Wednesday, March 29, 2017

「ステラ・マーベリーの証言」 トマス・アンスティ・ガスリー(その一)

The Statement of Stella Marbelly, Written by Herself (1896) by Thomas Anstey Guthrie

The-Turn-of-the-Screw-Collier's-5.jpg ヘンリー・ジェイムズの「ねじの回転」(1898)は unreliable narrator の作品として有名である。実を言うと、この unreliable narrator という言葉には、わたしはちょっと違和感がある。なぜかというと語り手というのはもともと unreliable なものだからである。たとえば紫式部なんかは、「源氏物語」を書いて地獄に落ちると思われていた。「源氏物語」を読んでる人間だって地獄に落ちると思われたのである。フィクションというのは嘘のかたまりであって、そんなものを書いたり読んだりする人間はろくでもないということである。フィクションの語り手は嘘つきにほかならない。

By Collier's Weekly, illustration by John La Farge - Beinecke Rare Book & Manuscript Library, Yale University, パブリック・ドメイン, Link

 そこで初期の作家たちはいろいろと工夫を凝らし、自分たちの作品がでたらめや嘘ではないような見かけをほどこした。それが書簡体小説といわれるものだ。つまり作者は道を歩いているときに手紙の束を拾った。非常に面白い内容なのでここに発表しようと思う。ただし手紙の書き手は教養がなく綴りや文法の間違いがあるので、それは訂正しておく、云々、といったような前書きをつけたのである。自分が書いたものではない、他人が書いたものなのだ、そう主張することで物語の客観性を保証しようというのである。物語を作者自身から遠ざけるようなこの所作をディスタンスの技法などといったりする。

 「ねじの回転」にはプロローグがついていて、これがやはりディスタンスの技法を使っている。「わたし」はあるとき知り合いたちと幽霊話をしあって楽しんだ。その知り合いの一人が、自分はとびきり怖い幽霊譚を知っている、という。その体験をした女性が書いた手記が彼の自宅の鍵の掛かった机の引き出しの中にある。それを彼は送らせて、知人たちに読み上げるという話である。つまり「ねじの回転」の本文は「わたし」が書いたものではないというわけだ。しかも手記はある男の家の「鍵の掛かった」机の引き出しの中にあった、という具合に、「わたし」と「手記」との距離を非常に強調している。

 この距離はさっきも言ったように物語の客観性を保証するためのものであるはずなのだが……誰もが知っているように「ねじの回転」の本文、家庭教師の手記は、読めば読むほど、その記述の客観性が疑われるようなものなのである。小説の歴史を理論的に考える上で、「ねじの回転」が非常に重要なわけがここにある。

published by Valancourt Books
トマス・アンスティ・ガスリーの「ステラ・マーベリーの証言」を読んでびっくりしたのは、「ねじの回転」よりも二年も前にこれとよく似た作品が存在していたということを知ったからである。わたしにとっては大発見である。もっとも研究者はとっくにこのことを知っていたのかもしれないけど。

 タイトルを見るとわかるが、この本はステラ・マーベリー本人が書いたことになっている。ただし本文の前にはT・フィッシャー・アンウィンなる人物の序文(Preliminary Note)がついていて、「自分は以下の手記を手に入れた。奇怪で興味深い内容なので出版することにした」ということが書かれている。ディスタンスの技法を使っているのだ。もちろんこのアンウィンという人物は作者トマス・アンスティ・ガスリーのペルソナである。ガスリーは最初、自分の名を伏せて本を出版したのだが、すぐに彼が作者であることがばれてしまったらしい。

 さて、この Preliminary Note のあとには手記の著者ステラ自身の序文(Introduction)がついているのだが、ここからもう手記の真実性が問題となってくるのだ。ステラは記憶が曖昧にならないうちに、自分がやらかした犯罪とも見える行為を、正確に、公平に書きつけようと思う、と言っている。なるほど確かに記憶が鮮明なうちに事実関係を書きつけておこうとすることはよくある。しかし続けて彼女は「たぶんわたしが真実を書いていると思う人はあまりないだろう。しかしそうであってもかまいはしない。もうすでにわたしは、外の世界の人がどう考えようと気にしなくなっているのだから」とも言っている。ここまで来ると読者はこの手記を素直に読むことはできないことをぼんやりと悟るだろう。彼女自身が「真実を書いていると思う人はあまりない」と言っているだけではない。「外の人」というところを読んで、この人は牢獄か精神病院(asylum)に入っているのだなと勘づくからである。犯罪人、あるいは精神異常が書いた手記となれば、誰もが眉に唾して読むことになる。しかもその犯罪人、あるいは精神異常すら「真実を書いているとは思う人はあまりないだろう」というくらいの内容ともなれば、なおさら身がまえて読むことになる。

