Wednesday, April 19, 2017

「マルクスと世界文学」 S.S.プラヴァー (その一)

Karl Marx and World Literature by S. S. Prawer

以前、マルクスの「神聖家族」に載っている「パリの秘密」批判を紹介した。たまたま Verso から出ている本書を見ていたら、「神聖家族」の内容を非常に簡潔に、見事にまとめた一章があったのでそこを紹介して補足としておきたい。

 「マルクスと世界文学」は序文にも書いてある通り、マルクスの文学理論をさらに展開させたものではなく、マルクスがそのときどきにおいて文学について語ったことを作者なりに整理したものである。とくに理論的に面白いということはないのだが、参考書としては抜群に有用性を持つ一冊と言える。

 ウジェーヌ・シューの「パリの秘密」は一八四二年から四三年にかけて分冊形式で発表され、大評判となった。セリガという批評家は新ヘーゲル学派の立場からこれを解釈し、賞賛する。マルクスは「神聖家族」において、まずセリガの生半可な観念論に批判を加え、かつ「パリの秘密」という作品それ自体の問題性も指摘する。

 プラヴァーはマルクスの議論を五つに分けて紹介している。まず第一の議論はセリガに対する反論である。これは八つの項目に整理できる。

 1 セリガは小説のエピソードを思弁的なヘーゲルの議論に合うように、ねじ曲げて理解している。
 2 セリガはパリを知らないため、小説の含意を誤解している。
 3 セリガは文学上の約束事に無知なため、舞踏会の場面などの意味を理解していない。
 4 セリガは小説のくだらない言い回しに、深遠な意味を見てしまっている。
 5 セリガは作者自身の人物解釈、出来事解釈を額面通りに取りすぎている。
 6 作者がみずからいう「この小説が持つ社会的目的」に対して充分、批判的距離を取っていない。
 7 セリガはこの小説の文学的価値を誇大評価している。
 8 セリガの文章は彼が明晰に考えることも、まともにドイツ語をあやつることもできないことを示している。

 じつに綺麗な整理だ。これを読んでわたしはデリダの脱構築に影響を受けた人々が、彼のまねをしてろくでもない文章を大量に書いたことを思い出す。はっきり言えば、デリダは読む価値がある。しかしエピゴーネンが書いたものには三文の価値もない。セリガがヘーゲルの知的レベルにはるかにおよばず、ただ猿まねの、ずさんな議論を展開したように、デリダのエピゴーネンどもも混乱した頭で勝手な熱を吹いていただけである。

 さて、マルクスの議論の二つ目に大切な点は、「作者シューが実際に書いていることと、彼が書いたと思っていることのあいだには、齟齬がある」ということである。わたしがなによりもマルクスの議論のなかで大切だと思い、ブログに書いたのはこの論点である。

 たとえば主人公のルドルフは立派な人格者として示されているが、話をよく読んでみるといい。とりわけ怪力を持つやくざ者、「校長」と綽名される男を捕まえて、罰を与えるために彼を失明させる場面を読むといい。彼は正義のためと言うが、じつは自分の勝手な、そして残忍な欲望を満足させているだけにすぎないのである。では、この物語がなぜ当時のブルジョアたちに受けたのか。それは一方で彼らの下劣な感情を満足させ、他方で道徳的な高揚をも味わわせることを可能にしたからである。

 この齟齬は「匕首」と「雛菊」にも見て取れる。すでにブログに書いたことだが、重要なので簡単に再説したい。「匕首」は「校長」と同じように怪力を持つやくざ者である。しかし「校長」は悪事にのめりこんでいるが、「匕首」は快男児である。ユーモアがあり、気っぷがよく、振る舞いは粗暴だが、己を律する立派な信条を持っている。ところが彼はルドルフの手によって植民地に送られ、そこで植民地をおびやかす外敵と戦うことになる。そして最後に国家の犬と成り下がって死んでいくのである。しかし作者は、「匕首」はやくざ者から国家のために尽くす人に変貌したと称揚するのだ。日本では「匕首」のような人間を「英霊」なんぞと呼んだりもする。(つづく)