Saturday, April 29, 2017

「マルクスと世界文学」 S.S.プラヴァー (その二)

Karl Marx and World Literature by S. S. Prawer

 マルクスは「雛菊」の人生にも、作者とは正反対の軌跡を見る。「雛菊」は貧民街に生きる十七歳の可憐な少女である。生活は苦しいしつらい運命の連続だが、彼女はけっこうたくましく生きている。愛らしくて気品があり、自然なやさしさを持った彼女は非常に魅力的である。ところが彼女もルドルフの手によって修道院に入れられ、宗教に凝り固まるにつれ、最初の頃の快活さやうるおいを失い、最後はひからびた人間として死んでいくことになる。ところが作者は彼女の人生を、街角の女から宗教的聖女への変貌として描き出すのである。

 マルクスは作者シューのものの見方をそのまま受け入れて読むのではなく、その「外部」に立って批判的に物語を分析する。「外部」に立つことは批評の第一原則だが、案外これが難しい。「外部」に立つというのは、「内部」の矛盾・齟齬を見抜く位置に立つことだからである。

 さてプラヴァーが指摘するマルクスの三つ目の論点に移ろう。「パリの秘密」はパリという現実の秘密をあばくために書かれたのだが、しかし小説に書かれていることと現実を比較すると、実は小説の記述は現実を覆い隠したり、歪めたりしている。いちばん典型的な例はシューの notary (書士と訳せばいいのだろうか)の描き方である。これは現実の notary とはまるで違っているので、パリの notary たちから異論が噴出し、「パリの秘密」が舞台用に脚本化されるとき、notary の出る場面は削除されたほどである。

 またパリの労働階級の女たちの性愛も歪めて書かれている。ディケンズが描く売春婦の姿が実際とちがうように、シューが描くところの労働階級の女たちの性愛のありさまも現実とはちがう。しかしこれは逆に、「パリの秘密」がその人々にあてて書かれている読者層の偏見を露わにしているという点で興味深い。

 さらにマルクスの四つ目の論点に移ろう。それはルドルフのユートピア的計画が机上の空論にすぎないことである。ルドルフは模範的な農場の経営を考えたり、失業者に無利子で金を貸し附ける銀行をつくろうと考えるが、マルクスはこれらがまったく誤った議論であることを示している。

 マルクスがこの点に関して実際どんな議論を展開しているかは「神聖家族」を読んでもらったほうが早い。だいたいルドルフの考えを聞けば、いまのわれわれであれば経済学の知識がさほどなくても、直感的にこれはダメだと判断ができるのではないか。ただここでちょっと問題にしたいのは、プラヴァーその他の人々が指摘するように、マルクスが文学作品と現実を混同しかけている点である。小説は青書でもなければ政治的パンフレットでもない。小説の内容を現実のデータで批判することは、的外れなのである。

 もちろんマルクスもそのことは知っている。しかし知っているけれども「神聖家族」のある部分ではその区別が充分に維持されていないような印象を受ける。この反省に立って、われわれはマルクスよりももっと厳密にこの区別を意識して作品を批評しなければならないのだ。

 最後に第五の論点について。わたしの見るところ、これは第二の論点と重なるのだが、登場人物の語ることと、実際のその振る舞いの間には矛盾が生じている。たとえばやくざの「校長」は、ルドルフによって地下室に閉じこめられたときのことを後に振り返って「地下室での孤独がおれの心を清めたのだ」などと言っているが、これはとても信じられない。彼は獣のように吠え、狂ったように怒り、恐ろしい復讐のことしか考えていないような状態だからである。作者シューは、ルドルフの処置が「校長」にすばらしい影響を与えたような印象を読者に与えたがっているようだが、「すばらしい影響」は自然な形で「校長」の胸にわきあがってきたのではない。とってつけたように口にされるだけである。こうした矛盾は作者の思考の粗雑さをあらわすものだとマルクスは指摘する。

 プラヴァーはマルクスの議論を以上の五点にまとめて整理している。わたしが以前書き落としたことをすべてすくい取ってくれているので、非常に助かるまとめだった。さらにマルクスはバルザックの「人間喜劇」をも批評するつもりでいたという事実も教えてもらった。それを知ったとき、ああ、それは是非とも読みたかったと、思わず嘆息してしまった。マルクスによるメロドラマ批判が以後の文芸批評に裨益することは間違いなかっただろうに。

Wednesday, April 19, 2017

「マルクスと世界文学」 S.S.プラヴァー (その一)

