Tuesday, November 29, 2016

「ロープ」 パトリック・ハミルトン作

Rope (1929) by Patrick Hamilton (1904-1962)

 パトリック・ハミルトンはグレアム・グリーンとかJ.B.プリーストレーといった大御所に誉められたわりに、今では忘れられた作家になってしまった。これが不思議でならない。とてつもなく面白い作品をいくつも書いているじゃないか。ウィキペディアを見たらドリス・レッシングも「素晴らしい作家なのにはなはだしく無視されている」と言っているそうだ。私はイギリスのガーディアン紙を読むのが好きだが、その文芸欄にも一定期間をおいてハミルトンの復権を唱える記事が出る。なのにハミルトン研究はちっとも盛んにならない。どういうことだ?

「ロープ」はヒッチコックが映画化しているから筋を知っている人も多いだろう。オクスフォード大学に通う裕福な二人の学生が、友人を殺す。彼らはニーチェの超人思想にかぶれ、自分たちは優秀であり、劣った人間を殺す権利があると考えていた。そして面白半分に知り合いを殺してしまうのである。

 二人は死体を大型の収納箱に入れ、その直後にパーティーを開く。しかも収納箱が置かれている部屋で。そういう大胆不敵なことをやって殺人の興奮を高め、同時に優越感にひたろうとするのだ。

 彼らの悪趣味はそれだけにとどまらない。パーティーには殺された男の父親も呼ばれていたのである。

 この作品はミステリにちがいないが、アガサ・クリスチーの劇のような推理は含まれていない。登場人物の目の前、そして観客の目の前に死体が納められている収納箱があり、いつそれが開かれるのかというサスペンスで興味をひっぱっていく作品である。二人の殺人者の秘密に気がつくのは、パーティーに呼ばれた客の一人だ。彼が手掛かりを発見してから収納箱をあけるまで、殺人者たちと彼とのあいだで交わされるかけひきにみちた会話も含めてなかなか緊迫感があって面白い。

 この作品はネイサン・フロイデンソール・レオポルドとリチャード・アルバート・レーブという大学生二人が1924年に実際に犯した犯罪をもとに書かれている。彼らは「ロープ」の二人の殺人者とおなじようにニーチェの超人思想を信じ、自分たちが優秀な人間であること、そして完全犯罪を行うだけの高い知性を持っていることを示すために、とある実業家の息子を誘拐し殺害するのである。普通、殺人事件といえば、金のためとか、愛情のもつれなどから起きるものだが、この事件はまったく目新しい動機ゆえに世間の注目を浴びた。

 目新しい動機? いやいや、「罪と罰」のラスコリーニコフを忘れてはいけない。ラスコリーニコフも「優れた人間は劣った人間を殺す権利を有する」などと考えていたのだから明らかに「罪と罰」は「ロープ」の文学的先行作品である。ただし「罪と罰」はなにやら哲学めいた重い雰囲気を漂わせているが、レオポルドとレーブ、および「ロープ」の殺人者二人はもっと軽薄な感じがする。自分たちの優越性を示すと言いながらも、結局のところ彼らはスリルと快楽のために殺人を犯すのである。「ロープ」ではその点が現実の事件よりさらに強調される。なにしろ被害者の父親を呼んで死体を納めた収納箱の見えるところでパーティーを開くのだから。

 「ロープ」の殺人者たちたちが、はたしてどれだけニーチェを読み込んで、超人思想がどうのこうのと発言するのか、はなはだ疑問である。たまたま自分たちの行動に都合のいい思想を見つけてきて、つけたりで言っているだけではないだろうか。それくらい彼らは表面的な人間である。

 しかしにもかかわらず作者が超人思想を第一次大戦後のこの時期に取りあげたのは先見の明があるというべきだろう。なぜならこののちナチスも超人思想をもとに殺人を行うようになるからである。すなわち優生思想やユダヤ人の虐殺である。