Saturday, March 25, 2017

「神聖家族」 マルクス・エンゲルス (その四)

 マルクスの議論は多岐にわたり、彼が溜め込んでいる知識の膨大さがよくわかった。とてもそのすべては私にはわからないし、それ故紹介もできない。ここに書いたのは彼の議論の急所と私が考える部分だけである。そこをもう一度整理しておきたい。

 「パリの秘密」というメロドラマはイデオロギー装置である。それは人々にブルジョア的な観念を植えつけようとするものだ。ブルジョア的な観念とはとりわけ道徳とか信仰のことである。これをブルジョア以外の、その支配下にある人々に教えこむこと。下層階級からしてみれば、「外部の意識」を与えられることである。この「外部の意識」が当然であり、「自然」なのだということを下層階級に納得させるために、ブルジョアはさまざまな脅し(牧師の説教とか)や社会機構(警察とか牢獄とか)を使う。

 ところで一方で、ブルジョアたちはブルジョア的な観念を信じているのかというと、それはとんでもない間違いである。ルドルフは自分ではブルジョア的な観念を信じていると思っている。もしかしたら本気で自分は信仰と道徳のかたまりだと思っているのかもしれない。しかし彼はあきらかに私的な利害関係で動いている。どうやら自分が私的な利害で動いていることに気がつかず、ブルジョア的価値観を世界に広げるために自分は働いていると考えているらしい。マルクスの「パリの秘密」論でもっとも肝腎な論点はここだ。マルクスは意識と、行為の外形とのあいだにあるギャップを知っていたのだと思う。

 「神聖家族」のなかで語られているわけではないが、読んでいて私が考えたことについても書いておこう。「パリの秘密」はルドルフを善であり英雄であるとしている。彼はブルジョア的な観念を世界に広めるために努力している。しかし同時にこの作品は、「じつはそうでない」という秘密ももらしてしまっている。マルクスのように細かく読めば、ルドルフがまったく善ではなく、英雄でもないことがわかるように書かれている。いったいこれはどういうことなのか。なぜ作者はブルジョア的観念を世界に広める善人、かつ英雄として描かなかったのか。彼のうっかりなのか、それともイデオロギーはおのずとその限界をあらわしてしまうものなのか。

 私は後者なのだと考える。つまりイデオロギーは自分を規定し、規定しながらその限界を提示してしまうのである。その限界の読み取りは必ずしも容易ではないけれど、しかし可能である。たとえば時代の変遷がそれを可能にすることもあるだろう。実際、十九世紀末においては、ルドルフを善人・英雄と読み取る輩がいて、マルクスはそれを痛烈に批判するためにこの論文を書いたのである。しかし今、「パリの秘密」を読むとどうだろう。すくなくとも私はルドルフを嫌悪した。ルドルフが怪力のやくざ者を捕らえ、目をつぶしてしまう場面など、反吐がでるくらいだ。こんなふうに時代が変われば感性が変わり、その作品の限界が見えてくることがある。

 もう一つ考えたことがある。メロドラマをいろいろ読み返しているうちに、どうもブルジョア的な価値観を俗っぽい形で提示したものと、特徴付けることができそうな気がしてきた。しかしメロドラマというのは、批評家によってもっとも批判・非難されるものである。「あれはメロドラマだ」といえば、あの作品はくだらないと言うに等しい。では批評家はブルジョア的な価値を否定しているのかというと、そうでもない。だいたい彼らはブルジョアに属する人々である。ブルジョアがブルジョアの価値観を貶める? これはどういうことなのか。

 私の疑問が筋違いなものではないと仮定して考えるなら、二つの理由がすぐに思いつく。一つはマルクスが活躍した頃にはもうメロドラマがステレオタイプ化していたということ。なにしろフランス革命のあとに出てきた形式だから、生まれてもう百年が経つわけだ。いやになるのも当然である。

 もう一つの理由は、ブルジョアがブルジョアの価値観を称賛するなど、いかにも恥ずかしい行為である。最近はそうでもないようだが、この頃はまだ知的な慎みというものがあったのだろう。(日本文化はクールだ、などと、日本政府が言うのは恥ずかしいことである)

Monday, March 20, 2017

「神聖家族」 マルクス・エンゲルス (その三)

