Monday, June 12, 2017

近況報告(その五)

 ついでだからもっと書いておこう。前回紹介した、他者を通しての信仰、というのは哲学の世界ではインターパッシヴィティという名前で知られている。スラヴォイ・ジジェクやロベルト・プファーラーが盛んに議論している概念で、私は今、復習のためにいろいろな文献を読み返している。

Robert Pfaller, Philosoph, a photo taken by Suzie1212 from Wikimedia (https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Robert_Pfaller.jpg)
「悪魔の悲しみ」に即してもう一度この奇怪な信仰を説明すると、主人公で語り手のジェフリー・テンペストは神を信じていない。さらに彼は、当時の上流階級の男たちと同様に、悪徳にふける。彼は、男は好きなことを、好きなときに、好きなようにする権利があると考えている。しかし妻には、自分の悪徳に正比例した美徳を要求する権利もあると考えている。簡単に言えば、夫は好きなだけ悪徳にふけることが許されるが、妻には信心深くあってほしいと思っているのだ。ところがジェフリー・テンペストが結婚したシビルという女は、彼に負けないくらい無神論者で、悪徳にふける。彼女は外面的にはイギリスで一番をうたわれるほどの美人だが、その内面は腐りきっていて、そのためにジェフリーは絶望に陥る。

 ここで注意すべきは、ジェフリーは神を否定しているが、しかし神を信じている他者を必要としているという点だ。彼はみずからは祈ることはないが、他者を通して祈るのである。この他者は彼にとって自分とおなじくらい大切であって、だからこそ妻が無神論者で道徳のかけらも持たないことを知ると愕然として苦悩することになるのだ。

 ヴィクトリア朝時代には、妻は家庭の天使と呼ばれたものだが、「悪魔の悲しみ」には夫と家庭の天使のあいだの関係がいかなるものであるのか、それが見事に表現されていると思う。妻は夫の「代わりに」祈ることを期待されている。いったいこれはどういうことなのだろう。

 早急に結論を下したくはないのだけれど、今の段階で私はこんなことを考えている。無神論者になるためには神を信仰しなければならない。ただしその信仰はその人の内部にあるのではなく、他者に存する。だが他者であってもその人にとってかけがえのない他者である。悪徳にふけるには清浄な心が必要である。ただしその清浄な心はやはり他者に存する。かけがいのない他者のなかに。彼は信仰をもたず、悪徳にふけるが、他者のなかに信仰や清浄な心を見いだせないとき、絶望に陥るのだ。他者が祈り、清い心を持っている限りにおいて、彼は無神論者であり、放蕩者でありえる。

 この男と女の関係は「悪魔の悲しみ」においては悪魔と人間、創造者と被創造者の関係にも投影されている。悪魔は徹底的に人間を堕落させようとする。この当時、最大の社会悪は物質主義であると言われていたが、悪魔は人間を信仰心のない物質主義者に変えてしまおうとする。だが前段で述べたことは悪魔にも適用される。悪魔が徹底して悪を広めようとするには、善を信じなければならない。ただしその善は悪魔の内部にあるのではなく、彼が堕落させようとしている対象、他者に仮託されているのだ。

 人間が悪魔になれるとしたら、良心を自分の中から放逐しなければならない。しかしそれは良心などなくなってもいいというのではなく、他者のなかに保存しておかなければならないということらしい。他者の中に良心がみつからないと、彼は悪魔ではいられなくなる。悪を行う意欲もなくなるほど絶望してしまうのである。

 妻を家庭の天使などと呼んで持ち上げ、信仰心や無垢を強制することは、夫が悪徳にふけるための前提条件となっている。

 快楽を感じるためには罪の観念がなければならない、罪の観念がなければ快楽もない、というのは、精神分析では常識だが、この罪の観念は行為をする人の中になければならない、ということではないのだ。外にあってもよいのである。

 こんな冗談がある。カトリックもプロテスタントも好きなことをしていい。ただしカトリックは週の終わりに告解をし、プロテスタントは行為の最中に罪の意識を感じればいいのだ。ヴィクトリア朝時代の男についていえば、彼らはなにをしてもいいのだ。ただし妻が代わりに祈ってくれていさえすれば。

 さらにこんなことも私は考えている。今述べたことは実は英国と植民地の関係についてもいえることではないか。イギリスが植民地の文化を褒め称えるとき、それはイギリスが自らのなかから放逐した良心をそこに見出しているのではないのか。それを見出すことは他者の文化を称揚することではなく(一見してそう見えるが、本当はそうではなく)、他者を徹底的に踏みにじるための(帝国主義的に植民地を搾取するための)前提条件となっているのではないか。

 それを考えると十九世紀末に日本の文化がヨーロッパで関心を呼んだことも喜ばしい一方の現象とは言えない。ヨーロッパの日本に対する視線は帝国主義的な視線ではなかったか。それは相手を持ち上げれば持ち上げるほど凶悪な反面を持ち合わせる視線の筈である。フランスの核実験を批判した大江健三郎に対してクロード・シモンは、日本は芸術によってわれわれを驚かせてくれ、というようなことを言い、大江はシモンの日本認識が十九世紀のヤポニスムをいくらも出ないことを知って唖然としたらしいが、こういう言説と帝国主義との関係を私は非常に疑っている。