 しかもナチスの登場によって超人思想にもとずく殺人は明らかに変質する。「罪と罰」もレオポルドとレーブも「ロープ」も(現実もフィクションもごっちゃにして論じていることはわかっている)個人レベルの殺人だが、ナチスにおいてはそれが国家レベルの殺人になるからだ。超人思想が国家と結びつくと言う点が大きく違う。最初は個人の享楽のために殺人をおこなっていたが、ナチス以後は国家、大文字の他者の享楽のために殺人がおこなわれるのだ。

 ついこのまえ、日本でも優生思想にもとづく大量殺人がおこなわれたが、あの犯人も自分の行為は国家のためであると考えている。彼の行為は国家のために、あるいは国家になりかわってしたものなのだから、自分が罰せられるはずがないと考えている。「ロープ」のいちばん最後では、二人の大学生の殺人に気づいた男は、「社会がお前たちを罰するのだ」と言って彼らを警察に突き出すが、この頃は規範的な社会の力が歴然と存在していたのだろう。個人は逸脱的であるかも知れない、しかし社会は総体としては規範として作用していたのである。しかしわれわれが現在目にしているのは、この大文字の他者の規範性がゆらいでいる姿である。

Thursday, November 24, 2016

「バッカスの宴」 アーネスト・ジョージ・ヘナム作

The Feast of Bacchus (1907) by Ernest George Henham (1870-1946?)

 少し以前に読んだ本だけれど、遅ればせながら書評しておこう。非常に面白い幻想小説、あるいは怪奇小説である。(作者の名前は上に記した通りだが、ジョン・トレヴェナというペンネームを使うこともある。)

イギリスのダートムアにあるソーランドという村にはストラースという幽霊屋敷があった。この屋敷の所有者はアメリカに住んでいて、建物は長らく無人のまま放置されていた。いや、無人ではあるが、奇怪な霊がこの屋敷には取り憑いていた。この屋敷のなかには喜劇を示す笑った顔の仮面と、悲劇を示す泣いた顔の仮面が飾られていたのだが、その仮面には霊が宿っていたのである。

 さて、アメリカに住んでいた所有者がソーランドに住居を移し、屋敷に住みはじめるようになってからこの村の人々に異変が生じはじめる。どういう異変か。屋敷に来る人々はみな霊の力によって性格が一変し、踊りはじめたり、昔の言葉で会話を交わしたり、暴力的になったり、異常な振る舞いをするようになるのだ。ところが屋敷を出ると、彼らは記憶を失い、自分が屋敷の中で何をしたのか、さっぱり覚えていない。

 そして決定的な事件が起きる。アメリカ人の所有者は、屋敷があまりに古ぼけているので取り壊そうと考えるのだが……なんと彼はある日絞殺死体となって発見されるのである。取り壊そうなどと考えたために、屋敷の霊の怒りを買ったのだ。その後、彼の跡継ぎがこの屋敷に住みはじめるのだが、彼もやはり屋敷に取り付く奇怪な霊の影響を受けて気が触れていく。

 この作品にはいろいろな特徴がある。そのいくつかをメモがわりに書きつけておく。

まず文体。非常に上質の文体で、作者が生前、当時を代表する作家の一人とみなされたのもうなずける。美文ともいえる優雅さがあって、こんな文章でいわゆる haunted house ものを書いた人はほかにいないだろう。読んでいて背筋がぞくぞくするということはない。しかし様式化された不気味さとでもいうべきもの、たとえばスタンリー・キューブリックが恐怖や暴力を映像美というか、ある種の様式をもって描いた作品に感じるような不気味さを、私はこの作品に感じた。

 しかし様式美に包まれてはいるものの、仮面の来歴が明らかにされ、人間の皮膚を使ってつくられたことが語られる部分は、その様式美をつきぬける怖ろしさを感じた。

 第二に、全体が古代ギリシア劇のように五幕構成になっている。こういう形式への関心・執着はヘナムがモダニストとしての資質を持っていたことの証しではないだろうか。文体の膜を通して出来事を見ているという印象もジョイスなどとよく似ている。

