Wednesday, December 7, 2016

「マルクスのために」 ルイ・アルチュセール (その2)

For Marx (1965) by Louis Althusser (1918-1990)

 El Nost Milan はメロドラマと現実世界が対立している劇である。もちろんここで、想像的な状況に決定的に対立するような「現実」などというものが本当にあるのかどうかと問うことはできる。どのような現実もじつは想像的な状況に過ぎないのではないか。ニーナはメロドラマから現実世界に出ていくというが、それは資本主義というべつの想像的状況に出ていくということではないのか。結局、外部と言っても相対的なものでしかないのではないか。そういう疑問は当然だけれども、ここではあえて無視しよう。この問題についてアルチュセールがつっこんだ議論をしていないにしろ、この論文は充分に面白く読めるし参考になる。

 さてもう一度くりかえそう。El Nost Milan はメロドラマと現実世界が対立している劇である。この対立は劇の内部に裂け目をつくっていて、それは二つの異なる時間となってあらわれている。粗筋を示したときに指摘したように、この劇においてはどの幕においても最初延々と貧民街の様子が描き出され、最後のほうで稲妻のように出来事が起きる。貧民街の様子が描き出されるところでは、なにも起きない。そこにあるのは空虚な時間だ。これに対してそれぞれの幕の最後で起きる短い出来事、それは充実した、ドラマチックな時間である。これこそ弁証法的な時間だ、とアルチュセールは言う。

 この劇に深みを与えているのはこの二つの時間の対立だ。つまりなにも起きず、行為へとむかう内的推進力を持たない時間と、稲妻のように一瞬生じるだけだが、充実した、ドラマチックな、弁証法的に展開していく時間の対立。これがじつはメロドラマ的な時間と、現実世界の時間の対立なのである。

 ここからアルチュセールは面白い議論を展開する。ちょっと難しいが、まるでわからないということはないので、すこし辛抱して読んでもらおう。メロドラマ的な時間はなぜ非弁証法的であり、なにも起きないのだろうか。アルチュセールはマルクスが「神聖家族」のなかでユージーン・スーの「パリの秘密」(これまた代表的なメロドラマだ)について議論しているところを引きながらこう言う。メロドラマに出てくる人物たちの行動を根本的に規定しているのは、じつはブルジョア的な道徳観なのである。不幸な人々が不幸な人生を生きている。しかし彼らは彼らの状況をありのままに見ているのではなく、ブルジョア的な宗教意識、道徳意識を通して見ているのである。そう、彼らは外から借りてきた意識で自分たちの現実の状況を見ている、いや、現実の状況を見えなくしてしまっているといったほうが正確だろう。メロドラマ的な意識と登場人物の生のあいだには矛盾が存在しない。メロドラマ的な意識は単に外から借りてこられたものにすぎず、もともと彼らの生と弁証法的な関係を結んでいないのだから。メロドラマ的な意識のなかにあるかぎり弁証法は作動しない。だから劇のメロドラマ的な時間帯においてはなにも起きないのだ。

 ここは非常に示唆に富む部分だ。私はまだスーの「パリの秘密」を読んでいないが、これを読んで是非とも一読しようと決意した。あれは膨大な小説なので読み終わるのにかなりの時間がかかるだろうが。さらにマルクスの「神聖家族」も読んでおかなければならない。またメロドラマの意識が外から借りてこられた意識であるという点も参考になる。貧乏人のなかには実に敬虔におのれの貧乏という現実を堪え忍ぼうとする人がいるけれども、その敬虔さは彼らを支配しているブルジョア階級の意識ではないか。現在の日本に例を取ろう。たとえばよい仕事が見つからず、派遣として苦しい生活を送っている人々がいる。そのなかには自分がよい仕事にありつけないのは自分に仕事のスキルがないからだ、自分に強いメンタルがないからだ、などと考えている人がいる。そのような考え方こそ「外から借りてこられた意識」なのである。

 メロドラマの意識は非弁証法的であるとアルチュセールは言う。しかしメロドラマにおいてもさまざまな対立が生じるではないかと反論する向きもあるだろう。たしかにそうだ。しかしそれは真の意味での弁証法的対立だろうか。私もはっきりと断言はできないが、そのような対立は予定調和的な、見せかけだけの、偽物の対立であるような気がする。それはメロドラマという意識の内部のドラマであって、メロドラマ的意識という球体そのものを破砕するものではないのではないか。この点はメロドラマをいろいろ読みながら点検していかなくてはならない。(つづく)