学者も関心を示した。十九世紀も後半に入ると、心霊的なものを体系化する動きが出てくる。たとえばブラヴァツキー夫人が「あかされたイシス」をあらわして、神智学教会を創設したり、彼女の影響を受けたアニー・ベサントなどが活躍しはじめる。心霊的なものへの興味は、二十世紀に入っても二三十年は続く。だからヴィクトリア朝時代にはずいぶんたくさんの幽霊物語が書かれたし、オカルト現象や催眠術をあつかった作品が書かれている。この前ここで紹介した「トリルビー」などもその一例だ。「鈴の音」では催眠術が登場する。

 アルザスの小さな町にマシアスという市長がいた。劇は市長の娘の結婚式という、おめでたい場面からはじまる。ちょうど冬で外は嵐。しかし町の人たちは祝婚の酒を飲んで酔っ払っている。彼らのうかれた会話の最中に十五年前のある事件の話がもちあがる。それは旅のユダヤ人が馬車でこの町を通りかかり、マシアスの宿で一杯飲んでいったのだが、ふたたび旅に出発したあとまもなく殺害されたという事件である。この事件は下手人不明で未解決のままだった。

 さてマシアスは娘の結婚式の最中に幻聴に襲われる。殺されたユダヤ人の馬車の鈴の音がどこからともなく聞こえてくるのだ。彼はそのために自分の部屋に閉じこもってしまう。

 もうおわかりと思うが、十五年前にユダヤ人を殺して金を奪ったのは、今は市長になっているマシアスなのである。その頃彼は借金に苦しんでいて、つい出来心を起こしてしまったのだ。しかしそれはずっと彼の良心を苦しめ、娘の結婚式という父親としての彼にとって最良の日に彼を狂気に追いやる。

マシアスを演じるヘンリー・アービング
一人になったマシアスは幻覚の中で裁判にかけられる。彼は目撃者がいないのだから誰も彼を有罪にはできないと言い張るが、そこで裁判官は催眠術者を呼ぶのである。そして彼に罪を告白させる。結局彼は幻の中の裁判で絞首刑に処せられることになる。

 一方、マシアスがいつまでも部屋から出てこないので異常を感じた周囲の人々は、ドアを蹴破って中に入る。すると首のまわりから見えない絞首刑の縄をはずそうとしているマシアスを見出す。彼はそのまま息絶える。

 これはずいぶん有名なメロドラマらしいのだが、正直な話、わたしはあまり感銘を受けなかった。Wikipedia でこの劇を扱った項目があるのでそれを読んでみたが、どうやら市長を演じたヘンリー・アービングの演技が素晴らしく、それでこの芝居は大当たりをとったらしい。しかしアービングの演技力だけで有名になったのではないだろう。作品そのものにも観衆を圧倒するものがあったに違いない。メロドラマの歴史についてもうちょっと資料を読んでからもう一度考え直したい。

Sunday, May 14, 2017

「工場労働者」 ジョン・ウオーカー作 (その二)

The Factory Lad (1832) by John Walker

 かくして首になった工場労働者たちは酒場に集まり、工場主への復讐を計画する。そのとき首謀者となるのは、彼らの一人ではなく、密猟者としてその地域からのけ者扱いをされているラシュトンという男である。彼を首謀者に設定したあたりに、わたしはこの作者の知性を感じる。彼ははじめて舞台にあらわれたとき、こんなことを言う。
ラシュトン
  「(罠を仕掛けながら)大物がとれるぞ! ははっ! 狩猟法? 金持ちの暴君は、この土地を飛んだり走ったりする獣をみんな捕まえようとするが、貧乏人にはそうする権利がないみたいだな。おれは法律なんか屁とも思わん。自由と体力と活力があるかぎり、いちばんの金持ちとおなじように生きてやる」
ラシュトンは「私有」というものに疑問を持ち、それにあらがって生きている。彼の言葉から、「私有財産は横領と略奪」という、よくある観念へは一歩の距離しかないように思える。密猟者というのはたいてい教養のない田舎者なのだが、ラシュトンは違う。彼はもとともは真面目な労働者で家族もあったのだが、どうやら資本家の横暴にあって妻も子供もなくし、今は兎などを密猟して生活を立てているらしい。彼は資本家の裏の側面を知りつくしており、それゆえ資本家に怨念を抱いているだけでなく、鋭い洞察力を見せる。彼は慈善なるものの偽善性を見抜き、ずるがしこい判事の姿(その名もバイアス判事、つまりえこひいき判事である)を通して、法の不公正さを直観している。こういう人物だからこそ、労働者たちを指導する立場に立てるのだ。

 さてラシュトンは工場労働者たちの話を聞いて義憤を覚え、工場に放火する計画を立てる。ところが工場主のほうも労働者の報復を警戒していたので、彼らは警察に捕まり、裁判にかけられる。この裁判の場面でもラシュトンの舌鋒鋭く、法律と階級の問題をえぐり出す。
判事バイアス
  「法は金持ちにも貧乏人にも公平だ」
ラシュトン
  「そうかな? それじゃどうして貧乏人はしょっちゅう牢屋に入れられるのに、金持ちは放免されるんだ?」
バイアス
  「ええい、こんな話はもうやめだ」
今のわれわれにしてみれば、ラシュトンの指摘は当たり前なことに過ぎない。しかしこれが書かれたのが十九世紀前半だったことを忘れてはならない。

 この裁判の最中に、労働者のひとりの妻(実はラシュトンの死んだ妻の妹)が半狂乱になって飛びこんでくる。そして工場主の足にとりすがり、主人を許してほしい、これから一生あなたの奴隷になるからと嘆願する。工場主は彼女をはねのけ、「わたしに触るな。法律が正しい裁きをつけてくれる!」と言う。それを見たラシュトンは「慈悲を請う、無力な女をはね飛ばすのか……死ね、暴君め!」と工場主にピストルをぶっぱなす。工場主が倒れ、ラシュトンは舞台中央でヒステリカルに笑い、兵士たちがマスケット銃を彼にむけるところで幕は下りる。

 壮絶なドラマで、なるほどしばしば議論の対象になるのももっともだと思った。問題作である。

 調べて見ると工場に材を取った劇作品は少ないながらもいくつかあるようだ。G.F.テイラーの「ストライキ」(一八三八年)は工場主の立場からストライキをする労働者を非難し、J.T.ヘインズの「工場従業員」(一八四〇年)は酷薄な工場主を描いている。ディオン・ブーシコーはギャスケル夫人の「メアリー・バートン」を脚色した「長いストライキ」(一八六六年)という作品を出しているし、トム・テイラーは「指物師の妻」(一八七三年)のなかで十八世紀の機械の破壊や群衆暴力を批判的に描き出している。ほかにもジョージ・フェンの「親方」(一八八六年)とかアーサー・モスの「労働者の敵」(一九〇〇年頃)といった作品があるようだ。手に入れば是非とも読んでみたい。わたしはずっとメロドラマと、物語の外部性について考えているけれど、経済的な要素が物語の外部に出ていくきっかけになる場合があるのではないか。逆に内部に閉じこもっている物語は、内部が成立している経済的基盤を隠蔽しているのではないか。工場とか階級を扱ったメロドラマは少ないらしいが、しかしここにこそメロドラマについて考えるための重要な鍵がありそうな気がする。

Saturday, May 6, 2017

「工場労働者」 ジョン・ウオーカー作 (その一)

The Factory Lad (1832) by John Walker

 読み終わったとき、頭を棍棒でなぐられたような気がした。内容にも驚かされたが、メロドラマというジャンルの容易に規定できない深さを痛感させられた。

 作者のことはよくわからない。一八二五年から一八四三年にかけて小劇場のためにメロドラマや喜劇を書いていたようだが、事実上、無名の作家である。本作は一八三二年にサレー劇場で六回ほど上演されたらしい。六回だから、当時の評判は悪かったのだろう。しかしそれはこの作品がはるかに時代を先んじていたということの名誉あるしるしにこそなれ、退屈な駄作という評価を下す根拠にはならない。

FrameBreaking-1812.jpg
By Chris Sunde; original uploader was Christopher Sunde at en.wikipedia. - Original unknown, this version from http://www.learnhistory.org.uk/cpp/luddites.htm (archive), Public Domain, Link

 「工場労働者」は十九世紀前半のラッダイト運動を描いている点で、メロドラマとしてはずいぶん毛色が変わっているが、さらに悲劇的・暴力的な終わり方をしているところも、それまでのメロドラマのコンベンションをおおきくはずれている。それまでのメロドラマはどんなに登場人物のあいだにある確執を描いていても笑いの要素を含み、最後はめでたしめでたしで終わるものだったのだ。ところが「工場労働者」は工場主と労働者のあいだの緊張関係がすこしも緩むことなく最後まで継続し、爆発する物語である。この贅肉のない緊迫感には近代的な芸術性すら感じられる。