 第三に、この作品は社会批評的な要素を多分に含んでいる。株式仲買人と結婚して夫も子供も無視しながら享楽的な生活を送るモード、当時「新しい女」といわれた急進的な思想を持つフローラ、あるいは教区の人々にたいする自分の役割を放り投げ、趣味に没頭するベリー牧師などが登場し、これらの人々はみな相応の「処罰」を受けることになる。ストラース邸はただそこに入ってくる人々に異常な振る舞いをさせるだけではない。なにやら教育的なところもある。
 フローラは独創性を求めていた。彼女はドラマの法則からはずれた行為によって自分を目立たせようとしていた。ストラース邸の役割は、彼女の目を開かせ、自明の事実を彼女に教えることである。すなわち彼女はごくありきたりの女であるということを。独創性は普通でない行為をなすことではない。普通のことを普通ではないやり方でなすことなのである。
フローラだけではない。モードもその享楽的な態度を改め、子供にも夫にも誠実な女へと生まれ変わるのである。また教区の人々をほったらかしにして自分の趣味にふけるベリー牧師は……。いや、これはこれから読む人の楽しみのためにとっておこう。

 第四に、この小説には科学万能が唱えられた当時の社会風潮にたいする反発がある。もちろんこれはヘナムだけではなく、スピリチュアリズムにかぶれた人々はみんな科学主義に反発したのだけれど。ちなみにヘナムは心霊学調査協会なるものの設立にもたずさわっている。

 第五に、屋敷に入ると登場人物の性格が一変するという点。私は Valancourt 版でこの作品を読んだが、それにはジェラルド・モンスマンによる有益な序文がついていて、これを見ると作者はW.H.マイヤースの「第二の性格」という考え方に影響を受けているらしい。表面にあらわれている第一義的な性格が、それとはまったく異なる性格によって支配される、という考え方である。マイヤースなんて聞いたこともないが、とにかく人間の性格が単層的なものではないことを作者は認識していたという点が興味深い。

 私は以前、Spring Water というヘナムの作品を読んで、ひどく感心した。これもダートムアを舞台にした幻想小説である。「バッカスの宴」はそれを越えるかもしれないレベルの高い作品である。翻訳して紹介するだけの価値は充分にあるだろう。私はこの美文を写し取れるほど日本語ができないのでやらないけど。

Friday, November 18, 2016

「白髪鬼」 黒岩涙香作

「白髪鬼」(1894)  黒岩涙香(1862-1920)作

 涙香は好きで一時期ずいぶん読んだが、今はもうすっかり忘れてしまった。「白髪鬼」も読んだけれど、内容はこれっぽっちもおぼえていなかった。しかしこれが「ジスカ」の作者マリー・コレーリの作品の翻案であることを知り、読み返すことにしたのである。原作のほうはまだ読んでいない。

 これは男二人と女一人の愛憎関係のもつれから、男の一人が残りの二人に復讐するという話だ。もうちょっとくわしく言おう。主人公にして本編の語り手であるのはイタリアはネープルの伯爵波漂(はぴょ)。彼には同じ学校を卒業した魏堂(ぎどう)という親友がいた。波漂は女に興味を持たない朴念仁で、魏堂は女遊びが大好きという、性格の違いはあるが、ふたりはひどく仲がよかった。しかし朴念仁というのはいったん恋をすると一途になって、一気に結婚までしてしまうことがあるけれど、波漂もこの例にもれず、零落貴族の娘那稲(ないな)に恋をし、このイタリア一の美人をあっという間に妻にしてしまった。

 魏堂は波漂に「きみは幸運な男だ」などと言いながら、毎日のように彼の家を訪ねてくる。もうおわかりだろうけれど、彼は波漂の妻、那稲に会いに来ていたのである。那稲も魏堂を憎からず思い、二人は波漂に隠れていちゃいちゃしていた。

 ところが朴念仁の波漂はそんなこととは露知らず、自分は美しい妻を得、友情に厚い友も持っているとしごく満足していた。

 さてこの当時ネープルにはコレラが蔓延していた。そして波漂もこの死の病にかかって亡くなり、遺体を一族の納骨所に納められる。ところが……ところが、である。彼は納骨所のなかで生き返ったのだ。そしてこっそり自分の屋敷に帰ってみると、自分が死んだばかりだというのに、那稲は魏堂と逢い引きし、波漂がいなくなってよかったなどと言っているではないか。隠れて二人の会話を聞いた波漂はイタリア人らしく復讐を思い立つ。