 ルドルフの慈善は利己的な理由からなされている。彼が悪人を裁くときも、一見するとそれは正義のためのようだが、本当は個人的な理由から行われている。つまり正義とか道徳というのは建前・カモフラージュにすぎない。聖書には「御使等いでて、義人の中より、悪人を分かつ」とか「すべて悪をおこなう人には患難と苦難とあり、凡て善をおこなう人には、光栄と尊貴と平安あらん」という言葉があるが、
ルドルフは自分でこのような御使のつもりでいる。彼は義人のなかより悪人をわかち、悪人を罰し、善人にむくいるために、世のなかへでかける。善悪の観念は彼の弱い頭脳に非常な感銘をあたえたので、彼は生身のサタンがいるものと信じ、ボン大学の故ザック教授のように、悪魔を生けどりにしたいとおもう。他方ではこれと反対に、悪魔の対立者である神を小規模に摸倣しようとつとめる。彼は「摂理の役割をいささか演じること」がすきだ。現実のうちでは、すべての区別が、ますます貧富の区別に融合するように、理念のうちではすべての貴族主義的な区別が、善と悪の対立に解消する。この区別は、この貴族主義者が自分の偏見にあたえる最後の形態である。ルドルフは自分は善人のつもりでいる。悪人が存するのは、自分が卓越しているという自己満足を彼ルドルフにあたえんがためである。
マルクスは痛烈な言葉でルドルフを批判している。まずルドルフの正義が本質的に利己的なものであることを示唆する例をひとつ引こう。彼は物語の冒頭で雛菊に出会い、彼女の不幸な生い立ちを聞いて涙がこぼれるくらい感動する。そして雛菊を虐待した育ての親の邪悪さに興奮し、おごそかに従者にむかって言う。「おまえも知っているように、ある復讐は、わたしにはたいへん貴重なのだ。ある苦痛はたいへん大切なのだ」そう言いながら、悪魔的に顔をしかめて見せたので、従者はぎょっとして「おお、殿下!」と思わず叫んでしまう。悪人に苦難を与えるという高貴な行為の背後に、悪魔的ななにかが潜んでいることを露見させる一瞬である。

 ルドルフは世界の審判者を気取り、「先生」と呼ばれる悪党をわなにかけ、ひっとらえてから失明させる。しかしこの行為が単純に「悪を懲らしめる」という目的を達成するためのものと考えてはいけない。筋を説明するのは面倒くさいので省略するが、「先生」はある伯爵夫人の書類入れを持っていて、ルドルフはこの書類入れを取り返したいという個人的な利害を持っていたのである。ここが肝腎なところだ。書類入れを持っていなければ、ルドルフはこの悪党になんの関心も抱かなかったかもしれないのだ。しかもこの悪党に殺されかけたルドルフは、彼を失明させるという野蛮な懲罰を科す。この男ルドルフは性格的に野蛮と言わざるをえない。しかし彼は「自分の邪悪な情熱の爆発を、悪人の熱情にたいする爆発であるように、自分自身にも他の人々にも示す」(「神聖家族」からの引用)のである。彼は「先生」に残虐な刑を科すにあたって、異端審問をおこなう裁判所のようなセッティングをととのえ、わざと「おちついた、ものがなしい、心をしずめた」さまを見せるのだ。

 ルドルフの刑法理論の二重性についてマルクスは非常にわかりやすく、こう書いている。
 ついにルドルフ自身は、彼のカトリック的刑罰理論をとりけす。彼は死刑を廃止して、刑罰をくいあらためにかえようと欲した。ただしそれは殺人者がほかの人々を殺し、ルドルフ一門のものにはさわらない場合にかぎる。ルドルフは、殺人が一族にかかるやいなや、死刑を採用する。彼には二重の立法が必要だ。一つは彼自身のために、一つは俗衆のために。
これが「善良なる」ルドルフの正体であるとマルクスは言う。いや、まったくその通りだと私も思った。「パリの秘密」が出たとき、セリガ=ヴィシヌーという批評家はこの本を称賛したけれど、いま読むととても感心などはできない本である。わたしも読んでいてルドルフの残酷さの異様さに辟易としたが、作品それ自体はそれを異様とはみなしていないようなのである。私はマルクスの丁寧で説得力のある解釈に全面的に賛成する。ルドルフは金持ちのぼんぼんによくある、自己抑制のきかない、わがままな人間である。それどころか異様な復讐欲にとりつかれている。「彼はまさしくありとあらゆる悪人の情熱をそなえており、そのため他人の目玉をえぐりとるのだ。ただ僥倖と、金と、階級が、この『善人』の牢獄入りを救ったのである」

Tuesday, March 7, 2017

「神聖家族」 マルクス・エンゲルス (その二)