 話の筋を紹介しよう。ランカシャーのとある工場には本編の主要人物となる六人の貧しい労働者が働いている。ここの工場主はつい先日代替わりをし、彼らは新しい工場主(先代の工場主の息子)からはじめての給金をもらおうとしている。労働者たちは先代の工場主がいい人だったので、息子もきっと優しいだろうと思っていたが、彼は労働者にクビを宣告するのだった。
工場主ウエストウッド  時代は変わった。 
労働者アレン  まったくで。貧乏人は仕事の量が増え、給金のほうは少なくなりました。 
ウエストウッド  製品の需要が減って、社長の手に入る金が減ったからだ。 
アレン  需要が減った! 
ウエストウッド  聞きたまえ。需要が減ったのでなければ、製品の市場価格が落ちたのだ。そこで要件に入るが、いろいろなものが時と共に変化するように、人間も変化しなければならない。隣人と競争していくには……つまり彼らとおなじように儲けようと思ったら……要するに、私は機械を蒸気で動かすことに決めたのだ。 
労働者アレン、ハットフィールド、ウィルソン  蒸気!
新技術を導入し、労働力(労働に掛かるコスト)を削減しようというわけである。これが一八一一年ごろからはじまるラッダイト運動のもとになった。さて、工場主の新方針に労働者たちは必死に反論する。
アレン  しかしあなたのお父さまは昔のやり方でたくさんの財産を残されたと聞いています。われわれが勤勉に働いて利益をもたらしてくれると、いつもご満足でした。陽気なお方でしたが、他人をほがらかにする方でもあった。お父さまは、大勢の真面目な労働者が心置きなく日曜日の夕ごはんにありつけ、自分の稼ぎで子供たちをまともに育てることができることくらい喜ばしいことはないとおっしゃるのを、しばしば耳にしました。
工場主ウエストウッド  おやじに神の祝福あれ! 
労働者ハットフィールド  祝福はあったと思いますよ。あの方は仲間の人間を思いやるイギリス人でしたから。あの方は狩猟用の犬や馬を養うためのお金をあまそうと、何年も忠実につかえてきた貧乏人を追い出すようなお方じゃなかった。 
ウエストウッド  君の言うことはよくわかる。感傷は聞こえはいいが、実際の場面じゃ通用しない。きみがほかの人の代表のようだから、きみの流儀に従って返事をしよう。べつに判事をする必要はないんだがね。きみはものを買うとき、いちばん安い店で買おうとするだろう。上着を買うのに、ほかのところの二倍の値段で売っているところへ行くかね? 六ペンス高いのだっていやじゃないかね? 自分の庭には好きなものを植え、好きなように耕すんじゃないかね? 
ハットフィールド  そりゃ、自分の庭ですからね! 
ウエストウッド  その通りだ! それならわたしが自分の所有物に好きなことをしたって、ちっともおかしくないだろう?
長々と引用したけれど、ここには資本家が自己を正当化する際に用いる原始的な論理が見られることが判るだろう。

Wednesday, May 3, 2017

「トリルビー」 ポール・ポッター作

Trilby (adapted to stage by Paul Potter)

 「トリルビー」は一八九四年にハーパーズ・マンスリー誌に連載されたジョージ・ドゥ・モーリアの小説である。トリルビーという画家のモデルをしている魅力的な若い女が、スヴェンガリという悪者に催眠術をかけられてかどわかされ、彼の金儲けのために利用されるという物語である。発表当時、たいへんな人気となり、何度かドラマ化もされている。今回読んだのはドラマ化されたシナリオのほうである。
小説の挿絵から

トリルビーと聞くと、トリルビー・ハットを思い出す人がいるかもしれない。これは舞台化されたときに出演者がかぶっていた帽子がこの手の、つばの狭い帽子だったのである。

 またスヴェンガリという名前に聞き覚えのある人も大勢いると思う。催眠術で意のままに他人を操ることのできるこのユダヤ人は、その魔術的・神秘的な力が人々の心に反ユダヤ主義的な怖れをかきたてた。

 「トリルビー」は英語の表現にも新しいものをつけ加えた。それは in the altogether という表現で、「ヌードで」というような意味である。トリルビーは画家のためにポーズを取るときヌードになるのだが、そこで使われている。

 話自体は単純である。トリルビーはボヘミアン的な生活をしている画家たちのためにモデルをしている。活発な女の子でみんなに好かれている。しかし歌はへたくそで、とてつもない音痴である。

 スヴェンガリは音楽家で催眠術を心得ている。彼はトリルビーの声がよいこと、音痴ではあるが、催眠術によってすばらしい歌い手になることを知っている。彼はトリルビーに催眠術をかけて、その恋人との仲を引き裂き、彼女を妻にしてヨーロッパ中を公演旅行してまわる。

 ところがスヴェンガリとトリルビーがパリで公演をしている最中に、スヴェンガリは心臓発作を起こして結局死んでしまう。とたんに催眠術は切れ、トリルビーはもとの音痴に戻ってしまう。しかもスヴェンガリとヨーロッパを旅行していた期間のことも忘れてしまうのだ。

 彼女は恋人と再会し、二人は結婚することになる。ところが……彼女はふとしたことからスヴェンガリの写真を見つめ、またもや彼の催眠術にかかってしまうのである。この劇の最後では彼女はそのまま昏倒してしまうのだろうか。それとも死んでしまうのだろうか。ある女性が彼女の様子を見て、「大変!」と言って大騒ぎする場面で芝居は終わっている。

 スヴェンガリの不気味さももちろん印象的だが、パリの芸術家たちのボヘミアン的生活も見事に描かれていて感心した。画家たちのアパートの向かいに建つ店舗の売り子たちが、窓から裸のモデルが見えるといって苦情を言う場面など、さもありなんと思わせる真実らしさがあるし、それに対する芸術家たちの反論も若い芸術家らしい自負の念に満ちている。聖職者が彼らのアパートを訪れ、スケッチブックを熱心に見入っている場面などはじつに愉快で、こうした明るさ、活気、ユーモアがあるので、スヴェンガリの底知れぬ異様な力が対照的に強調されるのだろう。

 ジョージ・オーウェルはスヴェンガリの反ユダヤ主義的描写を批判しているが、わたしは別の意味でスヴェンガリの能力に興味を抱いた。トリルビーは、スヴェンガリに催眠術をかけられ歌の訓練をさせられる前は、音痴だったのである。彼女の声の質は天下に並ぶ者がない。しかし音を認識したり、正しい音を発声することができないのだ。スヴェンガリはこの欠損を補うことによって、洗濯女をしたりモデルをしていた彼女を、ヨーロッパの皇族も注目するような歌姫に変えたのである。スヴェンガリは彼女と結婚するが、彼女を愛してはいない。正しく歌えなければ彼女に暴力をふるうし、金儲けの道具として利用しているだけであることは明らかだ。しかしそれでもスヴェンガリがこの欠損を補うという点は面白い。欠点を補われたトリルビーはどうなるのか。スヴェンガリの助手であるゲッコがこんなことを言う。
二人のトリルビーがいるんだ。一人はみんなも知っているトリルビー、音痴のトリルビーだよ。それはおれたちが愛しているトリルビーだ。ああ、そうとも、このゲッコさまだって彼女をただ一人の恋人、ただ一人の妹、ただ一人の子供みたいに愛しているんだ。ところが魔術師のスヴェンガリがひとたび睨み、手をひらひらさせると、彼女はべつのトリルビーになる。彼女はただの歌う機械になっちまう。スヴェンガリのかわりに歌う、無意識の声になっちまうのさ。トリルビーが歌っているとき、おれたちのトリルビーはいなくなるんだ。おれたちのトリルビーはぐっすり眠っている。死んでいるんだ。
Svengali (1931) 2.jpgトリルビーは欠点を補われて、各国の皇族たちも注目するヨーロッパ一の歌姫になるが、同時にそれは、死の状態に置かれてしまうことなのである。代補の論理という点から反ユダヤ主義(あるいはレイシズム)を捉え直すことができるだろうか。


By Screenland Magazine - Screenland page 59-at right, パブリック・ドメイン, Link

Saturday, April 29, 2017

「マルクスと世界文学」 S.S.プラヴァー (その二)

Karl Marx and World Literature by S. S. Prawer

 マルクスは「雛菊」の人生にも、作者とは正反対の軌跡を見る。「雛菊」は貧民街に生きる十七歳の可憐な少女である。生活は苦しいしつらい運命の連続だが、彼女はけっこうたくましく生きている。愛らしくて気品があり、自然なやさしさを持った彼女は非常に魅力的である。ところが彼女もルドルフの手によって修道院に入れられ、宗教に凝り固まるにつれ、最初の頃の快活さやうるおいを失い、最後はひからびた人間として死んでいくことになる。ところが作者は彼女の人生を、街角の女から宗教的聖女への変貌として描き出すのである。

 マルクスは作者シューのものの見方をそのまま受け入れて読むのではなく、その「外部」に立って批判的に物語を分析する。「外部」に立つことは批評の第一原則だが、案外これが難しい。「外部」に立つというのは、「内部」の矛盾・齟齬を見抜く位置に立つことだからである。

 さてプラヴァーが指摘するマルクスの三つ目の論点に移ろう。「パリの秘密」はパリという現実の秘密をあばくために書かれたのだが、しかし小説に書かれていることと現実を比較すると、実は小説の記述は現実を覆い隠したり、歪めたりしている。いちばん典型的な例はシューの notary (書士と訳せばいいのだろうか)の描き方である。これは現実の notary とはまるで違っているので、パリの notary たちから異論が噴出し、「パリの秘密」が舞台用に脚本化されるとき、notary の出る場面は削除されたほどである。

