Sunday, April 9, 2017

「バラバ」 マリー・コレーリ

Barrabas, A Dream of the World's Tragedy (1893) by Marie Corelli (1855-1924)

 表題のバラバは、キリストのおかげで処刑をまぬがれた例の盗人である。本書のバラバは美しい恋人のために盗みと殺人を犯したことになっている。彼は牢屋に入れられるのだが、過ぎ越しの祭の日にキリストとともに民衆の前に引っ張り出され、民衆の意志により罪を許されることになる。過ぎ越しの祭の日には、罪人が一人だけ恩赦を受けるというのが、当時のエルサレムでのしきたりだったのだ。しかし実質上なんの罪も犯していないキリストが磔の刑に選ばれたのにはちょっとしたわけがある。

Arthur Maude - Shadow of Nazareth 1913.jpg
By Arthur Maude - frame capture of a 1913 film, Public Domain, Link

 キリストが捕まったのは、彼が金貸し(今で言うなら大企業)や聖職者や税吏などを批判したからである。要するに支配階級がキリストの言動を不都合に思ったから彼を捕まえたのである。しかし当時の総督ピラトは、キリストが悪い人間だとは思わなかった。それはそうだろう。別に人に危害を加えてはいないのだから。それに対してバラバは盗人であり人殺しである。総督としてはバラバを処刑し、キリストを釈放するつもりだった。

 ところが金貸しや聖職者はキリストを処刑しろと要求してくる。ピラトはその強硬さに辟易とし、わたしにはわからない、民衆に決めてもらおう、と言うのである。民衆なら支配者層とはちがってキリストとなんの利害関係もないから、無実の彼を釈放するだろうと考えていたのかもしれない。しかし金貸しや聖職者たちはあらかじめキリストの悪辣さを民衆に吹きこんでいたのである。扇動されていた彼らはピラトにむかってキリストの処刑を要求する。

 こうしてキリストはゴルゴダの丘で処刑される。

 本書においてはこの処刑の日の様子が延々と詳しく描かれている。ヴィクトリア朝末期に三巻本で出された作品だが、ほぼその半分はキリストの処刑の描写に費やされている。

 一八九五年に作者は「『バラバ』とその後」という評論をザ・アイドラーという雑誌に載せていて、それによると「バラバ」は出版されて一年ほどのあいだに十四版を重ね、ヨーロッパの六つの言語に翻訳され、パールシー語やヒンドゥスターニー語でも紹介されたという。驚くべき評判を取った作品である。

 いったいなにがそんなによかったのだろうか。

 正直に言ってこの作品には粗さが目だった。文章も冗長で、メロドラマがすぎている。とくにバラバの恋人(彼女はユダの妹になっている)は気が触れてからというもの、いやらしいほど感傷的な台詞を吐きまくっている。そして決定的と思われる欠点は、キリストやその母マリア、そして父のヨセフがあきれるほど平坦な描かれ方をしているということだ。まあ、コレーリにとっては彼女の神秘学の中核にある存在だから、それを立体的に描き出すのは至難の業なのだろう。どんな作家でも自分のファンタジーの中核に迫りすぎると、表現が凡庸になり失敗する。核心を狙った矢はかならずはずれるのだ。これが芸術の不思議なところだ。

 しかし欠点はあるけれども、確かに大衆の気を惹きそうな「美点」もある。一つはコレーリ一流のスペクタクル・シーンである。キリストが死ぬ瞬間にエルサレムは突然闇黒につつまれ、雷が鳴る。その劇的な変化は映画の一場面のように強烈だ。甦ったキリストが光につつまれてあらわれる場面も同様である。

 もう一つの「美点」はドラマチックであるという点だろう。これはバラバの改心に典型的にあらわれている。彼は卑俗な盗人なのだが、キリストを処刑や復活を目撃して彼の教えに服するようになる。コソ泥が敬虔な宗教人になるという、この振幅の大きさがコレーリの作品の特徴の一つである。このことは「ジスカ」を書評したときにも指摘した。

 こういう図柄の大きさが読者層に受けたのだろうか。

 ただ、彼女が伝統的なキリスト教信仰の持ち主かというとそうではない。たとえばコレーリは人間は死ぬのではなく、別の次元・世界へ移行するのだと考えている。十九世紀末といえば「神の死」が唱えられた時期だが、コレーリは「死の死」を唱える。しかしこれはそんなに奇抜なことではない。キリストの死(そして復活)によって、死という観念が死んだということは以前から言われている。コレーリが独特なのは「死の死」に輪廻思想をくっつける点だ。それゆえ魂はこの世で転生をくり返し、あるいは別の世界で生きつづけるのである。

 さらに次の点も注目すべきだと思う。コレーリは、この世で悪をなせば、死んでそれに決着がつくのではなく、罪を次の次元、次の世界へ持ち越すことになると考える。それは恐ろしいことであると、作者はバラバの恋人に言わせている。これはフロイトの強制反覆の世界ではないか。ある不快な体験が何度も何度も反覆される。死んでそこから逃れることができるならいいのだが、それは死んでも逃れられないような何かなのである。私は以前アルバート・バーグ氏の「難破船」という作品を訳させてもらったが、あれは強制反覆の格好の例である。(右にあるリンクから作品をダウンロードできます)コレーリが描く不死(undead)の世界は妙にリビディナルな世界ではないのか。

GiveUsBarabbas.png
Public Domain, Link