Tuesday, March 7, 2017

「神聖家族」 マルクス・エンゲルス (その二)

 マルクスは雛菊の宗教教育の過程を丁寧に追い分析しているが、ここでは一気にその最後に向かおう。要するに彼女は生活者としての現実感覚を失い、「この世ならぬ」態度を取るようになる。そのきわめつけは現実との関わりをまったく絶つことである。そう、彼女は修道院に入り、そこの尼院長に昇進する。しかし彼女はそこで死んでしまうのである。マルクスはこう書いている。
 修道院生活はマリ(雛菊のこと)の個性にふさわしくない――彼女は死ぬ。キリスト教は彼女を想像のなかでなぐさめるだけである。あるいは、彼女のキリスト教的なぐさめは、まさに彼女の現実の生活と本質の絶滅――すなわち彼女の死なのである。
雛菊の死が、彼女の個性の死とともに訪れるという解釈は充分な説得力がある。冒頭の、華奢でありながらも溌剌として、それなりに力強い存在であった彼女は、物語が進むに連れて、なにやら衰弱していくような印象を与える。それを彼女の宗教教育と結びつけて考えるのは当然だろうが、マルクスはそのことをじつに理路整然と、段階を負って説明している。

 マルクスは同様の分析を「匕首」に対しても行っている。彼は野育ちのやくざ者だが、ルドルフの教育によって改造され、「くいあらための生きた、ためになる実例として、なかなか信じたがらない世間の見せ物にするために」(「パリの秘密」からの引用)匕首はアフリカに送られる。そこで彼はイギリス植民地を襲う現地人と戦うのだ。彼はイギリス帝国主義の犬となる。西欧世界のキリスト教の教義を示さなければならなくなる。こうした改造のきわめつけの結果は彼の最後の場面に示される。匕首はルドルフの身代わりになって刺殺されるのだが、彼は「純粋な献身と、道徳的ブルドッグ主義の生涯をりっぱにおえた」(「神聖家族」からの引用)のだ。虫の息の匕首はルドルフにこう言う。「私みたいなミミズのようなものでも、あなた様のようなえらい殿下のお役にたつことも、たまにはあるものだといってようございましょうね」彼は犬のように屈従的な存在になってしまっていた。これがルドルフの教育の結果である。

 私はアルチュセールのメロドラマ批判を紹介したとき、「外から借りてこられた意識」という考え方について説明したけれど、雛菊にとっても匕首にとってもブルジョア的な信仰心・道徳心は、まさしく外部の意識である。

 ルドルフは最下層の人間であっても見どころのある人間はこのように「教育」をほどこして助ける(結局は殺されるようなものだけど)。そして悪者を成敗する。今度は成敗の場面に着目してみよう。そこにはおそるべき「すりかえ」や「ごまかし」が見られる。

 しかしその前に、そもそもなぜルドルフは慈善を施すのか、マルクスがその理由をえぐり出しているのでそこを確認しておこう。ちょっと長いが引用する。
貧困は、慈善家に「小説のピリッとしたところ、好奇心の満足、冒険、変装、自分の優秀さをたのしむこと、神経の激動」その他をあてがうために、意識的に逆用される。
 これによってルドルフは、人間的貧困そのものが、施しものをもらわねばならぬような無限の棄却が、金と教養をもった貴族のあそびとして、彼らの自愛をまんぞくさせるために、彼らの傲慢心をくすぐるために、彼らのなぐさみのために役だたねばならぬという、ずっと前から暴露されていた秘密を、それと知らずに公言したのである。
 ドイツのたくさんの慈善協会、フランスのたくさんの慈善団体、イギリスの多数のドンキホーテ的空想の慈善会、音楽会、舞踏会、演劇、貧民給食、それから災害者のための公共募金にいたるまでが、それ以外の意味をもつものではない。つまり、このようにして慈善も、ずっとむかしからたのしみとして組織されたのであろう。
要するにルドルフは心から貧困という「無限の棄却」のなかにある人々を憐れんで彼らを助けようとするのではない。そうする過程において小説的で刺激的な冒険を楽しみ、自分の立場の優越性を感じ、味わおうとしているのである。逆に言えば、施しものをする側は自己満足につながらない慈善などはしないということだ。実際にそのような偽善的な例が「パリの秘密」のなかにはちゃんと出てくる。