 マルクスは雛菊の宗教教育の過程を丁寧に追い分析しているが、ここでは一気にその最後に向かおう。要するに彼女は生活者としての現実感覚を失い、「この世ならぬ」態度を取るようになる。そのきわめつけは現実との関わりをまったく絶つことである。そう、彼女は修道院に入り、そこの尼院長に昇進する。しかし彼女はそこで死んでしまうのである。マルクスはこう書いている。
 修道院生活はマリ(雛菊のこと)の個性にふさわしくない――彼女は死ぬ。キリスト教は彼女を想像のなかでなぐさめるだけである。あるいは、彼女のキリスト教的なぐさめは、まさに彼女の現実の生活と本質の絶滅――すなわち彼女の死なのである。
雛菊の死が、彼女の個性の死とともに訪れるという解釈は充分な説得力がある。冒頭の、華奢でありながらも溌剌として、それなりに力強い存在であった彼女は、物語が進むに連れて、なにやら衰弱していくような印象を与える。それを彼女の宗教教育と結びつけて考えるのは当然だろうが、マルクスはそのことをじつに理路整然と、段階を負って説明している。

 マルクスは同様の分析を「匕首」に対しても行っている。彼は野育ちのやくざ者だが、ルドルフの教育によって改造され、「くいあらための生きた、ためになる実例として、なかなか信じたがらない世間の見せ物にするために」(「パリの秘密」からの引用)匕首はアフリカに送られる。そこで彼はイギリス植民地を襲う現地人と戦うのだ。彼はイギリス帝国主義の犬となる。西欧世界のキリスト教の教義を示さなければならなくなる。こうした改造のきわめつけの結果は彼の最後の場面に示される。匕首はルドルフの身代わりになって刺殺されるのだが、彼は「純粋な献身と、道徳的ブルドッグ主義の生涯をりっぱにおえた」(「神聖家族」からの引用)のだ。虫の息の匕首はルドルフにこう言う。「私みたいなミミズのようなものでも、あなた様のようなえらい殿下のお役にたつことも、たまにはあるものだといってようございましょうね」彼は犬のように屈従的な存在になってしまっていた。これがルドルフの教育の結果である。

 私はアルチュセールのメロドラマ批判を紹介したとき、「外から借りてこられた意識」という考え方について説明したけれど、雛菊にとっても匕首にとってもブルジョア的な信仰心・道徳心は、まさしく外部の意識である。

 ルドルフは最下層の人間であっても見どころのある人間はこのように「教育」をほどこして助ける(結局は殺されるようなものだけど)。そして悪者を成敗する。今度は成敗の場面に着目してみよう。そこにはおそるべき「すりかえ」や「ごまかし」が見られる。

 しかしその前に、そもそもなぜルドルフは慈善を施すのか、マルクスがその理由をえぐり出しているのでそこを確認しておこう。ちょっと長いが引用する。
貧困は、慈善家に「小説のピリッとしたところ、好奇心の満足、冒険、変装、自分の優秀さをたのしむこと、神経の激動」その他をあてがうために、意識的に逆用される。
 これによってルドルフは、人間的貧困そのものが、施しものをもらわねばならぬような無限の棄却が、金と教養をもった貴族のあそびとして、彼らの自愛をまんぞくさせるために、彼らの傲慢心をくすぐるために、彼らのなぐさみのために役だたねばならぬという、ずっと前から暴露されていた秘密を、それと知らずに公言したのである。
 ドイツのたくさんの慈善協会、フランスのたくさんの慈善団体、イギリスの多数のドンキホーテ的空想の慈善会、音楽会、舞踏会、演劇、貧民給食、それから災害者のための公共募金にいたるまでが、それ以外の意味をもつものではない。つまり、このようにして慈善も、ずっとむかしからたのしみとして組織されたのであろう。
要するにルドルフは心から貧困という「無限の棄却」のなかにある人々を憐れんで彼らを助けようとするのではない。そうする過程において小説的で刺激的な冒険を楽しみ、自分の立場の優越性を感じ、味わおうとしているのである。逆に言えば、施しものをする側は自己満足につながらない慈善などはしないということだ。実際にそのような偽善的な例が「パリの秘密」のなかにはちゃんと出てくる。


 
 
 

Friday, March 3, 2017

「神聖家族」 マルクス・エンゲルス (その一)

 この本はマルクスとエンゲルスの共著である。そのうち第五章と第八章でウジェーヌ・シューの「パリの秘密」が扱われている。この二章の作者はいずれもマルクスである。たんたんと議論が展開するなら読みやすいのだが、皮肉やひやかしが随所にまじっていて、ベンサムやフーリエやヘーゲルなどの哲学にも通じていないと読みこなせない。わたしはベンサムもフーリエもヘーゲルもろくに知らないので、マルクスの意図を充分に汲み取れたとはとても言えない。しかし辛抱強く読めば彼の言わんとすることは「だいたい」わかる。

