Tuesday, November 29, 2016

「ロープ」 パトリック・ハミルトン作

Rope (1929) by Patrick Hamilton (1904-1962)

 パトリック・ハミルトンはグレアム・グリーンとかJ.B.プリーストレーといった大御所に誉められたわりに、今では忘れられた作家になってしまった。これが不思議でならない。とてつもなく面白い作品をいくつも書いているじゃないか。ウィキペディアを見たらドリス・レッシングも「素晴らしい作家なのにはなはだしく無視されている」と言っているそうだ。私はイギリスのガーディアン紙を読むのが好きだが、その文芸欄にも一定期間をおいてハミルトンの復権を唱える記事が出る。なのにハミルトン研究はちっとも盛んにならない。どういうことだ?

「ロープ」はヒッチコックが映画化しているから筋を知っている人も多いだろう。オクスフォード大学に通う裕福な二人の学生が、友人を殺す。彼らはニーチェの超人思想にかぶれ、自分たちは優秀であり、劣った人間を殺す権利があると考えていた。そして面白半分に知り合いを殺してしまうのである。

 二人は死体を大型の収納箱に入れ、その直後にパーティーを開く。しかも収納箱が置かれている部屋で。そういう大胆不敵なことをやって殺人の興奮を高め、同時に優越感にひたろうとするのだ。

 彼らの悪趣味はそれだけにとどまらない。パーティーには殺された男の父親も呼ばれていたのである。

 この作品はミステリにちがいないが、アガサ・クリスチーの劇のような推理は含まれていない。登場人物の目の前、そして観客の目の前に死体が納められている収納箱があり、いつそれが開かれるのかというサスペンスで興味をひっぱっていく作品である。二人の殺人者の秘密に気がつくのは、パーティーに呼ばれた客の一人だ。彼が手掛かりを発見してから収納箱をあけるまで、殺人者たちと彼とのあいだで交わされるかけひきにみちた会話も含めてなかなか緊迫感があって面白い。

 この作品はネイサン・フロイデンソール・レオポルドとリチャード・アルバート・レーブという大学生二人が1924年に実際に犯した犯罪をもとに書かれている。彼らは「ロープ」の二人の殺人者とおなじようにニーチェの超人思想を信じ、自分たちが優秀な人間であること、そして完全犯罪を行うだけの高い知性を持っていることを示すために、とある実業家の息子を誘拐し殺害するのである。普通、殺人事件といえば、金のためとか、愛情のもつれなどから起きるものだが、この事件はまったく目新しい動機ゆえに世間の注目を浴びた。

 目新しい動機? いやいや、「罪と罰」のラスコリーニコフを忘れてはいけない。ラスコリーニコフも「優れた人間は劣った人間を殺す権利を有する」などと考えていたのだから明らかに「罪と罰」は「ロープ」の文学的先行作品である。ただし「罪と罰」はなにやら哲学めいた重い雰囲気を漂わせているが、レオポルドとレーブ、および「ロープ」の殺人者二人はもっと軽薄な感じがする。自分たちの優越性を示すと言いながらも、結局のところ彼らはスリルと快楽のために殺人を犯すのである。「ロープ」ではその点が現実の事件よりさらに強調される。なにしろ被害者の父親を呼んで死体を納めた収納箱の見えるところでパーティーを開くのだから。

 「ロープ」の殺人者たちたちが、はたしてどれだけニーチェを読み込んで、超人思想がどうのこうのと発言するのか、はなはだ疑問である。たまたま自分たちの行動に都合のいい思想を見つけてきて、つけたりで言っているだけではないだろうか。それくらい彼らは表面的な人間である。

 しかしにもかかわらず作者が超人思想を第一次大戦後のこの時期に取りあげたのは先見の明があるというべきだろう。なぜならこののちナチスも超人思想をもとに殺人を行うようになるからである。すなわち優生思想やユダヤ人の虐殺である。

 しかもナチスの登場によって超人思想にもとずく殺人は明らかに変質する。「罪と罰」もレオポルドとレーブも「ロープ」も(現実もフィクションもごっちゃにして論じていることはわかっている)個人レベルの殺人だが、ナチスにおいてはそれが国家レベルの殺人になるからだ。超人思想が国家と結びつくと言う点が大きく違う。最初は個人の享楽のために殺人をおこなっていたが、ナチス以後は国家、大文字の他者の享楽のために殺人がおこなわれるのだ。

 ついこのまえ、日本でも優生思想にもとづく大量殺人がおこなわれたが、あの犯人も自分の行為は国家のためであると考えている。彼の行為は国家のために、あるいは国家になりかわってしたものなのだから、自分が罰せられるはずがないと考えている。「ロープ」のいちばん最後では、二人の大学生の殺人に気づいた男は、「社会がお前たちを罰するのだ」と言って彼らを警察に突き出すが、この頃は規範的な社会の力が歴然と存在していたのだろう。個人は逸脱的であるかも知れない、しかし社会は総体としては規範として作用していたのである。しかしわれわれが現在目にしているのは、この大文字の他者の規範性がゆらいでいる姿である。