原作を読まないとわからないが、マリー・コレーリらしさはこの翻案からも伝わってくる。彼女は物質主義、拝金主義、神を否定する科学主義、しなびて青ざめ、生気を失った貴族階級のアンニュイに嫌気がさしていて、強烈な情熱のほとばしりを求めている。そうした情熱の一端をラテン系の人々の心の中に見出したのだろう。原作の表題は「ヴェンデッタ」。「リベンジ」なんてしょぼくれた冷たい単語じゃない。血管の中で血がたぎるような「ヴェンデッタ」である。

 私はこれを読みながら二つのことを考えた。メロドラマのもっともすぐれた研究書といえばピーター・ブルックスの「メロドラマ的想像力」だが、その中にメロドラマというジャンルが大文字の「聖なるもの」が消えてしまったあとに出てきたジャンルであるという指摘がある。具体的な歴史的事件で言えばフランスの革命以後に出現したということになる。十九世紀の世紀末というのは「神は死んだ」という言説がファッションとしてはやり、精神的なものがいっさいおとしめられ、とりわけ上流階級にデカダンな雰囲気が漂っていたのだから「聖なるもの」の権威が地に落ち、地中にもぐってしまったような時期である。こういう時期に「聖なるもの」の代替物を、ちんけな現実のアンチテーゼとして提出したのがマリー・コレーリということになるのじゃないだろうか。こんなことを考え出すとアンソニー・トロロープの The Way We Live Now なんかもこれに関係してきそうだなあ、とか、オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」も読み返したほうがいいかな、とか、読書リストがどんどん増えていく。

 もう一つ考えたのは「白髪鬼」がシェイクスピアの「冬物語」と似たところがある、ということだ。「冬物語」には子供のときから仲よく育てられてきた二人の王様が出てくる。一方の王様は結婚しているのだが、彼はふと「妻と友人は不倫をしているのではないか」という疑惑にとらわれるのだ。嫉妬にかられたこの王様は友人を捕まえようとし(もっとも友人は事前に連絡を受け、命からがら自分の国に逃げ延びる)、妻を監禁する。しかし王様の疑いは病的な嫉妬にすぎず、妻は彼にたいして貞節をつくしていたのである。それなのに一時の怒りに身を委せ、友人も妻も否定した王様は、息子を亡くし、娘も失い、その王国は時間が流れなくなったかのように、永遠の冬に閉ざされてしまう。

 「冬物語」の妻は貞節であったことが証明されたから、国王はのちにくいあらためるのだが、もしも彼女が不貞をはたらいていたとしたら、「白髪鬼」の主人公とおなじように復讐の鬼と化していただろう。この二つの物語は雰囲気がまるで違うようだが、じつはよく似ている。

 もう一つ、メモがわりに書いておく。仲のいい二人の男と一方の妻という三者のあいだに三角関係が生じるとき、それはじつは父―母―子の三者のあいだに発生する、エディプス的な葛藤をあらわしている。これは非常に面白い問題なのだが、くわしい話は別の機会にしようと思う。

Friday, November 11, 2016

「黒い目のスーザン」 ダグラス・フェロルド作

Black-Eyed Susan (1829) by Douglas Ferrold (1803-1857)

 三幕もののドラマ。スーザンは黒い目をした美しい女性だが、彼女の夫ウィリアムはイギリス海軍の船乗りとして長い間、海に出ている。スーザンはドッググラスという伯父の貸家に住んでいるのだが、このドッググラスというのが人情のかけらもない男で、きびしくスーザンから家賃を取り立てようとする。そして払えないとなると家具を持っていってしまう。

 さらにこのドラマにはもう一人の悪党がいる。ハチェットという男だ。こいつはドッググラスに、きびしく家賃を取り立てろともちかける。そこでスーザンに金を渡せば、彼女は自分に感謝し、好意を抱くだろう。さらに彼女の夫ウィリアムは海に出ている間に死んだと嘘の話をして、彼女を自分のものにしてしまおうと考えているのだ。

