Friday, April 14, 2017

「二つの世界のロマンス」 マリー・コレーリ

A Romance of Two Worlds (1886) by Marie Corelli (1855-1924)

 十九世紀世紀末の人気作家、マリー・コレーリの処女作である。いろいろな意味で彼女の資質がよくわかる作品だった。

話の内容は単純である。即興演奏を得意とする若い女性ピアニストが原因不明の体調不調に陥り、転地療養のためにフランスへ渡る。そこで医者でありかつ神秘家でもあるヘリオバスと出会い、彼の治療を受けるようになる。これが実に有効な治療で、彼女はたちまちのうちに健康を回復する。それだけではない。ヘリオバスは彼女に精神世界の存在を教えるのである。彼女は薬物の使用により今まで知らなかった世界へとおもむく。彼女は幻の中で地球の外に出、火星の世界、木星の世界、そして輝かしい光のリングの世界、神の世界を知り、彼女の守護神に会う……。

 表題の「二つの世界」というのは、現実の世界とこの精神世界のことを言うのだろう。なにか小説らしく最後のほうで物語が盛りあがるのかというと、そんなことはない。たんたんとピアニストが彼女の身に起きたことを語るだけで、神秘家である医者の美しい医者の妹が雷に打たれて死んでしまい、葬式のあと、ピアニストと別れる場面で物語は終わってしまう。ただ、ピアニストが神秘体験をしながら、精神世界についていろいろな知識を手に入れる。そこが読みどころと言えば読みどころであろう。

「二つの世界」挿絵
たとえば、魚の中には電気をつくり出すものがあるが、人間にもそれが可能であると神秘家のヘリオバスは言う。そしてキリストやモーゼもそうした電気をあやつる能力を持っていたのだそうだ。マリー・コレーリはキリスト教を擁護するけれども、彼女の考えるキリスト教は伝統的なそれではない。あきらかにそれ以外の、雑多な要素を取り込んだ、いわばニューエイジ的キリスト教である。

 マリー・コレーリは「分析的」な態度を批判するけれど、それもニューエイジ的思考と関係しているのだろう。ニューエイジ的思考は「総合」を目ざすからである。それはいちいち分析し、理屈をこねることよりも、一気に対象を感得しようとする。それゆえ彼女の作品においては科学的な態度がよく批判されることになる。

 わたし自身はニューエイジ的な思考に対して批判的で、たとえばノンセンスを分析的知性の産物と見なし、それに詩という総合する力を相対させるエリザベス・シェーエルの議論などもだめだと思っている。こんな単純な対立図式では現実をとらえることができない。連続と不連続、一と多、不変と変化、統一性と多様性、こうした対立は哲学においても数学においても科学においても必ずパラドックスを構成する。わたしは決してラカン派ではないけれど、しかしいまのところ、人文科学の分野でこのパラドックスをもっともうまく説明できるのはラカンの議論なのである。

 話がそれたが、マリー・コレーリがニューエイジ的な考えを持っていたということは本書を読んでよくわかった。そういえば「悪魔の悲しみ」の中で、彼女はブラヴァツキー夫人の名前を出していたはず。十九世紀の世紀末にブラヴァツキー夫人は「秘密の原理」という本を書いて近代的な神智学の礎を築いたが、ニューエイジというのはその末流である。だんだんとマリー・コレーリの想像力がなにに由来するものなか、見えてきたような気がする。おそらくこの神秘的な想像力が彼女の人気の秘密の一端なのだろうし、彼女が嫌われた理由でもあるのだろう。