 またパリの労働階級の女たちの性愛も歪めて書かれている。ディケンズが描く売春婦の姿が実際とちがうように、シューが描くところの労働階級の女たちの性愛のありさまも現実とはちがう。しかしこれは逆に、「パリの秘密」がその人々にあてて書かれている読者層の偏見を露わにしているという点で興味深い。

 さらにマルクスの四つ目の論点に移ろう。それはルドルフのユートピア的計画が机上の空論にすぎないことである。ルドルフは模範的な農場の経営を考えたり、失業者に無利子で金を貸し附ける銀行をつくろうと考えるが、マルクスはこれらがまったく誤った議論であることを示している。

 マルクスがこの点に関して実際どんな議論を展開しているかは「神聖家族」を読んでもらったほうが早い。だいたいルドルフの考えを聞けば、いまのわれわれであれば経済学の知識がさほどなくても、直感的にこれはダメだと判断ができるのではないか。ただここでちょっと問題にしたいのは、プラヴァーその他の人々が指摘するように、マルクスが文学作品と現実を混同しかけている点である。小説は青書でもなければ政治的パンフレットでもない。小説の内容を現実のデータで批判することは、的外れなのである。

 もちろんマルクスもそのことは知っている。しかし知っているけれども「神聖家族」のある部分ではその区別が充分に維持されていないような印象を受ける。この反省に立って、われわれはマルクスよりももっと厳密にこの区別を意識して作品を批評しなければならないのだ。

 最後に第五の論点について。わたしの見るところ、これは第二の論点と重なるのだが、登場人物の語ることと、実際のその振る舞いの間には矛盾が生じている。たとえばやくざの「校長」は、ルドルフによって地下室に閉じこめられたときのことを後に振り返って「地下室での孤独がおれの心を清めたのだ」などと言っているが、これはとても信じられない。彼は獣のように吠え、狂ったように怒り、恐ろしい復讐のことしか考えていないような状態だからである。作者シューは、ルドルフの処置が「校長」にすばらしい影響を与えたような印象を読者に与えたがっているようだが、「すばらしい影響」は自然な形で「校長」の胸にわきあがってきたのではない。とってつけたように口にされるだけである。こうした矛盾は作者の思考の粗雑さをあらわすものだとマルクスは指摘する。

 プラヴァーはマルクスの議論を以上の五点にまとめて整理している。わたしが以前書き落としたことをすべてすくい取ってくれているので、非常に助かるまとめだった。さらにマルクスはバルザックの「人間喜劇」をも批評するつもりでいたという事実も教えてもらった。それを知ったとき、ああ、それは是非とも読みたかったと、思わず嘆息してしまった。マルクスによるメロドラマ批判が以後の文芸批評に裨益することは間違いなかっただろうに。

Wednesday, April 19, 2017

「マルクスと世界文学」 S.S.プラヴァー (その一)

Karl Marx and World Literature by S. S. Prawer

以前、マルクスの「神聖家族」に載っている「パリの秘密」批判を紹介した。たまたま Verso から出ている本書を見ていたら、「神聖家族」の内容を非常に簡潔に、見事にまとめた一章があったのでそこを紹介して補足としておきたい。

 「マルクスと世界文学」は序文にも書いてある通り、マルクスの文学理論をさらに展開させたものではなく、マルクスがそのときどきにおいて文学について語ったことを作者なりに整理したものである。とくに理論的に面白いということはないのだが、参考書としては抜群に有用性を持つ一冊と言える。

 ウジェーヌ・シューの「パリの秘密」は一八四二年から四三年にかけて分冊形式で発表され、大評判となった。セリガという批評家は新ヘーゲル学派の立場からこれを解釈し、賞賛する。マルクスは「神聖家族」において、まずセリガの生半可な観念論に批判を加え、かつ「パリの秘密」という作品それ自体の問題性も指摘する。

 プラヴァーはマルクスの議論を五つに分けて紹介している。まず第一の議論はセリガに対する反論である。これは八つの項目に整理できる。

 1 セリガは小説のエピソードを思弁的なヘーゲルの議論に合うように、ねじ曲げて理解している。
 2 セリガはパリを知らないため、小説の含意を誤解している。
 3 セリガは文学上の約束事に無知なため、舞踏会の場面などの意味を理解していない。
 4 セリガは小説のくだらない言い回しに、深遠な意味を見てしまっている。
 5 セリガは作者自身の人物解釈、出来事解釈を額面通りに取りすぎている。
 6 作者がみずからいう「この小説が持つ社会的目的」に対して充分、批判的距離を取っていない。
 7 セリガはこの小説の文学的価値を誇大評価している。
 8 セリガの文章は彼が明晰に考えることも、まともにドイツ語をあやつることもできないことを示している。

 じつに綺麗な整理だ。これを読んでわたしはデリダの脱構築に影響を受けた人々が、彼のまねをしてろくでもない文章を大量に書いたことを思い出す。はっきり言えば、デリダは読む価値がある。しかしエピゴーネンが書いたものには三文の価値もない。セリガがヘーゲルの知的レベルにはるかにおよばず、ただ猿まねの、ずさんな議論を展開したように、デリダのエピゴーネンどもも混乱した頭で勝手な熱を吹いていただけである。

 さて、マルクスの議論の二つ目に大切な点は、「作者シューが実際に書いていることと、彼が書いたと思っていることのあいだには、齟齬がある」ということである。わたしがなによりもマルクスの議論のなかで大切だと思い、ブログに書いたのはこの論点である。

 たとえば主人公のルドルフは立派な人格者として示されているが、話をよく読んでみるといい。とりわけ怪力を持つやくざ者、「校長」と綽名される男を捕まえて、罰を与えるために彼を失明させる場面を読むといい。彼は正義のためと言うが、じつは自分の勝手な、そして残忍な欲望を満足させているだけにすぎないのである。では、この物語がなぜ当時のブルジョアたちに受けたのか。それは一方で彼らの下劣な感情を満足させ、他方で道徳的な高揚をも味わわせることを可能にしたからである。

 この齟齬は「匕首」と「雛菊」にも見て取れる。すでにブログに書いたことだが、重要なので簡単に再説したい。「匕首」は「校長」と同じように怪力を持つやくざ者である。しかし「校長」は悪事にのめりこんでいるが、「匕首」は快男児である。ユーモアがあり、気っぷがよく、振る舞いは粗暴だが、己を律する立派な信条を持っている。ところが彼はルドルフの手によって植民地に送られ、そこで植民地をおびやかす外敵と戦うことになる。そして最後に国家の犬と成り下がって死んでいくのである。しかし作者は、「匕首」はやくざ者から国家のために尽くす人に変貌したと称揚するのだ。日本では「匕首」のような人間を「英霊」なんぞと呼んだりもする。(つづく)

Friday, April 14, 2017

「二つの世界のロマンス」 マリー・コレーリ

A Romance of Two Worlds (1886) by Marie Corelli (1855-1924)

 十九世紀世紀末の人気作家、マリー・コレーリの処女作である。いろいろな意味で彼女の資質がよくわかる作品だった。

話の内容は単純である。即興演奏を得意とする若い女性ピアニストが原因不明の体調不調に陥り、転地療養のためにフランスへ渡る。そこで医者でありかつ神秘家でもあるヘリオバスと出会い、彼の治療を受けるようになる。これが実に有効な治療で、彼女はたちまちのうちに健康を回復する。それだけではない。ヘリオバスは彼女に精神世界の存在を教えるのである。彼女は薬物の使用により今まで知らなかった世界へとおもむく。彼女は幻の中で地球の外に出、火星の世界、木星の世界、そして輝かしい光のリングの世界、神の世界を知り、彼女の守護神に会う……。

 表題の「二つの世界」というのは、現実の世界とこの精神世界のことを言うのだろう。なにか小説らしく最後のほうで物語が盛りあがるのかというと、そんなことはない。たんたんとピアニストが彼女の身に起きたことを語るだけで、神秘家である医者の美しい医者の妹が雷に打たれて死んでしまい、葬式のあと、ピアニストと別れる場面で物語は終わってしまう。ただ、ピアニストが神秘体験をしながら、精神世界についていろいろな知識を手に入れる。そこが読みどころと言えば読みどころであろう。

「二つの世界」挿絵
たとえば、魚の中には電気をつくり出すものがあるが、人間にもそれが可能であると神秘家のヘリオバスは言う。そしてキリストやモーゼもそうした電気をあやつる能力を持っていたのだそうだ。マリー・コレーリはキリスト教を擁護するけれども、彼女の考えるキリスト教は伝統的なそれではない。あきらかにそれ以外の、雑多な要素を取り込んだ、いわばニューエイジ的キリスト教である。

 マリー・コレーリは「分析的」な態度を批判するけれど、それもニューエイジ的思考と関係しているのだろう。ニューエイジ的思考は「総合」を目ざすからである。それはいちいち分析し、理屈をこねることよりも、一気に対象を感得しようとする。それゆえ彼女の作品においては科学的な態度がよく批判されることになる。

 わたし自身はニューエイジ的な思考に対して批判的で、たとえばノンセンスを分析的知性の産物と見なし、それに詩という総合する力を相対させるエリザベス・シェーエルの議論などもだめだと思っている。こんな単純な対立図式では現実をとらえることができない。連続と不連続、一と多、不変と変化、統一性と多様性、こうした対立は哲学においても数学においても科学においても必ずパラドックスを構成する。わたしは決してラカン派ではないけれど、しかしいまのところ、人文科学の分野でこのパラドックスをもっともうまく説明できるのはラカンの議論なのである。