 若い美しい娘がいじめられ、奸計のえじきになりそうになるというこの展開を読みながら、私は水戸黄門を描いた日本の長寿ドラマを思い出した。国も文化もまるで違うけれど、善悪のわかりやすい対立構図の上にのっかっていて、物語の雰囲気はそっくりなのだ。

 もちろんドッググラスとハチェットの悪巧みは失敗に終わるし、前者は海に落ちて死んでしまい、後者は密輸入の罪で官憲に逮捕される。そしてスーザンにとってうれしいことにウィリアムが航海から戻ってくる。

 しかしここで最後の悲劇が生じる。ウィリアムの上官にクロスツリーという男がいるのだが、この男が酔っ払って酒場でスーザンにからんだのである。そこにウィリアムがあらわれ、男が上司であることに気づかぬまま、棒でぶんなぐり、生死の境をさまようような大けがをさせてしまったのだ。ウィリアムは軍法会議にかけられる。そして上官を襲った場合は死刑という規則に従って彼は死ぬことになる。ここからウィリアムとスーザンの愁嘆場が繰り広げられることになるのだが、しかしもちろん最後には彼は死刑を免除されてハッピーエンドを迎える。


 死刑を免除される過程がいかにもメロドラマらしいご都合主義的な筋の展開を示しているので、ちょっとくわしく書いておこう。クロスツリーは意識を取り戻したとき「暴行が起きたとき、私はウィリアムの上官ではなかったし、ウィリアムは私の下士官ではなかった。それゆえ規則に従ってウィリアムを処罰することはできない」という内容のメモを書く。酔っ払ったときは助平になったり、羽目を外したりするが、本質的に彼は真面目なイギリス海軍士官なのである。ところが彼はドッグツリーをメッセンジャーに選び、彼にメモを託してしまったのである。ウィリアムが嫌いなドッグツリーがこのメモを渡すわけがない。箱に入れてポケットにしまい込んでしまった。ところがドッグツリーは海上で行われた軍法会議を市民たちと見物しているときに、ふと足を滑らせて海に落ち、そのまま行方不明になる。もちろんポケットに入れたメモも彼とともに消えてしまうのだ。

 それがどうだろう。死刑執行の直前になって彼の死体が浮かび上がり、ポケットから上官のメモが発見され、ウィリアムは一命を取り留めるという運びになるのだ。

 ドッグツリーとハチェットの悪巧みと、後半で展開するウィリアムの上官に対する暴行事件はいささかつながりにスムーズさを欠いているような気がするが、しかしそんなことはどうでもいいのだろう。美しい善良なスーザンと、男気のある彼女の夫が幸せになれるかどうか、その物語を、読者をはらはらどきどきさせながら展開してみせるのがこの劇の主眼なのである。

 登場人物は貴族でも王侯でもない、平民である。そして勧善懲悪の観念に支配された世界が繰り広げられる。

Sunday, November 6, 2016

「謎」 トマス・ホルクロフト作

A Tale of Mystery (1802) by Thomas Holcroft (1745-1809)

 A Tale of Mystery はフランスの劇作家のある作品を英語に直したものらしいが、面白く読めた。いろいろな謎が一気に解決する第二幕の中ほどを読みながら、ここにはミステリの謎解きの原型があると思った。もちろん前のブログの最後のほうで書いたように、近代的な本格ミステリは「事件=ドラマ」の外部に探偵が立つとき成立するのだけれど。

 話は結構入り組んでいる。まずボモナという貴族がいて、彼は弟が死んだために、その娘を引き取り、後見人になっている。この娘がセリナで、この劇の中心的人物である。

 彼女はロマルディー伯爵から息子の嫁になってほしいと申し込まれている。しかしセリナはロマルディー親子を嫌っている。なにしろ自分勝手で横暴な人々なのだ。彼女は伯父であるボモナの息子ステファノと相思相愛の仲だった。

