Friday, March 3, 2017

「神聖家族」 マルクス・エンゲルス (その一)

 この本はマルクスとエンゲルスの共著である。そのうち第五章と第八章でウジェーヌ・シューの「パリの秘密」が扱われている。この二章の作者はいずれもマルクスである。たんたんと議論が展開するなら読みやすいのだが、皮肉やひやかしが随所にまじっていて、ベンサムやフーリエやヘーゲルなどの哲学にも通じていないと読みこなせない。わたしはベンサムもフーリエもヘーゲルもろくに知らないので、マルクスの意図を充分に汲み取れたとはとても言えない。しかし辛抱強く読めば彼の言わんとすることは「だいたい」わかる。

 マルクスはウジェーヌ・シューの「パリの秘密」をどう批判しているのか。「パリの秘密」は膨大な小説で、登場人物も多いし、彼らのあいだの関係もややこしい。しかしそれを思い切り簡略化するならゲロルトシュタインという小さなドイツの公国の侯爵ルドルフが、水戸黄門よろしく青草人とまじわりつつ冒険を重ね、、悪人を成敗し、善人を助けるという話である。この「悪人を成敗し、善人を助ける」過程で強調されるのは、道徳と信仰だ。ルドルフは下層階級に道徳と信仰を押しつけ、またそれによって彼らを裁く。

 しかし第一の問題はこの道徳と信仰がブルジョア的な価値観であるということだ。下層民たちは自分たちとはおよそ縁のない人々の価値観を無理矢理押しつけられ、その結果、「匕首」と呼ばれるやくざ者や、「雛菊」と呼ばれる少女は死んでいくのである。

 第二の問題は、ルドルフは道徳と信仰を理由に下層民を裁くが、実はそれは建前で、本当は私的な怨恨、激情から裁くのである。マルクスはこの出鱈目さを徹底的にえぐり出している。

 第一の問題点については「雛菊」について議論を展開した部分を紹介したい。雛菊は物語の最初でルドルフが出会う貧民街の少女である。ルドルフは彼女が、行方不明となった自分の娘と同じ年齢であることから奇妙に愛着を覚える。(彼女がまさに自分の娘であったことが後に判明する)彼女は親の代わりに犯罪人の女に育てられてきたのだが、つらい人生を送ってきたにもかかわらず、「生気、精力、快活、性格のしなやかさ」を持っている。彼女の考え方は、ブルジョア的な信仰や道徳とはちがう、「人間的な」ものである。たとえば彼女は売春婦なのだが、キリスト教徒なら自分の罪深い過去を悔い改めようとするであろうが、彼女はつらいと思いつつも「すんだことはしかたがないわ」と言うのである。庶民的な処世術を感じさせるひと言である。

 また牧師から「神様のお慈悲はつきることがないのだよ! 神様はあんたを、たいへんくるしい試みのなかにもお見捨てにならないで、お慈悲をお示しなされた」と言われたとき、彼女はこう反論する。「あたしは自分をあわれんでくださった方、あたしを神様のところへつれもどしてくださった方のためにお祈りをいたします」これまた素朴な、人間的な考えではないだろうか。神様は大切かもしれないが、それよりも直接彼女に親切を施してくれた人に対して、彼女は祈りで感謝の意をあらわすのである。

Karl Marx 001.jpg しかしルドルフから雛菊の宗教的教育を任されたこの牧師は、こうした異端的な彼女の考え方を少しずつ変えていこうとする。そして彼女はこんなふうに変化する。「あたしはたえずルドルフさんのことを思いました。何度もあたしは空を見あげて、神様ではなく、あの方、ルドルフさんをさがし、お礼をもうしあげようとしました。ほんとうに――神父さま、、あたしは自分がわるいとせめるのです。あたしは神様よりも、あの方のことをたくさん思いました」雛菊は貧民街の娼婦という悲しい境涯から救ってくれたルドルフに深く感謝するのだが、それが神への感謝に変わっていくというわけだ。

 ここでマルクスはこう書いている。雛菊はルドルフによって与えられた「新しい幸福な境涯を、ありのままに、新しい幸福とだけ感じたこと、つまり新しい境涯に自然的な態度をとり、超自然的な態度をとらなかったことは、正しくないのだと言うことが、もうわかっている。彼女は、自分を救った人を、ありのままに彼女の救済者と考え、想像上の救済者たる神とすりかえなかったといって、もう自分をせめている。もう彼女は宗教的偽善におかされている。この偽善は、私のために他の人がつくしてくれたことを彼からとりあげて、これを神のわざとするものであり、一般的にいえば、人間のうちの人間的なものはすべて人間と縁がなく、人間のうちの非人間的なものはすべて彼の本来の性質であるとみなすのである」

 「自然」とか「超自然」とかマルクスは書いているけれど、これはそれぞれ「俗なもの」、「宗教的・霊的なもの」と解しておけばいい。「あたしは自分をあわれんでくださった方、あたしを神様のところへつれもどしてくださった方のためにお祈りをいたします」と言ったころの雛菊とはずいぶん変化した。マルクスの言うように「宗教的偽善」に染まってしまった。