Friday, November 18, 2016

「白髪鬼」 黒岩涙香作

「白髪鬼」(1894)  黒岩涙香(1862-1920)作

 涙香は好きで一時期ずいぶん読んだが、今はもうすっかり忘れてしまった。「白髪鬼」も読んだけれど、内容はこれっぽっちもおぼえていなかった。しかしこれが「ジスカ」の作者マリー・コレーリの作品の翻案であることを知り、読み返すことにしたのである。原作のほうはまだ読んでいない。

 これは男二人と女一人の愛憎関係のもつれから、男の一人が残りの二人に復讐するという話だ。もうちょっとくわしく言おう。主人公にして本編の語り手であるのはイタリアはネープルの伯爵波漂(はぴょ)。彼には同じ学校を卒業した魏堂(ぎどう)という親友がいた。波漂は女に興味を持たない朴念仁で、魏堂は女遊びが大好きという、性格の違いはあるが、ふたりはひどく仲がよかった。しかし朴念仁というのはいったん恋をすると一途になって、一気に結婚までしてしまうことがあるけれど、波漂もこの例にもれず、零落貴族の娘那稲(ないな)に恋をし、このイタリア一の美人をあっという間に妻にしてしまった。

 魏堂は波漂に「きみは幸運な男だ」などと言いながら、毎日のように彼の家を訪ねてくる。もうおわかりだろうけれど、彼は波漂の妻、那稲に会いに来ていたのである。那稲も魏堂を憎からず思い、二人は波漂に隠れていちゃいちゃしていた。

 ところが朴念仁の波漂はそんなこととは露知らず、自分は美しい妻を得、友情に厚い友も持っているとしごく満足していた。

 さてこの当時ネープルにはコレラが蔓延していた。そして波漂もこの死の病にかかって亡くなり、遺体を一族の納骨所に納められる。ところが……ところが、である。彼は納骨所のなかで生き返ったのだ。そしてこっそり自分の屋敷に帰ってみると、自分が死んだばかりだというのに、那稲は魏堂と逢い引きし、波漂がいなくなってよかったなどと言っているではないか。隠れて二人の会話を聞いた波漂はイタリア人らしく復讐を思い立つ。

原作を読まないとわからないが、マリー・コレーリらしさはこの翻案からも伝わってくる。彼女は物質主義、拝金主義、神を否定する科学主義、しなびて青ざめ、生気を失った貴族階級のアンニュイに嫌気がさしていて、強烈な情熱のほとばしりを求めている。そうした情熱の一端をラテン系の人々の心の中に見出したのだろう。原作の表題は「ヴェンデッタ」。「リベンジ」なんてしょぼくれた冷たい単語じゃない。血管の中で血がたぎるような「ヴェンデッタ」である。

 私はこれを読みながら二つのことを考えた。メロドラマのもっともすぐれた研究書といえばピーター・ブルックスの「メロドラマ的想像力」だが、その中にメロドラマというジャンルが大文字の「聖なるもの」が消えてしまったあとに出てきたジャンルであるという指摘がある。具体的な歴史的事件で言えばフランスの革命以後に出現したということになる。十九世紀の世紀末というのは「神は死んだ」という言説がファッションとしてはやり、精神的なものがいっさいおとしめられ、とりわけ上流階級にデカダンな雰囲気が漂っていたのだから「聖なるもの」の権威が地に落ち、地中にもぐってしまったような時期である。こういう時期に「聖なるもの」の代替物を、ちんけな現実のアンチテーゼとして提出したのがマリー・コレーリということになるのじゃないだろうか。こんなことを考え出すとアンソニー・トロロープの The Way We Live Now なんかもこれに関係してきそうだなあ、とか、オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」も読み返したほうがいいかな、とか、読書リストがどんどん増えていく。

 もう一つ考えたのは「白髪鬼」がシェイクスピアの「冬物語」と似たところがある、ということだ。「冬物語」には子供のときから仲よく育てられてきた二人の王様が出てくる。一方の王様は結婚しているのだが、彼はふと「妻と友人は不倫をしているのではないか」という疑惑にとらわれるのだ。嫉妬にかられたこの王様は友人を捕まえようとし(もっとも友人は事前に連絡を受け、命からがら自分の国に逃げ延びる)、妻を監禁する。しかし王様の疑いは病的な嫉妬にすぎず、妻は彼にたいして貞節をつくしていたのである。それなのに一時の怒りに身を委せ、友人も妻も否定した王様は、息子を亡くし、娘も失い、その王国は時間が流れなくなったかのように、永遠の冬に閉ざされてしまう。

 「冬物語」の妻は貞節であったことが証明されたから、国王はのちにくいあらためるのだが、もしも彼女が不貞をはたらいていたとしたら、「白髪鬼」の主人公とおなじように復讐の鬼と化していただろう。この二つの物語は雰囲気がまるで違うようだが、じつはよく似ている。

 もう一つ、メモがわりに書いておく。仲のいい二人の男と一方の妻という三者のあいだに三角関係が生じるとき、それはじつは父―母―子の三者のあいだに発生する、エディプス的な葛藤をあらわしている。これは非常に面白い問題なのだが、くわしい話は別の機会にしようと思う。