Friday, November 11, 2016

「黒い目のスーザン」 ダグラス・フェロルド作

Black-Eyed Susan (1829) by Douglas Ferrold (1803-1857)

 三幕もののドラマ。スーザンは黒い目をした美しい女性だが、彼女の夫ウィリアムはイギリス海軍の船乗りとして長い間、海に出ている。スーザンはドッググラスという伯父の貸家に住んでいるのだが、このドッググラスというのが人情のかけらもない男で、きびしくスーザンから家賃を取り立てようとする。そして払えないとなると家具を持っていってしまう。

 さらにこのドラマにはもう一人の悪党がいる。ハチェットという男だ。こいつはドッググラスに、きびしく家賃を取り立てろともちかける。そこでスーザンに金を渡せば、彼女は自分に感謝し、好意を抱くだろう。さらに彼女の夫ウィリアムは海に出ている間に死んだと嘘の話をして、彼女を自分のものにしてしまおうと考えているのだ。

 若い美しい娘がいじめられ、奸計のえじきになりそうになるというこの展開を読みながら、私は水戸黄門を描いた日本の長寿ドラマを思い出した。国も文化もまるで違うけれど、善悪のわかりやすい対立構図の上にのっかっていて、物語の雰囲気はそっくりなのだ。

 もちろんドッググラスとハチェットの悪巧みは失敗に終わるし、前者は海に落ちて死んでしまい、後者は密輸入の罪で官憲に逮捕される。そしてスーザンにとってうれしいことにウィリアムが航海から戻ってくる。

 しかしここで最後の悲劇が生じる。ウィリアムの上官にクロスツリーという男がいるのだが、この男が酔っ払って酒場でスーザンにからんだのである。そこにウィリアムがあらわれ、男が上司であることに気づかぬまま、棒でぶんなぐり、生死の境をさまようような大けがをさせてしまったのだ。ウィリアムは軍法会議にかけられる。そして上官を襲った場合は死刑という規則に従って彼は死ぬことになる。ここからウィリアムとスーザンの愁嘆場が繰り広げられることになるのだが、しかしもちろん最後には彼は死刑を免除されてハッピーエンドを迎える。


 死刑を免除される過程がいかにもメロドラマらしいご都合主義的な筋の展開を示しているので、ちょっとくわしく書いておこう。クロスツリーは意識を取り戻したとき「暴行が起きたとき、私はウィリアムの上官ではなかったし、ウィリアムは私の下士官ではなかった。それゆえ規則に従ってウィリアムを処罰することはできない」という内容のメモを書く。酔っ払ったときは助平になったり、羽目を外したりするが、本質的に彼は真面目なイギリス海軍士官なのである。ところが彼はドッグツリーをメッセンジャーに選び、彼にメモを託してしまったのである。ウィリアムが嫌いなドッグツリーがこのメモを渡すわけがない。箱に入れてポケットにしまい込んでしまった。ところがドッグツリーは海上で行われた軍法会議を市民たちと見物しているときに、ふと足を滑らせて海に落ち、そのまま行方不明になる。もちろんポケットに入れたメモも彼とともに消えてしまうのだ。

 それがどうだろう。死刑執行の直前になって彼の死体が浮かび上がり、ポケットから上官のメモが発見され、ウィリアムは一命を取り留めるという運びになるのだ。

 ドッグツリーとハチェットの悪巧みと、後半で展開するウィリアムの上官に対する暴行事件はいささかつながりにスムーズさを欠いているような気がするが、しかしそんなことはどうでもいいのだろう。美しい善良なスーザンと、男気のある彼女の夫が幸せになれるかどうか、その物語を、読者をはらはらどきどきさせながら展開してみせるのがこの劇の主眼なのである。

 登場人物は貴族でも王侯でもない、平民である。そして勧善懲悪の観念に支配された世界が繰り広げられる。