 話がそれたが、マリー・コレーリがニューエイジ的な考えを持っていたということは本書を読んでよくわかった。そういえば「悪魔の悲しみ」の中で、彼女はブラヴァツキー夫人の名前を出していたはず。十九世紀の世紀末にブラヴァツキー夫人は「秘密の原理」という本を書いて近代的な神智学の礎を築いたが、ニューエイジというのはその末流である。だんだんとマリー・コレーリの想像力がなにに由来するものなか、見えてきたような気がする。おそらくこの神秘的な想像力が彼女の人気の秘密の一端なのだろうし、彼女が嫌われた理由でもあるのだろう。

Sunday, April 9, 2017

「バラバ」 マリー・コレーリ

Barrabas, A Dream of the World's Tragedy (1893) by Marie Corelli (1855-1924)

 表題のバラバは、キリストのおかげで処刑をまぬがれた例の盗人である。本書のバラバは美しい恋人のために盗みと殺人を犯したことになっている。彼は牢屋に入れられるのだが、過ぎ越しの祭の日にキリストとともに民衆の前に引っ張り出され、民衆の意志により罪を許されることになる。過ぎ越しの祭の日には、罪人が一人だけ恩赦を受けるというのが、当時のエルサレムでのしきたりだったのだ。しかし実質上なんの罪も犯していないキリストが磔の刑に選ばれたのにはちょっとしたわけがある。

Arthur Maude - Shadow of Nazareth 1913.jpg
By Arthur Maude - frame capture of a 1913 film, Public Domain, Link

 キリストが捕まったのは、彼が金貸し(今で言うなら大企業)や聖職者や税吏などを批判したからである。要するに支配階級がキリストの言動を不都合に思ったから彼を捕まえたのである。しかし当時の総督ピラトは、キリストが悪い人間だとは思わなかった。それはそうだろう。別に人に危害を加えてはいないのだから。それに対してバラバは盗人であり人殺しである。総督としてはバラバを処刑し、キリストを釈放するつもりだった。

 ところが金貸しや聖職者はキリストを処刑しろと要求してくる。ピラトはその強硬さに辟易とし、わたしにはわからない、民衆に決めてもらおう、と言うのである。民衆なら支配者層とはちがってキリストとなんの利害関係もないから、無実の彼を釈放するだろうと考えていたのかもしれない。しかし金貸しや聖職者たちはあらかじめキリストの悪辣さを民衆に吹きこんでいたのである。扇動されていた彼らはピラトにむかってキリストの処刑を要求する。

 こうしてキリストはゴルゴダの丘で処刑される。

 本書においてはこの処刑の日の様子が延々と詳しく描かれている。ヴィクトリア朝末期に三巻本で出された作品だが、ほぼその半分はキリストの処刑の描写に費やされている。

 一八九五年に作者は「『バラバ』とその後」という評論をザ・アイドラーという雑誌に載せていて、それによると「バラバ」は出版されて一年ほどのあいだに十四版を重ね、ヨーロッパの六つの言語に翻訳され、パールシー語やヒンドゥスターニー語でも紹介されたという。驚くべき評判を取った作品である。

 いったいなにがそんなによかったのだろうか。

 正直に言ってこの作品には粗さが目だった。文章も冗長で、メロドラマがすぎている。とくにバラバの恋人(彼女はユダの妹になっている)は気が触れてからというもの、いやらしいほど感傷的な台詞を吐きまくっている。そして決定的と思われる欠点は、キリストやその母マリア、そして父のヨセフがあきれるほど平坦な描かれ方をしているということだ。まあ、コレーリにとっては彼女の神秘学の中核にある存在だから、それを立体的に描き出すのは至難の業なのだろう。どんな作家でも自分のファンタジーの中核に迫りすぎると、表現が凡庸になり失敗する。核心を狙った矢はかならずはずれるのだ。これが芸術の不思議なところだ。

 しかし欠点はあるけれども、確かに大衆の気を惹きそうな「美点」もある。一つはコレーリ一流のスペクタクル・シーンである。キリストが死ぬ瞬間にエルサレムは突然闇黒につつまれ、雷が鳴る。その劇的な変化は映画の一場面のように強烈だ。甦ったキリストが光につつまれてあらわれる場面も同様である。

 もう一つの「美点」はドラマチックであるという点だろう。これはバラバの改心に典型的にあらわれている。彼は卑俗な盗人なのだが、キリストを処刑や復活を目撃して彼の教えに服するようになる。コソ泥が敬虔な宗教人になるという、この振幅の大きさがコレーリの作品の特徴の一つである。このことは「ジスカ」を書評したときにも指摘した。

 こういう図柄の大きさが読者層に受けたのだろうか。

 ただ、彼女が伝統的なキリスト教信仰の持ち主かというとそうではない。たとえばコレーリは人間は死ぬのではなく、別の次元・世界へ移行するのだと考えている。十九世紀末といえば「神の死」が唱えられた時期だが、コレーリは「死の死」を唱える。しかしこれはそんなに奇抜なことではない。キリストの死(そして復活)によって、死という観念が死んだということは以前から言われている。コレーリが独特なのは「死の死」に輪廻思想をくっつける点だ。それゆえ魂はこの世で転生をくり返し、あるいは別の世界で生きつづけるのである。

 さらに次の点も注目すべきだと思う。コレーリは、この世で悪をなせば、死んでそれに決着がつくのではなく、罪を次の次元、次の世界へ持ち越すことになると考える。それは恐ろしいことであると、作者はバラバの恋人に言わせている。これはフロイトの強制反覆の世界ではないか。ある不快な体験が何度も何度も反覆される。死んでそこから逃れることができるならいいのだが、それは死んでも逃れられないような何かなのである。私は以前アルバート・バーグ氏の「難破船」という作品を訳させてもらったが、あれは強制反覆の格好の例である。(右にあるリンクから作品をダウンロードできます)コレーリが描く不死(undead)の世界は妙にリビディナルな世界ではないのか。

GiveUsBarabbas.png
Public Domain, Link

Wednesday, April 5, 2017

「ステラ・マーベリーの証言」 トマス・アンスティ・ガスリー(その二)

The Statement of Stella Marbelly, Written by Herself (1896) by Thomas Anstey Guthrie

 「ねじの回転」はヴィクトリア朝時代にはたんなる幽霊譚として読まれていたのだが、批評家が語り手の家庭教師は精神を病んでいる、彼女の言うことに客観性はない、と言い出してから問題視されるようになった。「ステラ・マーベリーの証言」においても語り手は精神を病んでいるように見える。ただ「ねじの回転」の場合はそのことがわかりにくいが、「ステラ・マーベリーの証言」においてはそれはかなりはっきりと示されている。

 本文、つまり手記そのものを紹介しよう。

 語り手は自分の特殊な性格をよく理解しているらしく、自分の幼少の頃から話を説き起こしている。いかに彼女の性格が形成されてきたのか、また、事件が起きる前の、彼女と副主人公との間柄がどのようなものであったのか、それをわかりやすく書いている。彼女は幼くして母を失い、継母によって育てられる。継母は親切な人だったようだが、ステラは扱いにくい子供で、「嫉妬と不機嫌という二匹の悪魔」に取り憑かれることがよくあった。彼女は素直ではない、わがままで、どこか天の邪鬼的な性格を持った女の子だった。

 彼女は寄宿学校に入れられ、そこで本書の副主人公イヴリンと出会う。イヴリンは優しいけれども気が小さくて身体が弱かった。二人は学業の上ではトップを争うライバルだった。もっともステラは「本気を出す気になれば、彼女を越えることはできた」と自慢しているけれども。彼らは学業の上ではライバルだけれども、お互いに相手のことが好きだったようだ。「わたし(ステラ)は思い切り彼女(イヴリン)に冷たくしているときも、彼女のことを愛していた。わたしは本能的に彼女の純粋で気高い心を感じ取ったし、彼女がわたしを慕うのを誇らしく思った。しかし生まれついての自虐的な性格のせいで、彼女のわたしに対する気持ちを小馬鹿にし、それを失いかけたこともあった」

 さてステラは学校を卒業すると家に帰るのだが、父が破産したこともあって自分で自分の生計を立てようと考える。ちょうどそのときイヴリンが若い付添婦を探しているということを聞き、さっそくイヴリンの住んでいるサリーへおもむく。付添婦というのは話し相手や相談役を務める人のことだ。

 学校以来の再会をはたした二人は非常にうれしがる。どちらもちょっとだけ大人になって、まるで恋人同士のように親密になる。しかしこの関係は長くは続かない。以前イヴリンに心を惹かれたことのある、ある男性が彼女を訪ねて来るようになったのだ。ステラはこの男にイヴリンを取られてしまうのではないかと気が気ではなくなる。いや、それどころか、彼女はこの男に恋心を抱くようになるのである。ついに嫉妬は憎しみに転化し、二人はある日大げんかをする。

 その晩のことだ。ステラはイヴリンの伯母に睡眠薬はないかと尋ねられる。イヴリンが興奮して寝られないようだから彼女に薬を与えたいというのである。ステラは自分の睡眠薬のありかをイヴリンの伯母に教える。しかしこの睡眠薬は劇薬で、イヴリンのような身体の弱い人には毒薬になってしまうようなものなのだ。

 ここからがこの小説の面白いところだ。

 翌朝、ステラがイヴリンの部屋を訪ねると、イヴリンは死んでいた。ステラはショックを受け、睡眠薬を与えたことを後悔する。ところがだ……ステラが見ている前でイヴリンは再び甦ったのである! しかもただ甦っただけではない。イヴリンは死んだ後、悪霊に身体を乗っ取られたようなのである!

