Friday, June 23, 2017

「かわいい娘」ディオン・ブーシコー作

The Colleen Bawn (1860) by Dion Boucicault (1822-1890)

 イギリス十九世紀の文学作品には、よく秘密結婚の話がでてくる。領主の息子などが若気の至りで身分の低い女と結婚式をあげてしまう。しかしそのことを公にするとスキャンダルになるので、親にも誰にも告げず、今まで通り普通に自分の家で生活しながら、こっそり家族の目を盗んで妻の家にかようのだ。ところが、縁談がもちあがって、二重結婚せざるをえない羽目に陥ることがある。両親の経済的な事情から、どうしても金持ちの令嬢と一緒にならざるを得ない、なんてことは実際にあったらしい。しかし事情はどうあれ、最初の結婚を解消しない限りは、二回目の結婚は法律的には無効となる。二人目の妻とのあいだに子供ができたとしても、彼らは私生児というわけだ。

 私は以前、「雲形紋章」という、イギリスではマニアックな人気のある作品を訳したことがあるが、これも秘密結婚を扱った物語である。現実にこういう事例がどれだけあったのかは知らないが、文学ではよく取りあげられるようだ。「かわいい娘」のヒーローとヒロインも秘密結婚をしている。

 この作品は名前だけはよく知っていたが、読んだことはなかった。そして一読して、なるほどこれはメロドラマの最たるものだと思った。主人公たちが窮地に陥り、ちょっと信じられないような偶然に助けられて、そこから一気に抜け出す。劇の最後、善玉は仕合わせになり、悪玉はこらしめられる。この唖然とするほど凡庸な終わり方も、じつにメロドラマらしい。
作者プーシコー

 アイルランドの地主クリーガンは母親に黙って教養のない農家の娘アイリーと結婚する。彼らは夜になると光を使って合図をかわし、こっそりアイリーの家で密会している。

 一方、母親は息子を金持ちの娘アンと結婚させたがっている。というのは一家が経済的苦境に陥り、その地方の行政長官コリガンに大きな借金をしているからである。その借金を返すためにはどうしてもアンの家の金銭的な助力が必要なのだ。

 ある日この行政長官のコリガンがやってきて、借金を返してくれと母親に言う。もしも返せないなら、おれと結婚してくれないか、とおかしなことまで言いはじめた。母親はもちろんコリガンとなど結婚したくないし、彼女の息子も母親の再婚には大反対である。

 これでドラマの舞台はできあがったわけだが、このあとは説明しようとすると非常にややこしい。登場人物の思惑がさまざまに入り乱れ、いろいろな勘違いがその過程で生じていくからである。それを無理矢理簡単に言うと、まずクリーガンの忠実な召使いがアイリーを殺そうとする。アイリーが死ねばクリーガンはアンと結婚できると考えたのである。しかしアイリーは危ないところを助けられ、ひそかにとある小屋で介抱される。しかし人々はアイリーが殺されたものと思ってしまう。行政長官のコリガンは、アイリーを殺したのはクリーガンだと考え、兵士を連れてクリーガンとアンの結婚式に乗り込み、彼を逮捕しようとする。ところがここですべての真実が明かされ、クリーガンは逮捕をのがれ、命を助けられたアイリーと暮らしていくことを決心する。またアンはクリーガン家の借金を肩代わりしてやり、彼女を慕うべつの男と一緒になることにする。

 三幕の芝居だけれど結構ボリュームがあって、いろいろな事件が展開される。そのいずれもがいかにもメロドラマらしいのだ。登場人物の類型性、事件に対する彼らの反応のある種の単純さ、現実的ではない(いわゆるメロドラマチックな)事件の進展。馬鹿馬鹿しいと言えば馬鹿馬鹿しい劇だが、逆にこういう作品には問題性を感じてしまう。このドラマの始点となる設定、地主階級の没落は、非常に現実的な状況を示している。しかしその没落が回避される過程はメロドラマという非現実的な展開を示す。ここにはなにかを隠蔽し、無理矢理表面を取り繕ろおうとする力がはたらいているように感じられる。

 ウィキペディアによると、この作品は現実の事件がもとになっているらしい。ジョン・スキャニオンという男が十五才の少女エレンと結婚するのだが、彼女が家族には受け入れられないことがわかるや、ジョンは召使いに命じて彼女を殺させるのである。そして現実の事件では本当にエレンは殺され、のちにジョンも召使いも捕まれて絞首刑になっている。こういう陰惨な事件をある種のハッピーエンドに変えていくメロドラマは、現実の亀裂を糊塗するという、イデオロギー的な機能を持たされているのではないか。そういう意味ではこれは案外興味深い劇になっていると思う。