Saturday, December 3, 2016

「マルクスのために」 ルイ・アルチュセール (その1)

For Marx (1965) by Louis Althusser (1918-1990)

 「マルクスのために」を全編読んだわけではなく、ベルトラッチとブレヒトを論じた章のみを読んだ。ベルトラッチは十九世紀後半に活躍したミラノの劇作家である。彼が書いた El Nost Milan が1962年七月にピッコロ劇場で上演されのだが、あまり評判はよくなかった。アルチュセールはそれに反論し、この劇の見逃されている真価について議論している。

 El Nost Milan は残念ながらテキストが手に入らなかった。なのでアルチュセールのまとめを利用して、その内容を推測するしかない。

 この劇は全部で三幕。いずれの幕も1890年代のミランの貧民街の様子が延々と描かれ、最後のほうでちょこっと事件が起きる。

 第一幕は霧の濃い秋の日に貧民街でお祭りが開かれている。職にあぶれた人々、こじき、売春婦、すり、金が落ちてないかとうろつく老人、警官がぞろぞろと歩いている。彼らはなにかが起きることを待っているが、なにも起きない。そして最後のほうで小さな事件が描かれる。ニーナという女の子がサーカスのテントの裂け目から道化師の危険な曲芸を見ている。そこへトガッソというヤクザ者がやってきて、彼女を誘惑しようとする。彼女はそれをはねつける。そこへ彼女の父親「火食い奇術師」がやってきて、どうやら「娘に手を出すとどうなるかわかっているだろうな」などとトガッソを脅したようだ。

ルイ・アルチュセール
第二幕は安い食堂の広々とした店内で繰り広げられる。時間は真っ昼間。ここでも貧しい人々がぞろぞろと出入りする。彼らは食べ、待つが、なにも起きない。そしてやはり最後になって小さな事件が描かれる。食堂にニーナがあらわれ、彼女は道化師が死んだことを聞く。さらに人々がいなくなったころにトガッソがあらわれ、ニーナに無理矢理キスをし、金をくれというのだ。すぐにニーナの父親が登場し、トガッソと格闘になり、トガッソをナイフで殺し逃走する。

 第三幕は女性に一晩の宿を貸す避難所で繰り広げられる。時刻は夜明け。壁にもたれかかったり、座ったり、おしゃべりしたり、黙ったままの女たち。ミサの鐘が鳴り人々がいなくなると、また小さなドラマが起きる。ニーナはこの避難所で寝ていたのだが、そこに父親がやってくる。彼は牢屋に入れられる前に娘に会いに来たのだ。彼はこう言う。「おれはお前のために彼を殺したのだ。お前の名誉を守るために」ところがニーナは父親を見て、彼が彼女に与えてきた幻想と嘘を否定する。彼女は言う。トガッソは正しかったのだ。私はこの夜と貧困に包まれた場所を去り、快楽と金の支配する世界へ行く。身体を売らなければならないだろうが、その代償をはらっても自由と真実の側へ行く、と。父親は去り、ニーナは日の光のなかへ出ていく。

 さて、この劇は新聞などの評価によるとおセンチなメロドラマということらしいが、アルチュセールは、この劇こそおセンチなメロドラマを批判した劇なのであると主張する。ニーナが父親を否定してもう一つの世界のほうへ出ていくという場面にそれはあらわれている。実際の劇を読んでないので、父親が娘にどんなことを話したのかわからないが、とにかくアルチュセールのまとめによると、父親は娘のために「想像的な状況」をつくりだし、彼女のロマンチックな幻想を助長しようとした。彼は娘の心に幻想を与え、それをはぐくみ、かつそれに血と肉を与えようと必死になったのだそうだ。そうやって外部の世界から彼女を守ろうとした。トガッソにあらわされるような外部の悪から彼女を守ろうとしたのである。この父親こそまさしくメロドラマのイメージそのものなのではないか、とアルチュセールは言う。そしてニーナが否定するのは父親が無意識のうちにつむぎだしている想像的な、モラリスチックな世界だ。彼女は父親の無意識的な観念が繭のように取り囲む世界に住んでいたが、道化師の死や父親の暴力をきっかけにして、現実の世界を意識するようになったのである。

 「想像的な状況」とはわかりにくい用語だが、原発事故を思い出せば多少は理解されるだろう。いわゆる原子力村の人々は現実を見ずに、「想像的な状況」を生きており、それをわれわれにまで信じさせようとしていたではないか。ニーナの父親もおなじことをしていたのである。

 ヴィクトリア朝期、あるいは二十世紀前半のジャンル小説を読んでいると、幽霊や怪物の存在を信じている人がずいぶんと出てくる。前のブログでも相当数そんな作品を取りあげた。彼らもある種の「想像的な状況」に閉ざされた人々である。

 私がアルチュセールの批評を読んで面白いと思ったのは、ニーナがこの想像的な状況の外に出るという点である。メロドラマという形式を脱却して成立した近代的なミステリにおいては、探偵は事件=ドラマの外に立つ。メロドラマを否定したドラマ El Nost Milan においても主人公は父親のつむぎだす「想像的な状況」の外に出る。外に出ることによって今までその内部にいた状況を批判的に見ることができるようになる。(つづく)