 ここまでは本当に好きな人と添い遂げることができず、気に染まぬ結婚を強要される乙女の物語と云う、よくある話だ。

 しかしここで話を複雑にするもう一本の補助線が引かれる。

 ボモナの屋敷には一週間ほど前から不思議な男が泊まっていた。名前はフランシスコ。おしで、しゃべることはできないが、礼儀正しく、セリナにたいしてやけにやさしい老人である。じつはこの男、ずっと以前、ボモナの屋敷の下女に、山中で殺されかけているのを発見され、助けられたという人間なのだ。彼は一週間前にふと下女と出会い、それ以来屋敷に泊まっていたのである。

 ボモナが筆談で彼の素性をただすと、この謎の男は「自分はローマの貴族である。しかし一族の不名誉になるから正体を明かすことはできない」と、これまた謎のようなことを言う。

 しかもロマルディー伯爵が屋敷に来ると、フランシスコの正体の謎はいっそう深まる。ばったりとかち合った両者はお互いを無視し合うのだが、明らかに相手を知っていて、避けている様子なのだ。

 それだけではない。セリナはロマルディー伯爵と彼の付き添いが、フランシスコを殺そうと相談するのを密かに立ち聞きした。

 いったいロマルディーとフランシスコのあいだにはどういう関係があるのか。

 第二幕に入ると一気にこの謎が解明される。ロマルディーとフランシスコは兄弟で、フランシスコはロマルディーの妻と駆け落ちし、妊娠した妻をボモナの弟のもとに預ける。そこで生まれたのがセリナなのだが、弟が急死して事情をいっさい聞かされていなかったボモナは彼女を弟の娘と勘違いしたのだ。また数年前、フランシスコを山中で殺そうとしていたのは、妻を奪われて怒りに燃えているロマルディー伯爵とその息子だった……。(謎が氷解し、物語のさまざまな糸が一本にまとめられる第二幕の中ほどの部分は、推理小説において真相が明かされる最後の部分とよく似た感興を与えてくれる。)

 これぞメロドラマというべき話である。そんなことがあり得るのだろうかと、疑問を感じつつも、しかしこのけばけばしい彩りの物語を私は楽しんだ。

 しかし私はテキストとしてこれを読んだからよかったものの、実際に舞台で上演されたものを見ただけなら、この短い劇に詰め込まれた情報を充分に咀嚼できたか、ちょっと疑問である。それくらいこの劇は複雑な物語を圧縮して内蔵している。ただし人物の性格が最初から最後まで一定しているというわかりやすさはある。セリナは終始一貫して純情な乙女であり、ポモナは早とちりの癖がある父親であり、女中はその早とちりをいつもたしなめる役割をになっている。ロマルディー伯爵はシャイロック並の嫌われ役で、いつ登場してもずるがしこい、いやらしい雰囲気を発散させている。

 ついでに言っておくと、登場人物が型にはまった描かれ方をされるというのは、メロドラマの特徴のひとつだ。二十世紀に入ると、こういう人物描写は「古くさく」感じられるようになる。人間の性格には裏面があり、また多面的なものであるという認識が広がるからである。それゆえディケンズ的な人間の描き方をする作家、たとえばJ.B.プリーストレーなどは、すばらしく面白い作品を残しているけれど、評価されないのである。

Thursday, November 3, 2016

「ジスカ」 マリー・コレーリ作

Ziska: The Problem of a Wicked Soul (1897) by Marie Corelli (1855-1924)

 マリー・コレーリは生前、批評家からこっぴどく酷評されていた。彼女の代表作 The Sorrows of Satan には彼女とおなじように大衆には人気があるが、批評家からは嫌われている女性作家が登場する。彼女は「サタデー・レビュー紙によると、私の作品を読むのはお店の売り子くらいなものだそうですわ」と言っている。彼女の作品は教養ある人間が読むようなものではないと批評家は言いたいのだろう。私もマリー・コレーリをそんなに高く評価しているわけではない。突き刺さるような知的な刺激を受けない、というのがその理由である。しかし彼女の文才、筆力は認める。怒濤のようなスペクタクル・シーンを描かせれば彼女の右に出るものは……まあ、いるかもしれないが、そう多くはないだろう。The Sorrows of Satan には物語の中間部分と最後のところですさまじいスペクタクルが展開する。それはまさに「圧巻」という表現がふさわしいもので、あんなものを読まされたら二十年くらいは記憶から消えてなくならない。Ziska は The Sorrows of Satan よりはずっと短い作品なので、それほどのスペクタクル・シーンがあるわけではないが、しかしど迫力のある、すさまじい情念の物語になっている。

