Wednesday, June 28, 2017

谷崎潤一郎「或る調書の一節」

谷崎潤一郎「或る調書の一節」(1921)

 最初読んだときはなにを言おうとしているのか、さっぱりわからなかった。ただ妙に気になって、忘れることができなかった短編小説である。パラドキシカルな「信」の構造を描いているのだ(説明しているのだ)と気づいてから、何回か読み返してみた。いま訳している「悪魔の悲しみ」とも主題的に関係がある作品なので、簡単に話をまとめておこう。もっともごくごく短い作品なので自分で読んだほうが早いかもしれないけど。

 この短編はAとB、二人の会話という形で進行する。Aは警察の取調官、Bは犯罪者である土工の頭だ。Bは結構収入があるのに、家の外に女を作り、賭博、窃盗、強姦、殺人と悪事の限りを尽くしている。彼は「私は一生悪いことは止められません。私は善人になれたにしてもなりたいとは思わないのです。悪い事をする方がどうも面白いのです」という。

 ところがBに罪の意識がまるでないかというと、あるのである。彼には女房がいて、彼が罪を犯すたびに

、「どうか自首してください」とか「何卒改心してください」とか「真人間になって下さい」と言って、ぽろぽろと涙をこぼす。それを聞くとBはなんとなく「しんみりした気持」になって自分も泣いてしまう。「胸の中がきれいに洗い清められるような気になる」。
 ここで注意すべきは、彼には本気で改心する気などないという点だ。彼は「後悔したって始まらないと思います」と言っている。それにもかかわらず、女房が泣いていさめると、「ただその時だけちょいと好い気持がする」のである。そしてこれがやめられないのだ。

 Bが徹底して悪事を働く人間なら、なぜ犯罪を犯すたびに女房を泣かせ、「胸の中がきれいに洗い清められるような気持」を求めようとするのか。

 もう一つBにはおかしなところがある。彼は女房をかわいげのある女とは見ていない。「器量もよくはありませんし、色が黒くって、鼻が低くって、体つきにもお杉(Bの愛人)のような意気な婀娜っぽいところがちっともなくって、物の言いっ節なんぞがイヤに几帳面で、不細工で、私は不断はあんな味もそっけもない女はないと思って」いる。しかしそれにもかかわらず、彼は女房と別れることができない。「犬猫同様に扱われて」いる彼女が「非常に必要な人間」なのである。

 取調官は彼と女房の奇妙な関係に気づき、この点をしつこく追求する。しかし追求しても明快で一貫した説明は出てこない。

 われわれがBの釈明に一貫した説明を与えようとするなら二つのパラドクスを組み合わせなければならない。まず一つパラドクスは、悪事に快楽を覚えるためには最低限の罪の意識がなければならないということだ。悪事にふける人間には罪の意識がないというのは嘘である。罪の意識がなければ悪事の快楽もない。これは精神分析のイロハである。

 第二のパラドクスは、罪の意識は悪事を働く者の内部ではなく、外部にあってもよい、ということだ。これはちょっと聞くと異常なことのように思えるが、Bと女房の関係はそうとらえるしかない。女房はBの外部化された罪の意識なのである。

 Bが悪事に快楽を覚えるには女房の罪の意識が必要だ。それがなければすでに言ったように悪事の快楽すらなくなる。女房はBの「代わりに」罪を悔いる。Bは罪の意識を自分から追い出し、女房という形で外在化することで、より効率的に快楽にふけることができるのだろう。

 しかし意識が外部化されるとはどういうことだろう。自分の意識と自分とのあいだにある種の境界線が引かれることだ。この境界線は二重のはたらきをする。接続すると共に、切断するのである。自分の意識の一部であるから、それが外部に置かれようとそれは自分のものである。その意味で境界線は接続の役割を果たす。しかしそれは自分とは別物であることを示すサインでもある。この二重性がBの妻に対する態度となってあらわれる。Bにとって妻はまったくどうでもいい他者、犬猫同然に扱いうる、自分には意味のない存在であり、同時に彼女は自分そのものであり、「非常に必要な人間」でもある。この関係が取調官をとまどわせるのだ。

 意識の外部化の構造という点から見る限り、Bとその妻を二項対立的に考えるのは間違いである。妻はBの一部が外化されたものにすぎないからである。そしてこれが父権的なものの構造なのだと思う。

 内部が外部化される物語はほかにもあるはずだ。まずは新しい全集も出たことだし、谷崎を読み返そうかと思っている。