Thursday, November 3, 2016

「ジスカ」 マリー・コレーリ作

Ziska: The Problem of a Wicked Soul (1897) by Marie Corelli (1855-1924)

 マリー・コレーリは生前、批評家からこっぴどく酷評されていた。彼女の代表作 The Sorrows of Satan には彼女とおなじように大衆には人気があるが、批評家からは嫌われている女性作家が登場する。彼女は「サタデー・レビュー紙によると、私の作品を読むのはお店の売り子くらいなものだそうですわ」と言っている。彼女の作品は教養ある人間が読むようなものではないと批評家は言いたいのだろう。私もマリー・コレーリをそんなに高く評価しているわけではない。突き刺さるような知的な刺激を受けない、というのがその理由である。しかし彼女の文才、筆力は認める。怒濤のようなスペクタクル・シーンを描かせれば彼女の右に出るものは……まあ、いるかもしれないが、そう多くはないだろう。The Sorrows of Satan には物語の中間部分と最後のところですさまじいスペクタクルが展開する。それはまさに「圧巻」という表現がふさわしいもので、あんなものを読まされたら二十年くらいは記憶から消えてなくならない。Ziska は The Sorrows of Satan よりはずっと短い作品なので、それほどのスペクタクル・シーンがあるわけではないが、しかしど迫力のある、すさまじい情念の物語になっている。

 物語の核心をあっさり割ってしまおう。これはプリンセス・ジスカとフランス人の画家アーマンド・ジャーヴェスの時空を越えた愛の物語である。時空を越えた、というのは、じつはこの二人、古代エジプトの絶世の美女ジスカ・チャーマゼルと屈強の戦士アラクセスの生まれ変わりなのである。彼らは愛し合っていたのだが、アラクセスが浮気をし、ジスカ・チャーマゼルを殺してしまったのだ。ジスカ・チャーマゼルの魂は憎しみのあまり現代に転生してジスカとなり、アラクセスの現身である画家のアーマンド・ジャーヴェスを誘惑する。前者は前世のことをもちろんおぼえているが、後者は漠然とジスカのことをどこかで見たような女だと感じるだけだ。物語の最後でジスカはアーマンド・ジャーヴェスをピラミッドの中に誘いこみ(ピラミッドの中には戦死アラクセスの遺体が収められているのだ)、二人の過去をあかし、純粋な愛を裏切ったアラクセスにむかって憎悪のかぎりをぶつける。何千年経っても消えることのない女の情念を、マリー・コレーリが圧倒的な筆の力で描ききっている。この部分はページの上を暴風雨が吹き荒れている感じだ。

 もちろん登場人物はこの二人だけではない。物語の舞台はカイロ。そこには怠惰で上品ぶっただけのイギリス上流階級の人々がいる。彼らはじつにけちくさい俗物である。異文化に対する理解はなく、金に飽かして贅沢な暮らしをおくり、物質主義的で、体面ばかりを気にしている、顔色の青白い連中だ。中には真面目な人もいるのだけれど(ヘレン・マレーとか)、ちょっとした失恋でくよくよする弱い存在である。そういう小さな存在が描かれているからこそ、時空を越えた情念の物語の壮大さが引き立つのだ。

 マリー・コレーリの迫力は本書の出だしにもよくあらわれている。
 夜空を背景に大ピラミッドは黒くそびえ、その頂点には月がかかっていた。とてつもない嵐によって浜辺に打ち上げられた難破船のように、スフィンクスは波打つ灰色の砂に取り囲まれて、この晩ばかりはうとうととまどろんでいるようだった。そのおごそかな顔はいくつもの時代の経過をながめ、帝国の興廃、何世代にもわたる人間の生きざまを無表情に見てきたのだが、そのときはいつもの深い知性と強い軽蔑の表情を失ったように見えた。冷たい目は下に向けられ、きびしい口もとはほとんど微笑みを浮かべているようであった。
比喩表現にも注意してほしい。ここに描かれているのは単に大ピラミッドとスフィンクスと月である。しかしスフィンクスは「嵐―難破」という比喩によって飾られ、さらに歴史の経過をずっと見つめてきたものとして描かれる。語り手は単純に事実をそれだけ伝えるのではなく、夜の砂漠の景観の中にドラマチックな物語を読み込もうとしている。ピーター・ブルックスが The Melodramatic Imagination で指摘しているが、こういう視線はメロドラマに特有のものだ。

 さらに「嵐―難破」という烈しい動きをあらわす比喩表現のあとに、スフィンクスが「まどろむ」様子が描かれているが、こういうように対立するものを組み合わせることで、大きな振幅を表現するのもメロドラマのテクニックの一つである。本書では魂と肉体、光と闇、善と悪、科学と神秘、この世とあの世、あるいはイギリス上流階級の現世的な卑小と時空を越えた情念の崇高といった対立物が組み合わされ、(すくなくとも俗耳には)スケールが大きいと思われる物語が展開されていく。