 物語の核心をあっさり割ってしまおう。これはプリンセス・ジスカとフランス人の画家アーマンド・ジャーヴェスの時空を越えた愛の物語である。時空を越えた、というのは、じつはこの二人、古代エジプトの絶世の美女ジスカ・チャーマゼルと屈強の戦士アラクセスの生まれ変わりなのである。彼らは愛し合っていたのだが、アラクセスが浮気をし、ジスカ・チャーマゼルを殺してしまったのだ。ジスカ・チャーマゼルの魂は憎しみのあまり現代に転生してジスカとなり、アラクセスの現身である画家のアーマンド・ジャーヴェスを誘惑する。前者は前世のことをもちろんおぼえているが、後者は漠然とジスカのことをどこかで見たような女だと感じるだけだ。物語の最後でジスカはアーマンド・ジャーヴェスをピラミッドの中に誘いこみ(ピラミッドの中には戦死アラクセスの遺体が収められているのだ)、二人の過去をあかし、純粋な愛を裏切ったアラクセスにむかって憎悪のかぎりをぶつける。何千年経っても消えることのない女の情念を、マリー・コレーリが圧倒的な筆の力で描ききっている。この部分はページの上を暴風雨が吹き荒れている感じだ。

 もちろん登場人物はこの二人だけではない。物語の舞台はカイロ。そこには怠惰で上品ぶっただけのイギリス上流階級の人々がいる。彼らはじつにけちくさい俗物である。異文化に対する理解はなく、金に飽かして贅沢な暮らしをおくり、物質主義的で、体面ばかりを気にしている、顔色の青白い連中だ。中には真面目な人もいるのだけれど(ヘレン・マレーとか)、ちょっとした失恋でくよくよする弱い存在である。そういう小さな存在が描かれているからこそ、時空を越えた情念の物語の壮大さが引き立つのだ。

 マリー・コレーリの迫力は本書の出だしにもよくあらわれている。
 夜空を背景に大ピラミッドは黒くそびえ、その頂点には月がかかっていた。とてつもない嵐によって浜辺に打ち上げられた難破船のように、スフィンクスは波打つ灰色の砂に取り囲まれて、この晩ばかりはうとうととまどろんでいるようだった。そのおごそかな顔はいくつもの時代の経過をながめ、帝国の興廃、何世代にもわたる人間の生きざまを無表情に見てきたのだが、そのときはいつもの深い知性と強い軽蔑の表情を失ったように見えた。冷たい目は下に向けられ、きびしい口もとはほとんど微笑みを浮かべているようであった。
比喩表現にも注意してほしい。ここに描かれているのは単に大ピラミッドとスフィンクスと月である。しかしスフィンクスは「嵐―難破」という比喩によって飾られ、さらに歴史の経過をずっと見つめてきたものとして描かれる。語り手は単純に事実をそれだけ伝えるのではなく、夜の砂漠の景観の中にドラマチックな物語を読み込もうとしている。ピーター・ブルックスが The Melodramatic Imagination で指摘しているが、こういう視線はメロドラマに特有のものだ。

 さらに「嵐―難破」という烈しい動きをあらわす比喩表現のあとに、スフィンクスが「まどろむ」様子が描かれているが、こういうように対立するものを組み合わせることで、大きな振幅を表現するのもメロドラマのテクニックの一つである。本書では魂と肉体、光と闇、善と悪、科学と神秘、この世とあの世、あるいはイギリス上流階級の現世的な卑小と時空を越えた情念の崇高といった対立物が組み合わされ、(すくなくとも俗耳には)スケールが大きいと思われる物語が展開されていく。