Karl Marx and World Literature by S. S. Prawer

以前、マルクスの「神聖家族」に載っている「パリの秘密」批判を紹介した。たまたま Verso から出ている本書を見ていたら、「神聖家族」の内容を非常に簡潔に、見事にまとめた一章があったのでそこを紹介して補足としておきたい。

 「マルクスと世界文学」は序文にも書いてある通り、マルクスの文学理論をさらに展開させたものではなく、マルクスがそのときどきにおいて文学について語ったことを作者なりに整理したものである。とくに理論的に面白いということはないのだが、参考書としては抜群に有用性を持つ一冊と言える。

 ウジェーヌ・シューの「パリの秘密」は一八四二年から四三年にかけて分冊形式で発表され、大評判となった。セリガという批評家は新ヘーゲル学派の立場からこれを解釈し、賞賛する。マルクスは「神聖家族」において、まずセリガの生半可な観念論に批判を加え、かつ「パリの秘密」という作品それ自体の問題性も指摘する。

 プラヴァーはマルクスの議論を五つに分けて紹介している。まず第一の議論はセリガに対する反論である。これは八つの項目に整理できる。

 1 セリガは小説のエピソードを思弁的なヘーゲルの議論に合うように、ねじ曲げて理解している。
 2 セリガはパリを知らないため、小説の含意を誤解している。
 3 セリガは文学上の約束事に無知なため、舞踏会の場面などの意味を理解していない。
 4 セリガは小説のくだらない言い回しに、深遠な意味を見てしまっている。
 5 セリガは作者自身の人物解釈、出来事解釈を額面通りに取りすぎている。
 6 作者がみずからいう「この小説が持つ社会的目的」に対して充分、批判的距離を取っていない。
 7 セリガはこの小説の文学的価値を誇大評価している。
 8 セリガの文章は彼が明晰に考えることも、まともにドイツ語をあやつることもできないことを示している。

 じつに綺麗な整理だ。これを読んでわたしはデリダの脱構築に影響を受けた人々が、彼のまねをしてろくでもない文章を大量に書いたことを思い出す。はっきり言えば、デリダは読む価値がある。しかしエピゴーネンが書いたものには三文の価値もない。セリガがヘーゲルの知的レベルにはるかにおよばず、ただ猿まねの、ずさんな議論を展開したように、デリダのエピゴーネンどもも混乱した頭で勝手な熱を吹いていただけである。

 さて、マルクスの議論の二つ目に大切な点は、「作者シューが実際に書いていることと、彼が書いたと思っていることのあいだには、齟齬がある」ということである。わたしがなによりもマルクスの議論のなかで大切だと思い、ブログに書いたのはこの論点である。

 たとえば主人公のルドルフは立派な人格者として示されているが、話をよく読んでみるといい。とりわけ怪力を持つやくざ者、「校長」と綽名される男を捕まえて、罰を与えるために彼を失明させる場面を読むといい。彼は正義のためと言うが、じつは自分の勝手な、そして残忍な欲望を満足させているだけにすぎないのである。では、この物語がなぜ当時のブルジョアたちに受けたのか。それは一方で彼らの下劣な感情を満足させ、他方で道徳的な高揚をも味わわせることを可能にしたからである。

 この齟齬は「匕首」と「雛菊」にも見て取れる。すでにブログに書いたことだが、重要なので簡単に再説したい。「匕首」は「校長」と同じように怪力を持つやくざ者である。しかし「校長」は悪事にのめりこんでいるが、「匕首」は快男児である。ユーモアがあり、気っぷがよく、振る舞いは粗暴だが、己を律する立派な信条を持っている。ところが彼はルドルフの手によって植民地に送られ、そこで植民地をおびやかす外敵と戦うことになる。そして最後に国家の犬と成り下がって死んでいくのである。しかし作者は、「匕首」はやくざ者から国家のために尽くす人に変貌したと称揚するのだ。日本では「匕首」のような人間を「英霊」なんぞと呼んだりもする。(つづく)

Friday, April 14, 2017

「二つの世界のロマンス」 マリー・コレーリ

A Romance of Two Worlds (1886) by Marie Corelli (1855-1924)