 しかし、悪魔に身体を乗っ取られているというのはステラの幻想にすぎないのか、それとも真実なのかはわからない。イヴリンがステラに悪魔の顔を見せるのは、彼女と二人きりのときだけであり、他の人といっしょにいるときは、いつもとまったく変わらないからである。異常に気がつくのは語り手のステラのみ。「ねじの回転」の語り手の場合とまったく同じである。

 このあとイヴリンは例の男と結婚し、ステラはハネムーンから戻ってきた彼女と最後の対決をし、陰惨な結末を迎える。ネタバレしたくないので詳しくは書かないが、「ねじの回転」の結末とよく似たところのある終わり方になっている。いやいや、こちらのほうが先に出版されているのだから、「ねじの回転」のほうが「ステラ・マーベリーの証言」に影響を受けていると言うべきだろう。

 この本はつい最近ヴァランコートからリプリントが出た。ヴァランコートは忘れられたホラーやサスペンスやLGBT文学の名作を再刊している出版社だ。「ステラ・マーベリーの証言」はヴァランコートが発掘した名作のひとつとして名を残すに違いない。
 

Wednesday, March 29, 2017

「ステラ・マーベリーの証言」 トマス・アンスティ・ガスリー(その一)

The Statement of Stella Marbelly, Written by Herself (1896) by Thomas Anstey Guthrie

The-Turn-of-the-Screw-Collier's-5.jpg ヘンリー・ジェイムズの「ねじの回転」(1898)は unreliable narrator の作品として有名である。実を言うと、この unreliable narrator という言葉には、わたしはちょっと違和感がある。なぜかというと語り手というのはもともと unreliable なものだからである。たとえば紫式部なんかは、「源氏物語」を書いて地獄に落ちると思われていた。「源氏物語」を読んでる人間だって地獄に落ちると思われたのである。フィクションというのは嘘のかたまりであって、そんなものを書いたり読んだりする人間はろくでもないということである。フィクションの語り手は嘘つきにほかならない。

By Collier's Weekly, illustration by John La Farge - Beinecke Rare Book & Manuscript Library, Yale University, パブリック・ドメイン, Link

 そこで初期の作家たちはいろいろと工夫を凝らし、自分たちの作品がでたらめや嘘ではないような見かけをほどこした。それが書簡体小説といわれるものだ。つまり作者は道を歩いているときに手紙の束を拾った。非常に面白い内容なのでここに発表しようと思う。ただし手紙の書き手は教養がなく綴りや文法の間違いがあるので、それは訂正しておく、云々、といったような前書きをつけたのである。自分が書いたものではない、他人が書いたものなのだ、そう主張することで物語の客観性を保証しようというのである。物語を作者自身から遠ざけるようなこの所作をディスタンスの技法などといったりする。

 「ねじの回転」にはプロローグがついていて、これがやはりディスタンスの技法を使っている。「わたし」はあるとき知り合いたちと幽霊話をしあって楽しんだ。その知り合いの一人が、自分はとびきり怖い幽霊譚を知っている、という。その体験をした女性が書いた手記が彼の自宅の鍵の掛かった机の引き出しの中にある。それを彼は送らせて、知人たちに読み上げるという話である。つまり「ねじの回転」の本文は「わたし」が書いたものではないというわけだ。しかも手記はある男の家の「鍵の掛かった」机の引き出しの中にあった、という具合に、「わたし」と「手記」との距離を非常に強調している。

 この距離はさっきも言ったように物語の客観性を保証するためのものであるはずなのだが……誰もが知っているように「ねじの回転」の本文、家庭教師の手記は、読めば読むほど、その記述の客観性が疑われるようなものなのである。小説の歴史を理論的に考える上で、「ねじの回転」が非常に重要なわけがここにある。

published by Valancourt Books
トマス・アンスティ・ガスリーの「ステラ・マーベリーの証言」を読んでびっくりしたのは、「ねじの回転」よりも二年も前にこれとよく似た作品が存在していたということを知ったからである。わたしにとっては大発見である。もっとも研究者はとっくにこのことを知っていたのかもしれないけど。

 タイトルを見るとわかるが、この本はステラ・マーベリー本人が書いたことになっている。ただし本文の前にはT・フィッシャー・アンウィンなる人物の序文(Preliminary Note)がついていて、「自分は以下の手記を手に入れた。奇怪で興味深い内容なので出版することにした」ということが書かれている。ディスタンスの技法を使っているのだ。もちろんこのアンウィンという人物は作者トマス・アンスティ・ガスリーのペルソナである。ガスリーは最初、自分の名を伏せて本を出版したのだが、すぐに彼が作者であることがばれてしまったらしい。

 さて、この Preliminary Note のあとには手記の著者ステラ自身の序文(Introduction)がついているのだが、ここからもう手記の真実性が問題となってくるのだ。ステラは記憶が曖昧にならないうちに、自分がやらかした犯罪とも見える行為を、正確に、公平に書きつけようと思う、と言っている。なるほど確かに記憶が鮮明なうちに事実関係を書きつけておこうとすることはよくある。しかし続けて彼女は「たぶんわたしが真実を書いていると思う人はあまりないだろう。しかしそうであってもかまいはしない。もうすでにわたしは、外の世界の人がどう考えようと気にしなくなっているのだから」とも言っている。ここまで来ると読者はこの手記を素直に読むことはできないことをぼんやりと悟るだろう。彼女自身が「真実を書いていると思う人はあまりない」と言っているだけではない。「外の人」というところを読んで、この人は牢獄か精神病院(asylum)に入っているのだなと勘づくからである。犯罪人、あるいは精神異常が書いた手記となれば、誰もが眉に唾して読むことになる。しかもその犯罪人、あるいは精神異常すら「真実を書いているとは思う人はあまりないだろう」というくらいの内容ともなれば、なおさら身がまえて読むことになる。

Saturday, March 25, 2017

「神聖家族」 マルクス・エンゲルス (その四)

 マルクスの議論は多岐にわたり、彼が溜め込んでいる知識の膨大さがよくわかった。とてもそのすべては私にはわからないし、それ故紹介もできない。ここに書いたのは彼の議論の急所と私が考える部分だけである。そこをもう一度整理しておきたい。

 「パリの秘密」というメロドラマはイデオロギー装置である。それは人々にブルジョア的な観念を植えつけようとするものだ。ブルジョア的な観念とはとりわけ道徳とか信仰のことである。これをブルジョア以外の、その支配下にある人々に教えこむこと。下層階級からしてみれば、「外部の意識」を与えられることである。この「外部の意識」が当然であり、「自然」なのだということを下層階級に納得させるために、ブルジョアはさまざまな脅し(牧師の説教とか)や社会機構(警察とか牢獄とか)を使う。

 ところで一方で、ブルジョアたちはブルジョア的な観念を信じているのかというと、それはとんでもない間違いである。ルドルフは自分ではブルジョア的な観念を信じていると思っている。もしかしたら本気で自分は信仰と道徳のかたまりだと思っているのかもしれない。しかし彼はあきらかに私的な利害関係で動いている。どうやら自分が私的な利害で動いていることに気がつかず、ブルジョア的価値観を世界に広げるために自分は働いていると考えているらしい。マルクスの「パリの秘密」論でもっとも肝腎な論点はここだ。マルクスは意識と、行為の外形とのあいだにあるギャップを知っていたのだと思う。

 「神聖家族」のなかで語られているわけではないが、読んでいて私が考えたことについても書いておこう。「パリの秘密」はルドルフを善であり英雄であるとしている。彼はブルジョア的な観念を世界に広めるために努力している。しかし同時にこの作品は、「じつはそうでない」という秘密ももらしてしまっている。マルクスのように細かく読めば、ルドルフがまったく善ではなく、英雄でもないことがわかるように書かれている。いったいこれはどういうことなのか。なぜ作者はブルジョア的観念を世界に広める善人、かつ英雄として描かなかったのか。彼のうっかりなのか、それともイデオロギーはおのずとその限界をあらわしてしまうものなのか。

 私は後者なのだと考える。つまりイデオロギーは自分を規定し、規定しながらその限界を提示してしまうのである。その限界の読み取りは必ずしも容易ではないけれど、しかし可能である。たとえば時代の変遷がそれを可能にすることもあるだろう。実際、十九世紀末においては、ルドルフを善人・英雄と読み取る輩がいて、マルクスはそれを痛烈に批判するためにこの論文を書いたのである。しかし今、「パリの秘密」を読むとどうだろう。すくなくとも私はルドルフを嫌悪した。ルドルフが怪力のやくざ者を捕らえ、目をつぶしてしまう場面など、反吐がでるくらいだ。こんなふうに時代が変われば感性が変わり、その作品の限界が見えてくることがある。

