Sunday, November 6, 2016

「謎」 トマス・ホルクロフト作

A Tale of Mystery (1802) by Thomas Holcroft (1745-1809)

 A Tale of Mystery はフランスの劇作家のある作品を英語に直したものらしいが、面白く読めた。いろいろな謎が一気に解決する第二幕の中ほどを読みながら、ここにはミステリの謎解きの原型があると思った。もちろん前のブログの最後のほうで書いたように、近代的な本格ミステリは「事件=ドラマ」の外部に探偵が立つとき成立するのだけれど。

 話は結構入り組んでいる。まずボモナという貴族がいて、彼は弟が死んだために、その娘を引き取り、後見人になっている。この娘がセリナで、この劇の中心的人物である。

 彼女はロマルディー伯爵から息子の嫁になってほしいと申し込まれている。しかしセリナはロマルディー親子を嫌っている。なにしろ自分勝手で横暴な人々なのだ。彼女は伯父であるボモナの息子ステファノと相思相愛の仲だった。

 ここまでは本当に好きな人と添い遂げることができず、気に染まぬ結婚を強要される乙女の物語と云う、よくある話だ。

 しかしここで話を複雑にするもう一本の補助線が引かれる。

 ボモナの屋敷には一週間ほど前から不思議な男が泊まっていた。名前はフランシスコ。おしで、しゃべることはできないが、礼儀正しく、セリナにたいしてやけにやさしい老人である。じつはこの男、ずっと以前、ボモナの屋敷の下女に、山中で殺されかけているのを発見され、助けられたという人間なのだ。彼は一週間前にふと下女と出会い、それ以来屋敷に泊まっていたのである。

 ボモナが筆談で彼の素性をただすと、この謎の男は「自分はローマの貴族である。しかし一族の不名誉になるから正体を明かすことはできない」と、これまた謎のようなことを言う。

 しかもロマルディー伯爵が屋敷に来ると、フランシスコの正体の謎はいっそう深まる。ばったりとかち合った両者はお互いを無視し合うのだが、明らかに相手を知っていて、避けている様子なのだ。

 それだけではない。セリナはロマルディー伯爵と彼の付き添いが、フランシスコを殺そうと相談するのを密かに立ち聞きした。

 いったいロマルディーとフランシスコのあいだにはどういう関係があるのか。

 第二幕に入ると一気にこの謎が解明される。ロマルディーとフランシスコは兄弟で、フランシスコはロマルディーの妻と駆け落ちし、妊娠した妻をボモナの弟のもとに預ける。そこで生まれたのがセリナなのだが、弟が急死して事情をいっさい聞かされていなかったボモナは彼女を弟の娘と勘違いしたのだ。また数年前、フランシスコを山中で殺そうとしていたのは、妻を奪われて怒りに燃えているロマルディー伯爵とその息子だった……。(謎が氷解し、物語のさまざまな糸が一本にまとめられる第二幕の中ほどの部分は、推理小説において真相が明かされる最後の部分とよく似た感興を与えてくれる。)

 これぞメロドラマというべき話である。そんなことがあり得るのだろうかと、疑問を感じつつも、しかしこのけばけばしい彩りの物語を私は楽しんだ。

 しかし私はテキストとしてこれを読んだからよかったものの、実際に舞台で上演されたものを見ただけなら、この短い劇に詰め込まれた情報を充分に咀嚼できたか、ちょっと疑問である。それくらいこの劇は複雑な物語を圧縮して内蔵している。ただし人物の性格が最初から最後まで一定しているというわかりやすさはある。セリナは終始一貫して純情な乙女であり、ポモナは早とちりの癖がある父親であり、女中はその早とちりをいつもたしなめる役割をになっている。ロマルディー伯爵はシャイロック並の嫌われ役で、いつ登場してもずるがしこい、いやらしい雰囲気を発散させている。

 ついでに言っておくと、登場人物が型にはまった描かれ方をされるというのは、メロドラマの特徴のひとつだ。二十世紀に入ると、こういう人物描写は「古くさく」感じられるようになる。人間の性格には裏面があり、また多面的なものであるという認識が広がるからである。それゆえディケンズ的な人間の描き方をする作家、たとえばJ.B.プリーストレーなどは、すばらしく面白い作品を残しているけれど、評価されないのである。