 十九世紀世紀末の人気作家、マリー・コレーリの処女作である。いろいろな意味で彼女の資質がよくわかる作品だった。

話の内容は単純である。即興演奏を得意とする若い女性ピアニストが原因不明の体調不調に陥り、転地療養のためにフランスへ渡る。そこで医者でありかつ神秘家でもあるヘリオバスと出会い、彼の治療を受けるようになる。これが実に有効な治療で、彼女はたちまちのうちに健康を回復する。それだけではない。ヘリオバスは彼女に精神世界の存在を教えるのである。彼女は薬物の使用により今まで知らなかった世界へとおもむく。彼女は幻の中で地球の外に出、火星の世界、木星の世界、そして輝かしい光のリングの世界、神の世界を知り、彼女の守護神に会う……。

 表題の「二つの世界」というのは、現実の世界とこの精神世界のことを言うのだろう。なにか小説らしく最後のほうで物語が盛りあがるのかというと、そんなことはない。たんたんとピアニストが彼女の身に起きたことを語るだけで、神秘家である医者の美しい医者の妹が雷に打たれて死んでしまい、葬式のあと、ピアニストと別れる場面で物語は終わってしまう。ただ、ピアニストが神秘体験をしながら、精神世界についていろいろな知識を手に入れる。そこが読みどころと言えば読みどころであろう。

「二つの世界」挿絵
たとえば、魚の中には電気をつくり出すものがあるが、人間にもそれが可能であると神秘家のヘリオバスは言う。そしてキリストやモーゼもそうした電気をあやつる能力を持っていたのだそうだ。マリー・コレーリはキリスト教を擁護するけれども、彼女の考えるキリスト教は伝統的なそれではない。あきらかにそれ以外の、雑多な要素を取り込んだ、いわばニューエイジ的キリスト教である。

 マリー・コレーリは「分析的」な態度を批判するけれど、それもニューエイジ的思考と関係しているのだろう。ニューエイジ的思考は「総合」を目ざすからである。それはいちいち分析し、理屈をこねることよりも、一気に対象を感得しようとする。それゆえ彼女の作品においては科学的な態度がよく批判されることになる。

 わたし自身はニューエイジ的な思考に対して批判的で、たとえばノンセンスを分析的知性の産物と見なし、それに詩という総合する力を相対させるエリザベス・シェーエルの議論などもだめだと思っている。こんな単純な対立図式では現実をとらえることができない。連続と不連続、一と多、不変と変化、統一性と多様性、こうした対立は哲学においても数学においても科学においても必ずパラドックスを構成する。わたしは決してラカン派ではないけれど、しかしいまのところ、人文科学の分野でこのパラドックスをもっともうまく説明できるのはラカンの議論なのである。

 話がそれたが、マリー・コレーリがニューエイジ的な考えを持っていたということは本書を読んでよくわかった。そういえば「悪魔の悲しみ」の中で、彼女はブラヴァツキー夫人の名前を出していたはず。十九世紀の世紀末にブラヴァツキー夫人は「秘密の原理」という本を書いて近代的な神智学の礎を築いたが、ニューエイジというのはその末流である。だんだんとマリー・コレーリの想像力がなにに由来するものなか、見えてきたような気がする。おそらくこの神秘的な想像力が彼女の人気の秘密の一端なのだろうし、彼女が嫌われた理由でもあるのだろう。

Sunday, April 9, 2017

「バラバ」 マリー・コレーリ

Barrabas, A Dream of the World's Tragedy (1893) by Marie Corelli (1855-1924)

 表題のバラバは、キリストのおかげで処刑をまぬがれた例の盗人である。本書のバラバは美しい恋人のために盗みと殺人を犯したことになっている。彼は牢屋に入れられるのだが、過ぎ越しの祭の日にキリストとともに民衆の前に引っ張り出され、民衆の意志により罪を許されることになる。過ぎ越しの祭の日には、罪人が一人だけ恩赦を受けるというのが、当時のエルサレムでのしきたりだったのだ。しかし実質上なんの罪も犯していないキリストが磔の刑に選ばれたのにはちょっとしたわけがある。

Arthur Maude - Shadow of Nazareth 1913.jpg
By Arthur Maude - frame capture of a 1913 film, Public Domain, Link

 キリストが捕まったのは、彼が金貸し(今で言うなら大企業)や聖職者や税吏などを批判したからである。要するに支配階級がキリストの言動を不都合に思ったから彼を捕まえたのである。しかし当時の総督ピラトは、キリストが悪い人間だとは思わなかった。それはそうだろう。別に人に危害を加えてはいないのだから。それに対してバラバは盗人であり人殺しである。総督としてはバラバを処刑し、キリストを釈放するつもりだった。