 もう一つ考えたことがある。メロドラマをいろいろ読み返しているうちに、どうもブルジョア的な価値観を俗っぽい形で提示したものと、特徴付けることができそうな気がしてきた。しかしメロドラマというのは、批評家によってもっとも批判・非難されるものである。「あれはメロドラマだ」といえば、あの作品はくだらないと言うに等しい。では批評家はブルジョア的な価値を否定しているのかというと、そうでもない。だいたい彼らはブルジョアに属する人々である。ブルジョアがブルジョアの価値観を貶める? これはどういうことなのか。

 私の疑問が筋違いなものではないと仮定して考えるなら、二つの理由がすぐに思いつく。一つはマルクスが活躍した頃にはもうメロドラマがステレオタイプ化していたということ。なにしろフランス革命のあとに出てきた形式だから、生まれてもう百年が経つわけだ。いやになるのも当然である。

 もう一つの理由は、ブルジョアがブルジョアの価値観を称賛するなど、いかにも恥ずかしい行為である。最近はそうでもないようだが、この頃はまだ知的な慎みというものがあったのだろう。(日本文化はクールだ、などと、日本政府が言うのは恥ずかしいことである)

Monday, March 20, 2017

「神聖家族」 マルクス・エンゲルス (その三)

 ルドルフの慈善は利己的な理由からなされている。彼が悪人を裁くときも、一見するとそれは正義のためのようだが、本当は個人的な理由から行われている。つまり正義とか道徳というのは建前・カモフラージュにすぎない。聖書には「御使等いでて、義人の中より、悪人を分かつ」とか「すべて悪をおこなう人には患難と苦難とあり、凡て善をおこなう人には、光栄と尊貴と平安あらん」という言葉があるが、
ルドルフは自分でこのような御使のつもりでいる。彼は義人のなかより悪人をわかち、悪人を罰し、善人にむくいるために、世のなかへでかける。善悪の観念は彼の弱い頭脳に非常な感銘をあたえたので、彼は生身のサタンがいるものと信じ、ボン大学の故ザック教授のように、悪魔を生けどりにしたいとおもう。他方ではこれと反対に、悪魔の対立者である神を小規模に摸倣しようとつとめる。彼は「摂理の役割をいささか演じること」がすきだ。現実のうちでは、すべての区別が、ますます貧富の区別に融合するように、理念のうちではすべての貴族主義的な区別が、善と悪の対立に解消する。この区別は、この貴族主義者が自分の偏見にあたえる最後の形態である。ルドルフは自分は善人のつもりでいる。悪人が存するのは、自分が卓越しているという自己満足を彼ルドルフにあたえんがためである。
マルクスは痛烈な言葉でルドルフを批判している。まずルドルフの正義が本質的に利己的なものであることを示唆する例をひとつ引こう。彼は物語の冒頭で雛菊に出会い、彼女の不幸な生い立ちを聞いて涙がこぼれるくらい感動する。そして雛菊を虐待した育ての親の邪悪さに興奮し、おごそかに従者にむかって言う。「おまえも知っているように、ある復讐は、わたしにはたいへん貴重なのだ。ある苦痛はたいへん大切なのだ」そう言いながら、悪魔的に顔をしかめて見せたので、従者はぎょっとして「おお、殿下!」と思わず叫んでしまう。悪人に苦難を与えるという高貴な行為の背後に、悪魔的ななにかが潜んでいることを露見させる一瞬である。

 ルドルフは世界の審判者を気取り、「先生」と呼ばれる悪党をわなにかけ、ひっとらえてから失明させる。しかしこの行為が単純に「悪を懲らしめる」という目的を達成するためのものと考えてはいけない。筋を説明するのは面倒くさいので省略するが、「先生」はある伯爵夫人の書類入れを持っていて、ルドルフはこの書類入れを取り返したいという個人的な利害を持っていたのである。ここが肝腎なところだ。書類入れを持っていなければ、ルドルフはこの悪党になんの関心も抱かなかったかもしれないのだ。しかもこの悪党に殺されかけたルドルフは、彼を失明させるという野蛮な懲罰を科す。この男ルドルフは性格的に野蛮と言わざるをえない。しかし彼は「自分の邪悪な情熱の爆発を、悪人の熱情にたいする爆発であるように、自分自身にも他の人々にも示す」(「神聖家族」からの引用)のである。彼は「先生」に残虐な刑を科すにあたって、異端審問をおこなう裁判所のようなセッティングをととのえ、わざと「おちついた、ものがなしい、心をしずめた」さまを見せるのだ。

 ルドルフの刑法理論の二重性についてマルクスは非常にわかりやすく、こう書いている。
 ついにルドルフ自身は、彼のカトリック的刑罰理論をとりけす。彼は死刑を廃止して、刑罰をくいあらためにかえようと欲した。ただしそれは殺人者がほかの人々を殺し、ルドルフ一門のものにはさわらない場合にかぎる。ルドルフは、殺人が一族にかかるやいなや、死刑を採用する。彼には二重の立法が必要だ。一つは彼自身のために、一つは俗衆のために。
これが「善良なる」ルドルフの正体であるとマルクスは言う。いや、まったくその通りだと私も思った。「パリの秘密」が出たとき、セリガ=ヴィシヌーという批評家はこの本を称賛したけれど、いま読むととても感心などはできない本である。わたしも読んでいてルドルフの残酷さの異様さに辟易としたが、作品それ自体はそれを異様とはみなしていないようなのである。私はマルクスの丁寧で説得力のある解釈に全面的に賛成する。ルドルフは金持ちのぼんぼんによくある、自己抑制のきかない、わがままな人間である。それどころか異様な復讐欲にとりつかれている。「彼はまさしくありとあらゆる悪人の情熱をそなえており、そのため他人の目玉をえぐりとるのだ。ただ僥倖と、金と、階級が、この『善人』の牢獄入りを救ったのである」

Tuesday, March 7, 2017

「神聖家族」 マルクス・エンゲルス (その二)

 マルクスは雛菊の宗教教育の過程を丁寧に追い分析しているが、ここでは一気にその最後に向かおう。要するに彼女は生活者としての現実感覚を失い、「この世ならぬ」態度を取るようになる。そのきわめつけは現実との関わりをまったく絶つことである。そう、彼女は修道院に入り、そこの尼院長に昇進する。しかし彼女はそこで死んでしまうのである。マルクスはこう書いている。
 修道院生活はマリ(雛菊のこと)の個性にふさわしくない――彼女は死ぬ。キリスト教は彼女を想像のなかでなぐさめるだけである。あるいは、彼女のキリスト教的なぐさめは、まさに彼女の現実の生活と本質の絶滅――すなわち彼女の死なのである。
雛菊の死が、彼女の個性の死とともに訪れるという解釈は充分な説得力がある。冒頭の、華奢でありながらも溌剌として、それなりに力強い存在であった彼女は、物語が進むに連れて、なにやら衰弱していくような印象を与える。それを彼女の宗教教育と結びつけて考えるのは当然だろうが、マルクスはそのことをじつに理路整然と、段階を負って説明している。

 マルクスは同様の分析を「匕首」に対しても行っている。彼は野育ちのやくざ者だが、ルドルフの教育によって改造され、「くいあらための生きた、ためになる実例として、なかなか信じたがらない世間の見せ物にするために」(「パリの秘密」からの引用)匕首はアフリカに送られる。そこで彼はイギリス植民地を襲う現地人と戦うのだ。彼はイギリス帝国主義の犬となる。西欧世界のキリスト教の教義を示さなければならなくなる。こうした改造のきわめつけの結果は彼の最後の場面に示される。匕首はルドルフの身代わりになって刺殺されるのだが、彼は「純粋な献身と、道徳的ブルドッグ主義の生涯をりっぱにおえた」(「神聖家族」からの引用)のだ。虫の息の匕首はルドルフにこう言う。「私みたいなミミズのようなものでも、あなた様のようなえらい殿下のお役にたつことも、たまにはあるものだといってようございましょうね」彼は犬のように屈従的な存在になってしまっていた。これがルドルフの教育の結果である。

 私はアルチュセールのメロドラマ批判を紹介したとき、「外から借りてこられた意識」という考え方について説明したけれど、雛菊にとっても匕首にとってもブルジョア的な信仰心・道徳心は、まさしく外部の意識である。

 ルドルフは最下層の人間であっても見どころのある人間はこのように「教育」をほどこして助ける(結局は殺されるようなものだけど)。そして悪者を成敗する。今度は成敗の場面に着目してみよう。そこにはおそるべき「すりかえ」や「ごまかし」が見られる。

 しかしその前に、そもそもなぜルドルフは慈善を施すのか、マルクスがその理由をえぐり出しているのでそこを確認しておこう。ちょっと長いが引用する。
貧困は、慈善家に「小説のピリッとしたところ、好奇心の満足、冒険、変装、自分の優秀さをたのしむこと、神経の激動」その他をあてがうために、意識的に逆用される。
 これによってルドルフは、人間的貧困そのものが、施しものをもらわねばならぬような無限の棄却が、金と教養をもった貴族のあそびとして、彼らの自愛をまんぞくさせるために、彼らの傲慢心をくすぐるために、彼らのなぐさみのために役だたねばならぬという、ずっと前から暴露されていた秘密を、それと知らずに公言したのである。
 ドイツのたくさんの慈善協会、フランスのたくさんの慈善団体、イギリスの多数のドンキホーテ的空想の慈善会、音楽会、舞踏会、演劇、貧民給食、それから災害者のための公共募金にいたるまでが、それ以外の意味をもつものではない。つまり、このようにして慈善も、ずっとむかしからたのしみとして組織されたのであろう。
要するにルドルフは心から貧困という「無限の棄却」のなかにある人々を憐れんで彼らを助けようとするのではない。そうする過程において小説的で刺激的な冒険を楽しみ、自分の立場の優越性を感じ、味わおうとしているのである。逆に言えば、施しものをする側は自己満足につながらない慈善などはしないということだ。実際にそのような偽善的な例が「パリの秘密」のなかにはちゃんと出てくる。


