Saturday, March 25, 2017

「神聖家族」 マルクス・エンゲルス (その四)

 マルクスの議論は多岐にわたり、彼が溜め込んでいる知識の膨大さがよくわかった。とてもそのすべては私にはわからないし、それ故紹介もできない。ここに書いたのは彼の議論の急所と私が考える部分だけである。そこをもう一度整理しておきたい。

 「パリの秘密」というメロドラマはイデオロギー装置である。それは人々にブルジョア的な観念を植えつけようとするものだ。ブルジョア的な観念とはとりわけ道徳とか信仰のことである。これをブルジョア以外の、その支配下にある人々に教えこむこと。下層階級からしてみれば、「外部の意識」を与えられることである。この「外部の意識」が当然であり、「自然」なのだということを下層階級に納得させるために、ブルジョアはさまざまな脅し(牧師の説教とか)や社会機構(警察とか牢獄とか)を使う。

 ところで一方で、ブルジョアたちはブルジョア的な観念を信じているのかというと、それはとんでもない間違いである。ルドルフは自分ではブルジョア的な観念を信じていると思っている。もしかしたら本気で自分は信仰と道徳のかたまりだと思っているのかもしれない。しかし彼はあきらかに私的な利害関係で動いている。どうやら自分が私的な利害で動いていることに気がつかず、ブルジョア的価値観を世界に広げるために自分は働いていると考えているらしい。マルクスの「パリの秘密」論でもっとも肝腎な論点はここだ。マルクスは意識と、行為の外形とのあいだにあるギャップを知っていたのだと思う。

 「神聖家族」のなかで語られているわけではないが、読んでいて私が考えたことについても書いておこう。「パリの秘密」はルドルフを善であり英雄であるとしている。彼はブルジョア的な観念を世界に広めるために努力している。しかし同時にこの作品は、「じつはそうでない」という秘密ももらしてしまっている。マルクスのように細かく読めば、ルドルフがまったく善ではなく、英雄でもないことがわかるように書かれている。いったいこれはどういうことなのか。なぜ作者はブルジョア的観念を世界に広める善人、かつ英雄として描かなかったのか。彼のうっかりなのか、それともイデオロギーはおのずとその限界をあらわしてしまうものなのか。

 私は後者なのだと考える。つまりイデオロギーは自分を規定し、規定しながらその限界を提示してしまうのである。その限界の読み取りは必ずしも容易ではないけれど、しかし可能である。たとえば時代の変遷がそれを可能にすることもあるだろう。実際、十九世紀末においては、ルドルフを善人・英雄と読み取る輩がいて、マルクスはそれを痛烈に批判するためにこの論文を書いたのである。しかし今、「パリの秘密」を読むとどうだろう。すくなくとも私はルドルフを嫌悪した。ルドルフが怪力のやくざ者を捕らえ、目をつぶしてしまう場面など、反吐がでるくらいだ。こんなふうに時代が変われば感性が変わり、その作品の限界が見えてくることがある。

 もう一つ考えたことがある。メロドラマをいろいろ読み返しているうちに、どうもブルジョア的な価値観を俗っぽい形で提示したものと、特徴付けることができそうな気がしてきた。しかしメロドラマというのは、批評家によってもっとも批判・非難されるものである。「あれはメロドラマだ」といえば、あの作品はくだらないと言うに等しい。では批評家はブルジョア的な価値を否定しているのかというと、そうでもない。だいたい彼らはブルジョアに属する人々である。ブルジョアがブルジョアの価値観を貶める? これはどういうことなのか。

 私の疑問が筋違いなものではないと仮定して考えるなら、二つの理由がすぐに思いつく。一つはマルクスが活躍した頃にはもうメロドラマがステレオタイプ化していたということ。なにしろフランス革命のあとに出てきた形式だから、生まれてもう百年が経つわけだ。いやになるのも当然である。

 もう一つの理由は、ブルジョアがブルジョアの価値観を称賛するなど、いかにも恥ずかしい行為である。最近はそうでもないようだが、この頃はまだ知的な慎みというものがあったのだろう。(日本文化はクールだ、などと、日本政府が言うのは恥ずかしいことである)