Friday, July 7, 2017

「文化における快楽原理――持ち主のいない幻想」 ロベルト・プファーラー (その一)

On the Pleasure Priciple in Culture -- Illusions without Owners by Robert Pfaller

 エドガー・アラン・ポーが「大渦に呑まれて」という短編を書いている。ノルウェイの海岸のごく近くには、地形的な理由から大渦が発生する場所がある。あるとき三人の漁師の兄弟がこの渦に巻きこまれてしまった。巨大な渦の壁をぐるぐる回転しながら次第に底の方へ沈んでいく船。もちろん底まで行ってしまえば、あとは船はばらばらになり、乗組員の命はない。ところが、兄弟のうちの一人だけが、恐怖と大混乱の中で希望の曙光を見出した。彼は恐怖の中で理性を働かせ、大混乱の中に規則性を見出したのだ。
 その第一は、通例、物体が大きければ大きいほど、その落ちかたが早いということ。第二は、球形のものと何か他の形のものとでは、同じ大きさでも、球形の方が落下の早さが優っているということ。第三は、円筒形のものと何か他の形のものとでは、同じ大きさでも、円筒形のものの方が吸いこまれかたが遅いということです。

 もうひとつ著しい出来事があって……(中略)……それは一回転するごとに船は樽だとか船の帆桁やマストのようなものを追いこすばかりでなく、わしがはじめて眼を開けて渦巻きの不思議に眼を見はったとき、こういう種類の物体の多くは、わしらの船と同じ高さにあったのに、いまでは船よりもずっと高くなって、はじめの位置からあんまり動いていないように見えるということです。
そこで彼は水樽に体をくくりつけ、船を跳び出した。彼の兄弟は恐怖で体が麻痺して、何をすべきか手でわからせようとしても、絶望的に頭を振るだけ。結局、規則性を見出した男だけが助かった。

 私はこの話が好きで何回も読んだ。物事を考えはじめると、私はいつも頭のなかで渦が巻きはじめるような気がする。その渦の中には気になる言葉の切れっ端がいくつもぐるぐると回転している。なんらかの結論を得たとき、それは渦の中に規則性を見つけることができた瞬間である。言葉や事象のあいだに連関性を見出し、もちろん渦の全体のメカニズムを理解し、渦を消滅させることなどできないけれど、すくなくとも命からがらその渦から脱出することはできるようになる。ポーの短編小説は、私の思考のいとなみの原型的な表現なのである。

 もっともさいわいなことに私の思考の渦は、「放置しておく」ことができる。私はいくつか渦をかかえているのだが、残念ながら規則性を見出すことができない場合は、その渦を頭のどこかにほったらかしにしている。思考するとき私は真剣だけれども、同時に長い人生を生きるためには、そうした呑気さも必要なのである。

 じつは今も私の頭のなかでなにかが渦を巻いている。「悪魔の悲しみ」という渦である。いくつかの規則性を見出しはしたが、まだそこから生還できるほど充分には理解していない。それどころか、この渦は昔ほったらかしにしておいた渦と似ているところがあり、その渦と力を合わせてより強力な渦になりつつある。そんなことを書きつけておきたいと思う。

ロベルト・プファーラーの「文化における快楽原理」を読み直しているのだが、これはやっぱり理論書の大傑作である。

 こまかな点については実際に読んでもらった方がいい。ここでは彼の議論の前提になる faith と belief の違いを簡単に紹介する。

 普通、信仰というと、たとえば「私はキリスト教徒です。毎日寝る前にお祈りし、日曜日には教会へ行きます。子供の時は日曜学校に行っていました」などと誇らしげに語る人を連想したりする。この人は自分が信仰の持ち主であることを明言しているし、それを誇りに思っている。こういうのはプファーラーの分類では faith という。

 一方、日本でもそうだが、地方には昔の伝説に基づいたいろいろな宗教行事や祭が行われる。なんとかの怒りを静めるために鎮魂祭をやったりとか慰霊祭をやるようなものだ。それをやる人々に、「あなたは行事のもとになる伝説を信じていますか」と聞いてみたなら、「いや、昔の人は信じていたんでしょうけど、今の人は嘘だって事を知っていますよ」と答えるだろう。しかし嘘だって事を知りつつも、伝説を信じているかのように祭を毎年行うのである。この場合の信仰は、持ち主がいない。今の人は誰も昔の伝説を信じていないのだから。しかし形の上では伝説はいまなお力を持っている。こういう信仰をプファーラーは belief と呼んでいる。