 
 
 

Friday, March 3, 2017

「神聖家族」 マルクス・エンゲルス (その一)

 この本はマルクスとエンゲルスの共著である。そのうち第五章と第八章でウジェーヌ・シューの「パリの秘密」が扱われている。この二章の作者はいずれもマルクスである。たんたんと議論が展開するなら読みやすいのだが、皮肉やひやかしが随所にまじっていて、ベンサムやフーリエやヘーゲルなどの哲学にも通じていないと読みこなせない。わたしはベンサムもフーリエもヘーゲルもろくに知らないので、マルクスの意図を充分に汲み取れたとはとても言えない。しかし辛抱強く読めば彼の言わんとすることは「だいたい」わかる。

 マルクスはウジェーヌ・シューの「パリの秘密」をどう批判しているのか。「パリの秘密」は膨大な小説で、登場人物も多いし、彼らのあいだの関係もややこしい。しかしそれを思い切り簡略化するならゲロルトシュタインという小さなドイツの公国の侯爵ルドルフが、水戸黄門よろしく青草人とまじわりつつ冒険を重ね、、悪人を成敗し、善人を助けるという話である。この「悪人を成敗し、善人を助ける」過程で強調されるのは、道徳と信仰だ。ルドルフは下層階級に道徳と信仰を押しつけ、またそれによって彼らを裁く。

 しかし第一の問題はこの道徳と信仰がブルジョア的な価値観であるということだ。下層民たちは自分たちとはおよそ縁のない人々の価値観を無理矢理押しつけられ、その結果、「匕首」と呼ばれるやくざ者や、「雛菊」と呼ばれる少女は死んでいくのである。

 第二の問題は、ルドルフは道徳と信仰を理由に下層民を裁くが、実はそれは建前で、本当は私的な怨恨、激情から裁くのである。マルクスはこの出鱈目さを徹底的にえぐり出している。

 第一の問題点については「雛菊」について議論を展開した部分を紹介したい。雛菊は物語の最初でルドルフが出会う貧民街の少女である。ルドルフは彼女が、行方不明となった自分の娘と同じ年齢であることから奇妙に愛着を覚える。(彼女がまさに自分の娘であったことが後に判明する)彼女は親の代わりに犯罪人の女に育てられてきたのだが、つらい人生を送ってきたにもかかわらず、「生気、精力、快活、性格のしなやかさ」を持っている。彼女の考え方は、ブルジョア的な信仰や道徳とはちがう、「人間的な」ものである。たとえば彼女は売春婦なのだが、キリスト教徒なら自分の罪深い過去を悔い改めようとするであろうが、彼女はつらいと思いつつも「すんだことはしかたがないわ」と言うのである。庶民的な処世術を感じさせるひと言である。

 また牧師から「神様のお慈悲はつきることがないのだよ! 神様はあんたを、たいへんくるしい試みのなかにもお見捨てにならないで、お慈悲をお示しなされた」と言われたとき、彼女はこう反論する。「あたしは自分をあわれんでくださった方、あたしを神様のところへつれもどしてくださった方のためにお祈りをいたします」これまた素朴な、人間的な考えではないだろうか。神様は大切かもしれないが、それよりも直接彼女に親切を施してくれた人に対して、彼女は祈りで感謝の意をあらわすのである。

Karl Marx 001.jpg しかしルドルフから雛菊の宗教的教育を任されたこの牧師は、こうした異端的な彼女の考え方を少しずつ変えていこうとする。そして彼女はこんなふうに変化する。「あたしはたえずルドルフさんのことを思いました。何度もあたしは空を見あげて、神様ではなく、あの方、ルドルフさんをさがし、お礼をもうしあげようとしました。ほんとうに――神父さま、、あたしは自分がわるいとせめるのです。あたしは神様よりも、あの方のことをたくさん思いました」雛菊は貧民街の娼婦という悲しい境涯から救ってくれたルドルフに深く感謝するのだが、それが神への感謝に変わっていくというわけだ。

 ここでマルクスはこう書いている。雛菊はルドルフによって与えられた「新しい幸福な境涯を、ありのままに、新しい幸福とだけ感じたこと、つまり新しい境涯に自然的な態度をとり、超自然的な態度をとらなかったことは、正しくないのだと言うことが、もうわかっている。彼女は、自分を救った人を、ありのままに彼女の救済者と考え、想像上の救済者たる神とすりかえなかったといって、もう自分をせめている。もう彼女は宗教的偽善におかされている。この偽善は、私のために他の人がつくしてくれたことを彼からとりあげて、これを神のわざとするものであり、一般的にいえば、人間のうちの人間的なものはすべて人間と縁がなく、人間のうちの非人間的なものはすべて彼の本来の性質であるとみなすのである」

 「自然」とか「超自然」とかマルクスは書いているけれど、これはそれぞれ「俗なもの」、「宗教的・霊的なもの」と解しておけばいい。「あたしは自分をあわれんでくださった方、あたしを神様のところへつれもどしてくださった方のためにお祈りをいたします」と言ったころの雛菊とはずいぶん変化した。マルクスの言うように「宗教的偽善」に染まってしまった。

Thursday, February 23, 2017

「オリオール」 W.ハリソン・エインズワース作

Auriol (1844) by W. Harrison Ainsworth (1805-1882)


ファウスト伝説を主軸にしたゴシック小説である。意外と面白かったので書評を書く気になった。
 エインズワースは十九世紀の中期から後期にかけて活躍した作家である。最初は法律家を目指していたようだが、性に合わず、ジャーナリズムや文学の世界に飛びこむことになる。生前はかなり人気があって、多作だったが、今は忘れられてしまった作家である。しかし彼の「ウィンザー城」はいまでもなかなかの幽霊譚だと評価されている。
 
 「オリオール」はまず1599年から始まる。オリオール・ダーシーという若者がオールド・ロンドン・ブリッジの近くで怪我をし、錬金術師をしているお祖父さんの家へ運ばれる。この錬金術師、そのときちょうど不老長生の薬を発明したところで、喜んで飲もうとしたのだが、突然発作に襲われ薬を飲むことができなくなる。そしてオリオールがかわりにそれを飲んでしまうのである。飲むと怪我はたちまちにして癒え、彼は永遠の生を得た。

 今度は舞台は1830年に移る。オリオールはあるとき暴漢に襲われ、意識を失ったまま鍛冶屋のソーニークロフトの家に運ばれる。ここで彼女の娘エッバがハンサムなオリオールに懸想するようになる。オリオールはエッバに、私のことは締めてほしい、私を愛すると大変なことが起きると言う。彼は奇怪な人物によってその運命を握られていて、彼を愛した女はみなこの奇怪な人物に奪い去られることになっているだ、と。そして実際、エッバは奇怪な人物によって誘拐され、肉体と魂を彼に引き渡すという証文にサインさせられるのである。

 さて今度は1800年が舞台となる。ここで前に出た奇怪な人物がサイプリアン・ルージュモントという貴族であることが分かる。彼は悪魔から得た財産を使ってオリオールとこんな契約をかわす。おまえにわたしの贅沢な屋敷と十二万ポンドの現金をやろう。そのかわりおまえを愛した女をわたしは生贄としてもらうぞ、と。オリオールはそのときエリザベスという女と恋をしていたが、金がなく結婚ができないでいた。そこで悩みながらもこの契約に同意したのだが……契約が成立するとサイプリアンはさっそくエリザベスを生贄に捧げることを要求してきたのである。こうしてエリザベスは連れ去られてしまった。

 最後の場面は1830年に戻る。エッバが連れ去られたあと、彼女の父や何名かの協力者がエッバを探してあやしげな屋敷に潜入する。そこでいろいろと恐ろしい目に会うのだが、ついにサイプリアンを探し出し、彼に向かってピストルを撃つ。ところがどうだろう、サイプリアンは銃弾をくらっても死なないのである。救助隊は落とし穴に落とされ、機械仕掛けの天井が徐々に彼らの頭の上に降りてくる……

 と、そのとき、オリオールは眼を覚ますのである。ふと気がつくと彼がいるのは1599年の世界だ。お祖父さんの錬金術師も生きている。彼は何百年も生きた夢を見ただけなのである。

 なんだその手の落ちが待ちかまえているのか、とがっかりすることはない。それまでの話はずいぶんと面白く書けている。まず雰囲気がいい。夜とか閉ざされた場所で事件が展開され、ほとんど息苦しいぐらいであるが、しかしこれがゴシック小説の書き方なのだ。物語の後半、エッバを探してあやしげな屋敷に潜入した捜索隊が、天井から降りてきた鐘状のマスクに顔をおおわれる部分などは、その異様さがウォルポールを思い起こさせる。