 マルクスはウジェーヌ・シューの「パリの秘密」をどう批判しているのか。「パリの秘密」は膨大な小説で、登場人物も多いし、彼らのあいだの関係もややこしい。しかしそれを思い切り簡略化するならゲロルトシュタインという小さなドイツの公国の侯爵ルドルフが、水戸黄門よろしく青草人とまじわりつつ冒険を重ね、、悪人を成敗し、善人を助けるという話である。この「悪人を成敗し、善人を助ける」過程で強調されるのは、道徳と信仰だ。ルドルフは下層階級に道徳と信仰を押しつけ、またそれによって彼らを裁く。

 しかし第一の問題はこの道徳と信仰がブルジョア的な価値観であるということだ。下層民たちは自分たちとはおよそ縁のない人々の価値観を無理矢理押しつけられ、その結果、「匕首」と呼ばれるやくざ者や、「雛菊」と呼ばれる少女は死んでいくのである。

 第二の問題は、ルドルフは道徳と信仰を理由に下層民を裁くが、実はそれは建前で、本当は私的な怨恨、激情から裁くのである。マルクスはこの出鱈目さを徹底的にえぐり出している。

 第一の問題点については「雛菊」について議論を展開した部分を紹介したい。雛菊は物語の最初でルドルフが出会う貧民街の少女である。ルドルフは彼女が、行方不明となった自分の娘と同じ年齢であることから奇妙に愛着を覚える。(彼女がまさに自分の娘であったことが後に判明する)彼女は親の代わりに犯罪人の女に育てられてきたのだが、つらい人生を送ってきたにもかかわらず、「生気、精力、快活、性格のしなやかさ」を持っている。彼女の考え方は、ブルジョア的な信仰や道徳とはちがう、「人間的な」ものである。たとえば彼女は売春婦なのだが、キリスト教徒なら自分の罪深い過去を悔い改めようとするであろうが、彼女はつらいと思いつつも「すんだことはしかたがないわ」と言うのである。庶民的な処世術を感じさせるひと言である。

 また牧師から「神様のお慈悲はつきることがないのだよ! 神様はあんたを、たいへんくるしい試みのなかにもお見捨てにならないで、お慈悲をお示しなされた」と言われたとき、彼女はこう反論する。「あたしは自分をあわれんでくださった方、あたしを神様のところへつれもどしてくださった方のためにお祈りをいたします」これまた素朴な、人間的な考えではないだろうか。神様は大切かもしれないが、それよりも直接彼女に親切を施してくれた人に対して、彼女は祈りで感謝の意をあらわすのである。

Karl Marx 001.jpg しかしルドルフから雛菊の宗教的教育を任されたこの牧師は、こうした異端的な彼女の考え方を少しずつ変えていこうとする。そして彼女はこんなふうに変化する。「あたしはたえずルドルフさんのことを思いました。何度もあたしは空を見あげて、神様ではなく、あの方、ルドルフさんをさがし、お礼をもうしあげようとしました。ほんとうに――神父さま、、あたしは自分がわるいとせめるのです。あたしは神様よりも、あの方のことをたくさん思いました」雛菊は貧民街の娼婦という悲しい境涯から救ってくれたルドルフに深く感謝するのだが、それが神への感謝に変わっていくというわけだ。

 ここでマルクスはこう書いている。雛菊はルドルフによって与えられた「新しい幸福な境涯を、ありのままに、新しい幸福とだけ感じたこと、つまり新しい境涯に自然的な態度をとり、超自然的な態度をとらなかったことは、正しくないのだと言うことが、もうわかっている。彼女は、自分を救った人を、ありのままに彼女の救済者と考え、想像上の救済者たる神とすりかえなかったといって、もう自分をせめている。もう彼女は宗教的偽善におかされている。この偽善は、私のために他の人がつくしてくれたことを彼からとりあげて、これを神のわざとするものであり、一般的にいえば、人間のうちの人間的なものはすべて人間と縁がなく、人間のうちの非人間的なものはすべて彼の本来の性質であるとみなすのである」

 「自然」とか「超自然」とかマルクスは書いているけれど、これはそれぞれ「俗なもの」、「宗教的・霊的なもの」と解しておけばいい。「あたしは自分をあわれんでくださった方、あたしを神様のところへつれもどしてくださった方のためにお祈りをいたします」と言ったころの雛菊とはずいぶん変化した。マルクスの言うように「宗教的偽善」に染まってしまった。