Friday, June 9, 2017

近況報告(その四)

 「悪魔の悲しみ」についてもう一点、書いておこう。理論的なことである。

 私は前のブログ「本邦未訳ミステリ百冊を読む」で谷崎潤一郎の「途上」という短編小説をもとに「行為の外形性」について考えたことがある(http://untranslatedmysterybooks.blogspot.jp/2015/)。人間がなにをしようとしているのか、それをその人の意識に問うてはならない。その人の行為の外形に求めなければならないというのが論点である。「途上」について言えば、ここに出てくる会社員は、病弱な妻のためにいろいろと忠告を与えるが、なぜそうするのか、その理由を会社員の意識に尋ねると、「妻を愛しているから、妻の健康が気遣われるから」などという返事が返ってくるだろう。しかしそれは嘘なのだ。意識は嘘をつくのだ。「途上」に出てくる探偵は会社員の意識による説明には論理矛盾があることを暴露し、彼の行為を外形において捕らえようとする。すると彼が密かに妻の死を願っていることがわかってくるのである。ここにこそミステリと精神分析の接点があると私は考える。

 さらにここから私は「信」の問題にぶつかった。前のブログでは幽霊の例を出して説明した(http://untranslatedmysterybooks.blogspot.jp/2016/09/blog-post_15.html)。私は幽霊を信じていない。しかし寂しい夜道を歩くとき、私はあたかも幽霊を信じているかのように怖れを感じる。私の意識に問えば、私は幽霊を否定する。しかし夜道を歩く私の行為の外形を見れば、私は幽霊を信じている。

 じつは谷崎潤一郎もやはりこの「信」の問題を作品化している。「ある調書の一節」というのがそれだ。女遊びにふけり、悪いことばかりをしている土工の頭が警察で尋問を受ける。彼は悪事がやめられない。やめる気などさらさらない。しかし善女である女房が彼のことを思ってしくしく泣き出すと、なんだか自分の罪が滅ぼされるような気がする。でも彼は悔い改めることはしないのだ。とことん彼は悪人なのである。

 まったく妙な話ではあるけれど、この男は善を信じている。が、彼が信じているのではない。女房が信じているのである。彼の「信」は彼の外に存在している。でも外に存在しているからと言って、それが彼から切り離し可能かというとそうではない。彼が女房と別れることができないということは、彼が外的な「信」を失うことができないことを意味しているだろう。彼の「信」は外的だが、絶対必要という意味においてそれは彼にとって「内的」なものでもあるのだ。

 こういう「信」の不思議な構造についてはスラヴォイ・ジジェクも議論している。YouTube の Slavoy Zizek: Only An Atheist Can Believe を見ていただければ彼の最新の議論がだいたいわかるはずだ。

Slavoj Zizek Fot M Kubik May15 2009 02.jpg
By Mariusz Kubik, http://www.mariuszkubik.pl - Own workhttp://commons.wikimedia.org/wiki/User:KmariusCC BY 3.0Link
じつは私は「悪魔の悲しみ」はこの妙ちくりんな「信」の構造を主題化していると考えている。いや、まだ考えがまとまっていないので、ここでは示唆的なことしか言えないのだが、たとえば悪魔の力によってイギリス社交界でいちばんの美人と結婚するジェフリー・テンペストは、妻が無神論者であることを残念に思う。彼自身が無神論者であるにもかかわらず、だ。彼は金持ちになると同時に悪徳にふけるようになるのだが、妻には純潔でセンチメンタルな心情をもっていてほしいと願う。彼は「神」や「善」といったものへの「信」を自分の代わりに妻に持っていてほしい考えるのである。

 これはまことに身勝手な男の言い分のように聞こえるが、身勝手と非難してすむような問題ではない。「信」のあり方そのものにかかわってくる問題である。

 このことに気づけば、この作品のあちらこちらに同じような内容の言説が見つかるだろう。だいたい悪魔そのものがその「信」を外に置いているではないか。彼は悪へとまっしぐらに突き進もうとする。それが彼の自由意志だ。しかし彼は人間の「信」によって天へと一歩近づくのである。「ある調書の一節」に出てくる土工の頭のように、外的な「信」によってなんともいい気分になってしまう(=天国に近づく)のである。

 翻訳は今年中には出したいと思うけれど、それまでに「信」の問題について考えがまとまるかどうかはわからない。