 ところが金貸しや聖職者はキリストを処刑しろと要求してくる。ピラトはその強硬さに辟易とし、わたしにはわからない、民衆に決めてもらおう、と言うのである。民衆なら支配者層とはちがってキリストとなんの利害関係もないから、無実の彼を釈放するだろうと考えていたのかもしれない。しかし金貸しや聖職者たちはあらかじめキリストの悪辣さを民衆に吹きこんでいたのである。扇動されていた彼らはピラトにむかってキリストの処刑を要求する。

 こうしてキリストはゴルゴダの丘で処刑される。

 本書においてはこの処刑の日の様子が延々と詳しく描かれている。ヴィクトリア朝末期に三巻本で出された作品だが、ほぼその半分はキリストの処刑の描写に費やされている。

 一八九五年に作者は「『バラバ』とその後」という評論をザ・アイドラーという雑誌に載せていて、それによると「バラバ」は出版されて一年ほどのあいだに十四版を重ね、ヨーロッパの六つの言語に翻訳され、パールシー語やヒンドゥスターニー語でも紹介されたという。驚くべき評判を取った作品である。

 いったいなにがそんなによかったのだろうか。

 正直に言ってこの作品には粗さが目だった。文章も冗長で、メロドラマがすぎている。とくにバラバの恋人(彼女はユダの妹になっている)は気が触れてからというもの、いやらしいほど感傷的な台詞を吐きまくっている。そして決定的と思われる欠点は、キリストやその母マリア、そして父のヨセフがあきれるほど平坦な描かれ方をしているということだ。まあ、コレーリにとっては彼女の神秘学の中核にある存在だから、それを立体的に描き出すのは至難の業なのだろう。どんな作家でも自分のファンタジーの中核に迫りすぎると、表現が凡庸になり失敗する。核心を狙った矢はかならずはずれるのだ。これが芸術の不思議なところだ。

 しかし欠点はあるけれども、確かに大衆の気を惹きそうな「美点」もある。一つはコレーリ一流のスペクタクル・シーンである。キリストが死ぬ瞬間にエルサレムは突然闇黒につつまれ、雷が鳴る。その劇的な変化は映画の一場面のように強烈だ。甦ったキリストが光につつまれてあらわれる場面も同様である。

 もう一つの「美点」はドラマチックであるという点だろう。これはバラバの改心に典型的にあらわれている。彼は卑俗な盗人なのだが、キリストを処刑や復活を目撃して彼の教えに服するようになる。コソ泥が敬虔な宗教人になるという、この振幅の大きさがコレーリの作品の特徴の一つである。このことは「ジスカ」を書評したときにも指摘した。

 こういう図柄の大きさが読者層に受けたのだろうか。

 ただ、彼女が伝統的なキリスト教信仰の持ち主かというとそうではない。たとえばコレーリは人間は死ぬのではなく、別の次元・世界へ移行するのだと考えている。十九世紀末といえば「神の死」が唱えられた時期だが、コレーリは「死の死」を唱える。しかしこれはそんなに奇抜なことではない。キリストの死(そして復活)によって、死という観念が死んだということは以前から言われている。コレーリが独特なのは「死の死」に輪廻思想をくっつける点だ。それゆえ魂はこの世で転生をくり返し、あるいは別の世界で生きつづけるのである。

 さらに次の点も注目すべきだと思う。コレーリは、この世で悪をなせば、死んでそれに決着がつくのではなく、罪を次の次元、次の世界へ持ち越すことになると考える。それは恐ろしいことであると、作者はバラバの恋人に言わせている。これはフロイトの強制反覆の世界ではないか。ある不快な体験が何度も何度も反覆される。死んでそこから逃れることができるならいいのだが、それは死んでも逃れられないような何かなのである。私は以前アルバート・バーグ氏の「難破船」という作品を訳させてもらったが、あれは強制反覆の格好の例である。(右にあるリンクから作品をダウンロードできます)コレーリが描く不死(undead)の世界は妙にリビディナルな世界ではないのか。

GiveUsBarabbas.png
Public Domain, Link

Wednesday, April 5, 2017

「ステラ・マーベリーの証言」 トマス・アンスティ・ガスリー(その二)

The Statement of Stella Marbelly, Written by Herself (1896) by Thomas Anstey Guthrie

