Friday, June 2, 2017

近況報告(その三)

 近況報告というより「悪魔の悲しみ」に関する議論のようになってしまった。これなら粗筋を最初に紹介すればよかった。テーマを決めずにぼんやりと、思いついたことを書こうとしたのが間違いだった。申し訳ない。
ミルトン作「失楽園」の挿絵から

 「悪魔の悲しみ」はファウスト伝説の変形である。悪魔が人間を訪れ、おまえの欲望をかなえてやろう、しかしあとでおまえの魂をいただくぞ、と言う。人間はその条件を呑んで、金持ちになったり、世界一の美女と結婚したりする。この話はマーロウの「ファウスト博士」、ゲーテの「ファウスト」、ブルガコフの「巨匠とマルガリータ」といった傑作の骨格を形づくってきた。「悪魔の悲しみ」において悪魔はルシオ・リマネズ皇子という美貌の、しかしこの世のものとも思われぬ威厳に満ちた男である。彼は貧乏に苦しみ、ほとんど飢え死に寸前の三文作家フェフリー・テンペストのもとを訪れ、彼を一躍イギリスで最大級の金持ちにし、イギリス上流社会でいちばんの美女と結婚させてくれる。

 これだけとれば、普通のファウスト伝説だが、コレーリが描く悪魔はちょっと正統的な悪魔解釈からはずれている。悪魔はもともとは光の天使であり、それが堕落して悪魔になったとされる。なぜ堕落したのかは諸説あるようだが、コレーリは神が地球を創造する際、そこに住む卑小な人間どもが転生の末に自分たちとおなじ永生を得ることに光の天使が異を唱え、創造主にむかって「わたしは人間どもを徹底的に滅ぼしてやる」と叫ぶ。すると神は
「黎明の子、ルシファーよ。わたしの前でたわごとやむだ口がきけないことはよくわかっているはずである。自由意志は不死なる者に生まれつきそなわっているもの。それゆえお前は口にしたことを必ずや行為にしなければならない! 落ちよ、おごりたかぶる精霊よ。その高き位を捨てて、お前に付き従う者どもとともに落ちよ。そして人間によって救い出されるまで二度と戻ってはならぬ。お前の誘惑に屈する人間の魂ひとつひとつが、お前と天国とをさえぎる新たな障害物を築くであろう。みずからの選択によりお前をはねつけ、お前に打ち克つ魂が、お前を高みに押しあげ、失われた故郷へと近づけるであろう。世界がお前を拒絶するとき、わたしはお前を許し、ふたたび天に迎え入れよう。しかしそのときが来るまでは、許すことも迎え入れることもない」
と言う。こうしてコレーリ版の悪魔は堕落するのである。それゆえこの悪魔にはおかしな特徴がある。彼は天にもどることにあこがれているが、天にもどることを不可能にする行いをしつづけなければならないのである。彼は人間を誘惑するが、彼の目論見通り人間がその誘惑に乗ることは、彼が天から遠ざかることを意味し、彼を悲しませ苦しめるのである。逆に彼の目論見が否定されるとき、彼は天に一歩近づき、喜びを味わうのだ。これがコレーリがファウスト伝説に加えた「ひねり」である。「悪魔の悲しみ」というタイトルの意味もこれでおわかりになるだろう。

 さて、悪魔であるルシオ・リマネズ皇子は、ジェフリー・テンペストが完全には善へのあこがれを失っていないことに気づき、彼に人間の生のおそるべき真実を教えてやる。その結果、後者は「わたしは神のみに仕える」と叫び、悪魔ルシオを否定することになる。そしてルシオの力によって得たすべての富を失い、もとの三文作家として、しかし神を信じ、喜びにみちた人間として、自らの力で生きていこうと決意するのである。

 メロドラマと言えばメロドラマだが、近況報告のその一でも言ったように、この作品には二つのスペクタクル・シーンが含まれている。ジェフリー・テンペストの結婚式の場面と、最後に人間の生の秘密を知る、氷に閉ざされた海の場面である。これはもう圧倒的な描写であって、コレーリのイマジネーションが爆発している。十九世紀の世紀末にこんな映画的な場面を描けた人は他にいないと思う。コレーリは欠点を含んだ作家だとは思うけれど、ここだけはすごい。それを伝えたくて翻訳をしたようなものだ。