Monday, March 20, 2017

「神聖家族」 マルクス・エンゲルス (その三)

 ルドルフの慈善は利己的な理由からなされている。彼が悪人を裁くときも、一見するとそれは正義のためのようだが、本当は個人的な理由から行われている。つまり正義とか道徳というのは建前・カモフラージュにすぎない。聖書には「御使等いでて、義人の中より、悪人を分かつ」とか「すべて悪をおこなう人には患難と苦難とあり、凡て善をおこなう人には、光栄と尊貴と平安あらん」という言葉があるが、
ルドルフは自分でこのような御使のつもりでいる。彼は義人のなかより悪人をわかち、悪人を罰し、善人にむくいるために、世のなかへでかける。善悪の観念は彼の弱い頭脳に非常な感銘をあたえたので、彼は生身のサタンがいるものと信じ、ボン大学の故ザック教授のように、悪魔を生けどりにしたいとおもう。他方ではこれと反対に、悪魔の対立者である神を小規模に摸倣しようとつとめる。彼は「摂理の役割をいささか演じること」がすきだ。現実のうちでは、すべての区別が、ますます貧富の区別に融合するように、理念のうちではすべての貴族主義的な区別が、善と悪の対立に解消する。この区別は、この貴族主義者が自分の偏見にあたえる最後の形態である。ルドルフは自分は善人のつもりでいる。悪人が存するのは、自分が卓越しているという自己満足を彼ルドルフにあたえんがためである。
マルクスは痛烈な言葉でルドルフを批判している。まずルドルフの正義が本質的に利己的なものであることを示唆する例をひとつ引こう。彼は物語の冒頭で雛菊に出会い、彼女の不幸な生い立ちを聞いて涙がこぼれるくらい感動する。そして雛菊を虐待した育ての親の邪悪さに興奮し、おごそかに従者にむかって言う。「おまえも知っているように、ある復讐は、わたしにはたいへん貴重なのだ。ある苦痛はたいへん大切なのだ」そう言いながら、悪魔的に顔をしかめて見せたので、従者はぎょっとして「おお、殿下!」と思わず叫んでしまう。悪人に苦難を与えるという高貴な行為の背後に、悪魔的ななにかが潜んでいることを露見させる一瞬である。

 ルドルフは世界の審判者を気取り、「先生」と呼ばれる悪党をわなにかけ、ひっとらえてから失明させる。しかしこの行為が単純に「悪を懲らしめる」という目的を達成するためのものと考えてはいけない。筋を説明するのは面倒くさいので省略するが、「先生」はある伯爵夫人の書類入れを持っていて、ルドルフはこの書類入れを取り返したいという個人的な利害を持っていたのである。ここが肝腎なところだ。書類入れを持っていなければ、ルドルフはこの悪党になんの関心も抱かなかったかもしれないのだ。しかもこの悪党に殺されかけたルドルフは、彼を失明させるという野蛮な懲罰を科す。この男ルドルフは性格的に野蛮と言わざるをえない。しかし彼は「自分の邪悪な情熱の爆発を、悪人の熱情にたいする爆発であるように、自分自身にも他の人々にも示す」(「神聖家族」からの引用)のである。彼は「先生」に残虐な刑を科すにあたって、異端審問をおこなう裁判所のようなセッティングをととのえ、わざと「おちついた、ものがなしい、心をしずめた」さまを見せるのだ。

 ルドルフの刑法理論の二重性についてマルクスは非常にわかりやすく、こう書いている。
 ついにルドルフ自身は、彼のカトリック的刑罰理論をとりけす。彼は死刑を廃止して、刑罰をくいあらためにかえようと欲した。ただしそれは殺人者がほかの人々を殺し、ルドルフ一門のものにはさわらない場合にかぎる。ルドルフは、殺人が一族にかかるやいなや、死刑を採用する。彼には二重の立法が必要だ。一つは彼自身のために、一つは俗衆のために。
これが「善良なる」ルドルフの正体であるとマルクスは言う。いや、まったくその通りだと私も思った。「パリの秘密」が出たとき、セリガ=ヴィシヌーという批評家はこの本を称賛したけれど、いま読むととても感心などはできない本である。わたしも読んでいてルドルフの残酷さの異様さに辟易としたが、作品それ自体はそれを異様とはみなしていないようなのである。私はマルクスの丁寧で説得力のある解釈に全面的に賛成する。ルドルフは金持ちのぼんぼんによくある、自己抑制のきかない、わがままな人間である。それどころか異様な復讐欲にとりつかれている。「彼はまさしくありとあらゆる悪人の情熱をそなえており、そのため他人の目玉をえぐりとるのだ。ただ僥倖と、金と、階級が、この『善人』の牢獄入りを救ったのである」