 「ねじの回転」はヴィクトリア朝時代にはたんなる幽霊譚として読まれていたのだが、批評家が語り手の家庭教師は精神を病んでいる、彼女の言うことに客観性はない、と言い出してから問題視されるようになった。「ステラ・マーベリーの証言」においても語り手は精神を病んでいるように見える。ただ「ねじの回転」の場合はそのことがわかりにくいが、「ステラ・マーベリーの証言」においてはそれはかなりはっきりと示されている。

 本文、つまり手記そのものを紹介しよう。

 語り手は自分の特殊な性格をよく理解しているらしく、自分の幼少の頃から話を説き起こしている。いかに彼女の性格が形成されてきたのか、また、事件が起きる前の、彼女と副主人公との間柄がどのようなものであったのか、それをわかりやすく書いている。彼女は幼くして母を失い、継母によって育てられる。継母は親切な人だったようだが、ステラは扱いにくい子供で、「嫉妬と不機嫌という二匹の悪魔」に取り憑かれることがよくあった。彼女は素直ではない、わがままで、どこか天の邪鬼的な性格を持った女の子だった。

 彼女は寄宿学校に入れられ、そこで本書の副主人公イヴリンと出会う。イヴリンは優しいけれども気が小さくて身体が弱かった。二人は学業の上ではトップを争うライバルだった。もっともステラは「本気を出す気になれば、彼女を越えることはできた」と自慢しているけれども。彼らは学業の上ではライバルだけれども、お互いに相手のことが好きだったようだ。「わたし(ステラ)は思い切り彼女(イヴリン)に冷たくしているときも、彼女のことを愛していた。わたしは本能的に彼女の純粋で気高い心を感じ取ったし、彼女がわたしを慕うのを誇らしく思った。しかし生まれついての自虐的な性格のせいで、彼女のわたしに対する気持ちを小馬鹿にし、それを失いかけたこともあった」

 さてステラは学校を卒業すると家に帰るのだが、父が破産したこともあって自分で自分の生計を立てようと考える。ちょうどそのときイヴリンが若い付添婦を探しているということを聞き、さっそくイヴリンの住んでいるサリーへおもむく。付添婦というのは話し相手や相談役を務める人のことだ。

 学校以来の再会をはたした二人は非常にうれしがる。どちらもちょっとだけ大人になって、まるで恋人同士のように親密になる。しかしこの関係は長くは続かない。以前イヴリンに心を惹かれたことのある、ある男性が彼女を訪ねて来るようになったのだ。ステラはこの男にイヴリンを取られてしまうのではないかと気が気ではなくなる。いや、それどころか、彼女はこの男に恋心を抱くようになるのである。ついに嫉妬は憎しみに転化し、二人はある日大げんかをする。

 その晩のことだ。ステラはイヴリンの伯母に睡眠薬はないかと尋ねられる。イヴリンが興奮して寝られないようだから彼女に薬を与えたいというのである。ステラは自分の睡眠薬のありかをイヴリンの伯母に教える。しかしこの睡眠薬は劇薬で、イヴリンのような身体の弱い人には毒薬になってしまうようなものなのだ。

 ここからがこの小説の面白いところだ。

 翌朝、ステラがイヴリンの部屋を訪ねると、イヴリンは死んでいた。ステラはショックを受け、睡眠薬を与えたことを後悔する。ところがだ……ステラが見ている前でイヴリンは再び甦ったのである! しかもただ甦っただけではない。イヴリンは死んだ後、悪霊に身体を乗っ取られたようなのである!

 しかし、悪魔に身体を乗っ取られているというのはステラの幻想にすぎないのか、それとも真実なのかはわからない。イヴリンがステラに悪魔の顔を見せるのは、彼女と二人きりのときだけであり、他の人といっしょにいるときは、いつもとまったく変わらないからである。異常に気がつくのは語り手のステラのみ。「ねじの回転」の語り手の場合とまったく同じである。

 このあとイヴリンは例の男と結婚し、ステラはハネムーンから戻ってきた彼女と最後の対決をし、陰惨な結末を迎える。ネタバレしたくないので詳しくは書かないが、「ねじの回転」の結末とよく似たところのある終わり方になっている。いやいや、こちらのほうが先に出版されているのだから、「ねじの回転」のほうが「ステラ・マーベリーの証言」に影響を受けていると言うべきだろう。

 この本はつい最近ヴァランコートからリプリントが出た。ヴァランコートは忘れられたホラーやサスペンスやLGBT文学の名作を再刊している出版社だ。「ステラ・マーベリーの証言」はヴァランコートが発掘した名作のひとつとして名を残すに違いない。