 普通、ファウスト伝説では魂を悪魔に売り渡す代わりに現世の利得を手にする。その中には世界最高の美人も含まれているわけだ。ゲーテのファウストにしろ、マーローのファウスト博士にしろトロヤのヘレンを手に入れるし、マリー・コレーリの「悪魔の悲しみ」では主人公は当代随一の美人と結婚する。もっとも「悪魔の悲しみ」の場合、その結婚は破綻に終わるのだけれど。ところがオリオールは愛する人を悪魔のようなサイプリアンに奪われる。作者はファウスト伝説にちょっとしたひねりを加えたようだ。これも悪くない。夢から覚めたオリオールは、欲望の対象が常に奪い去られる自分の運命からなにを学んだのだろうか。

Phiz Auriol.jpg
By Hablot Knight Browne (Phiz), scanned by Steven J Plunkett - Auriol by Harrison Ainsworth, early printing, Public Domain, Link

Saturday, February 18, 2017

「リリスの魂」 マリー・コレーリ

The Soul of Lilith (1892) by Marie Corelli (1855-1924)

 以前書評した「ジスカ」が非常に面白かったので、コレーリの作品をふたつ読んでみた。「アーダス」と「リリスの魂」である。ただ両者はよく似たテーマを扱った物語で、どちらかと言えば後者のほうが出来はいいので、ここでは「リリスの魂」を紹介する。

三巻本の長い話だが、主人公はエルラミという東洋人の科学者である。マリー・コレーリの物語ではよく科学と信仰が対立している。彼女が生きた時代は科学者が傲慢な発言をしていた時代で、たとえばウィリアム・トムソン(1824-1907)という物理学者などは、物理的事実の根底にある大原則はしっかりと定められた、あとは小数点以下の数値を精密に決定するだけだ、などとまで言っている。これに対しては当然ながら反発が起こり、科学では解明できない神秘への関心も高まった。それがスピリチュアリズムで、コナン・ドイルなどもこれには深甚な関心を寄せている。マリー・コレーリも科学が嫌いである。それは愛とか魂とか死後の世界などといったロマンチックな夢を否定するからだ。エルラミは徹底して科学の力を信じている。しかも実際に一度死んだ女の子を薬によって生き返らせるほどの科学的知識を持っている。このエルラミによって生き返った女の子が表題のリリスだ。

 生き返った、といっても、普通の人間のように動きまわることはできない。彼女はただ死者のように寝ているだけである。それでも息をし、成長もするのだ。いま彼女は小さな女の子から美しい女へと育った。エルラミが話しかけると、彼女はその声に応える。そしてエルラミを困惑させるようなことを言うのである。

 リリスは死は存在しないという。魂がべつの世界へ移動するだけなのだという。それは光に満ちた宇宙であり、エルラミの家のように薄暗くはない。ところがリリスは科学の力によって命を長らえさせられ、肉体を保持され、魂がべつの世界へ完全に移行することができないのだ。

 肉体は魂の牢獄である、という考え方がプラトン以来あるけれど、「リリスの魂」の根底にあるのはこの思想だと思う。魂は死んだとき薄汚れた肉体からイデアの世界に移行するのだ。しかしリリスはその移行を邪魔されている。彼女は現世と来世の中間地帯にいて、来世という光の世界へ行きたいのに、それがままならないのである。

 「リリスの魂」も「アーダス」も科学と神秘思想の対立に関していろいろな議論を長々と展開している。物質論的、現世主義的、拝金主義的な当時の考え方を批判するという点で、神秘思想はある程度有効である。しかしどちらの小説を読んでも私はあまり感銘を受けなかった。なぜならこのような対立は贋の対立だからである。べつにデリダのように二項対立を脱構築しなくてもいい。物質的で、現世主義的で、拝金主義的な人間が、コレーリの説くような神秘思想、イデア的な世界に親しむことはよくあるということに気づけば、両者の間に本質的な対立がないことがわかるだろう。たとえば鈴木大拙なんぞは、仏教哲学者で深遠な神秘思想の持ち主だったが、同時に彼はその神秘思想をもっていかに中国人を殺すかと言うことを軍人に説いていたのである。神秘主義と血なまぐさい現実主義とは対立するどころかつながっているし、補完し合ってすらいる。がめつく金儲けにはげむ社長さんが、熱心に写経したり、教会に通うことはよくあることである。

 「リリスの魂」を読んでいてつまらないのは、作者がそのことに気づいていないからである。彼女の批判を読んでも、結局のところ、私はブルジョア世界の外に出たという気がしない。それどころかブルジョア的な価値観を強化しているのではないのかという疑いさえ抱く。

Wednesday, February 8, 2017

番外 読書「刑」

歴史的なアフリカン・アメリカンの学校校舎に五人の少年が人種差別的、反ユダヤ的、そして猥褻な落書きをして捕まった。彼らに対する判決がヴァージニア州の裁判所で下された。裁判官は五人の少年に三十五冊の本を読み、十四の映画を見、二つの博物館を訪ね、「性、人種、宗教、偏見への理解を深めるために」レポートを一本書くように命じた。

検察のひとりの女性は司書の娘で、なにも知らないバカな少年たちを教育するにはいい機会であると、このような「刑」を求めたのだった。

ガーディアン紙の記事によると、読書を義務づける判決が出たのはこれが最初ではないそうである。去年の九月、イタリアで、売春をはたらいていた十五歳の少女が三十冊のフェミニズム関係の本を読まされることになった。ところがどういうわけか、この少女を買ってセックスをしようとした三十五歳の男にはただ二年間の禁固刑が下っただけだった。

私はこの記事を読んで二つのことを考えた。

Librería de lance en México DF.jpg
By Eneas De Troya from Mexico City, México - Lectura para unas vidas, CC BY 2.0, Link


まず第一に読書を「刑」に含めることは非常によい。もっとこのような判決が増えることを期待する。強制的な読書というのは苦痛であり、受刑者に砂を噛むような思いを味わわせるだけになるのかもしれない。そしてその結果いっそう偏見に凝り固まることになるのかもしれない。けれどもその一方で何人かは砂のなかにキラリと光る金を見つけ、それが心になにかを植えつけ、彼らを変えていくかもしれない。どちらの目が出るかはわからないが、とにかく教育の機会を与えることはすばらしいことである。ただ罰するための刑は受刑者を変えることはないだろう。

読書「刑」が増えて、新聞にもその「強制的」読書リストが公表されるようになれば、一般人も興味を惹かれて本を読むようになるかもしれない。自分が知らない「名著」を囚人が読んでいる、となると、勉強熱心な人なら読書の意欲をかき立てられるはずである。また読書リストに対して議論が湧き起こるかもしれない。この本よりもあの本のほうが興味深いし、テーマを深く掘り下げている、などといった具合に。犯罪から文化が生まれるなら、こんなに喜ばしいことはない。

もう一つ考えたことがある。それはイタリアの売春婦には読書が課せられたが、客の大人のほうにはそれがなかったという点にかかわる。なぜ大人には読ませないのか。子供はまだ知識が足りないが、大人には充分な分別が備わっている、あるいは大人はもう教育の余地がないとでも考えているのだろうか。永山則夫の例もあるように、大人だって教育を受けることは大切である。かりに受刑者が大学教授であってもだ。

司法と教育がこのように合致することに不安がないわけではない。たとえば国家が極端に内向き・保守化して、司法が受刑者に差別的書籍を強制的に読ませるようになったらどうなるだろうか。あるいは政府のイデオロギーに合致した書籍ばかりを読ませるようになったとしたら。わたしはそれでもかまわないと思う。読書、書籍というものは不思議なもので、どんなものも思考を鍛錬する。イデオロギーの別を問わず、すぐれたものほど思考を多面化し、複雑化する。

さて今回ヴァージニアの裁判所が五人の少年に読むことを課した三十五冊の本は次の通りである。

1. The Color Purple by Alice Walker
2. Native Son by Richard Wright
3. Exodus by Leon Uris
4. Mitla 18 by Leon Uris
5. Trinity by Leon Uris
6. My Name Is Asher Lev by Chaim Potok
7. The Chosen by Chaim Potok
8. The Sun Also Rises by Ernest Hemingway
9. Night by Elie Wiesel
10. The Crucible by Arthur Miller
11. The Kite Runner by Khaled Hosseini
12. A Thousand Splendid Suns by Khaled Hosseini
13. Things Falls Apart by Chinua Achebe
14. The Handmaid’s Tale by Margaret Atwood
15. To Kill a Mockingbird by Harper Lee
16. I Know Why the Caged Bird Sings by Maya Angelou
17. The Immortal Life of Henrietta Lacks by Rebecca Skloot
18. Caleb’s Crossing by Geraldine Brooks
19. Tortilla Curtain by TC Boyle
20. The Bluest Eye by Toni Morrison
21. A Hope in the Unseen by Ron Suskind
22. Down These Mean Streets by Piri Thomas
23. Black Boy by Richard Wright
24. The Beautiful Struggle by Ta-Nehisi Coates
25. Eichmann in Jerusalem by Hannah Arendt
26. The Underground Railroad by Colson Whitehead
27. Reading Lolita in Tehran by Azar Nafisi
28. The Rape of Nanking by Iris Chang
29. Infidel by Ayaan Hirsi Ali
30. The Orphan Master’s Son by Adam Johnson
31. The Help by Kathryn Stockett
32. Cry the Beloved Country by Alan Paton
33. Too Late the Phalarope by Alan Paton
34. A Dry White Season by Andre Brink
35. Ghost Soldiers by Hampton Sides