Tuesday, December 13, 2016

「マルクスのために」 ルイ・アルチュセール (その3)

For Marx (1965) by Louis Althusser (1918-1990)

 El Nost Milan はメロドラマの世界と現実の世界が対立している劇である。その対立はなにも起きない長い空虚な時間と、電光石火のように事件が起きる短い充実した時間の対立となってあらわれている。この二つの相容れない時間は、劇に亀裂を走らせている。

 後者の短い充実した時間は、なぜ長い空虚な時間のあとに、しかもほとんどの人間が消えてしまったあとの舞台上で展開されるのだろうか。アルチュセールは面白いことを言っている。

 長い空虚な時間、それはメロドラマの時間であり、具体的にはニーナの父親の時間である。父親はニーナに幻想を与えて、その球体世界のなかに包み込み、外部から彼女を守ろうとした。長い空虚な時間は、この球体世界の時間、父親の意識の時間なのである。

 それに対して短い充実した時間は、覚醒したニーナの時間である。彼女は父親が教える世界が虚構であることを知る。そして現実世界、お金が支配する世界へ出ていくのだ。つまり短い時間は「気づき」の時間なのである。

 「気づき」の時間は当然、気づかない時間のあとに来る。しかも舞台から人がいなくなったときに。アルチュセールはマルキストらしく「意識は遅れるのだ」と言う。そう、ミネルヴァのふくろうはたそがれに飛ぶ、というわけだ。

 この解釈が正しいのかどうなのか、私は判断を保留したい。なにしろ原作を読んでいないし、それに……ちょっと理論が上滑りしているような感じがする。

 それはともかく、劇の構造にある種の亀裂が走っているという点は非常に参考になる。ミステリにおいても事件の渦中にある人物たちと、事件を外部から徴候として見る探偵とのあいだには亀裂が生じているのだ。

 アルチュセールは El Nost Milan の分析を終えると、今度はブレヒトの劇について話を敷衍する。しかしここは話が一般的すぎてあまり面白くない。要するに古典的な劇は単一の意識に支配される物語になっているが、ブレヒトの劇は El Nost Milan のように分裂した意識をかかえている。それゆえ観客は単純に中心人物に同化することはできない、ということが言いたいだけだ。私はブレヒトの劇の解釈としてはつまらないと思う。それゆえこの部分をいちいち紹介することはしない。

 メロドラマを読んでいると、たしかに意識の球体、あるいはイデオロギーの球体のなかに閉ざされている、という感じがする。マルクスはそれをもって「パリの秘密」を批判しているようだ。このことは非常に重要である。メロドラマのなかではさまざまな対立が生じるようだが、それは贋の対立である。それは解消されることを前提としている、いわば出来レースのような対立に過ぎない。意識は、その意識の内部において、意識を越え出る契機を生み出すことができない。それゆえ意識の内部において真の弁証法は生じないのである。意識はしかしラディカルな他者に事故的にぶつかることがある。そのような事故的なぶつかりが、どうも十九世紀の終わり頃からあちらこちらで描かれるようになってきたような気がするのだが……。まあ、このブログを書くあいだ、私はそんなことに留意しながらいろいろと作品を読んでいこうと思っているのだ。