Sunday, September 3, 2017

終わりに(その二)

後書き

 二

 本書の作者マリー・コレーリ(本名メアリ・マッカイ)の紹介をしておきます。彼女は一八五五年、ロンドンのベイズウオーターに生まれました。父親はジャーナリストで作詞家のチャールズ・マッカイ、母親はその家の女中メアリ・ミルズ……。そう、早い話がマリーは不義の子だったわけです。ただしチャールズは奥さんが一八六一年に亡くなるとメアリと結婚しています。

 マリーは十四歳の時、フランスの修道院付属学校へ行き、一八七三年にロンドンに戻ると、ジャーナリストとして身を立てようとします。ピアニストになることも考えていたようですが、こちらはじきにあきらめています。一八八六年にはマリー・コレーリのペンネームで最初の小説「二つの世界のロマンス」を発表。若い女性ピアニストが霊的な世界を発見する物語で、作者のトレードマークであるニューエイジ的な宗教観が展開されています。この年には「復讐」という小説も出しています。ペストにかかって一度死んだ貴族が墓の中で蘇生するのですが、家に戻ると最愛の妻が自分の親友と乳繰り合っている。結婚してから妻にずっと不貞をはたらかれていたことを知ったこの貴族は、嫉妬に狂い、二人に復讐するという物語です。この作品は日本でいちばんよく知られたコレーリの作品でしょう。黒岩涙香と江戸川乱歩がともに「白髪鬼」というタイトルで翻案作品を出していますから。わたしは未読ですが、平井呈一による翻訳もあるようです。

 このころは義兄(父と最初の妻のあいだに生まれた子)と衝突したりして、精神的につらい時期だったようですが、彼女は次々と話題作を生み出していきます。とくに一八八九年の「アーダス」は評判がよかった。主人公が異世界に移動するという、SF的な仕掛けをほどこした神秘的・宗教的な小説です。政治家のグラッドストーン、詩人のテニソンに絶賛され、ヴィクトリア女王からは、これ以後あなたの作品はすべてバッキンガム宮殿に送ってください、という電報が来たくらい人気になった。オスカー・ワイルドも「すばらしいことをすばらしい書き方で描き出している」と褒めたたえています。

Portrait of Marie Corelli.jpg

By F. Adrian - Appleton's Magazine: https://archive.org/stream/appletonsmagazin04newy#page/806/mode/2up, Public Domain, Link

 一八九三年に発表した「バラバ」もたいへんな好評でした。バラバはもちろんイエスが十字架に磔にされた日、恩赦を受けて釈放された泥棒のことです。コレーリはイエスが処刑され復活するまでの出来事をことこまかにこの三巻本の小説に書きました。そして最後には泥棒で殺人者のバラバがキリストの教えを信奉するようになるのです。この本は一年ちょっとのあいだに十四版を重ね、ヨーロッパの六つの言語に翻訳されました。しかし読者のあいだでは大変な評判だったのに、批評家にはこきおろされました。処女作の頃から批評家はとかく彼女に対して批判的であったのですが、両者の確執はこれを機にますます烈しくなる。本書「悪魔の悲しみ」の冒頭に批評家への謹告が掲げられているのを見て、驚かれた方もあると思いますが、それにはこういった背景があったのです。

 さて一八九五年に発表された「悪魔の悲しみ」ですが、これはイギリスで最初の(それゆえ世界で最初の)ベストセラーと言われています。なぜ「最初」なのか。これはイギリスの出版事情と関係があります。簡単に言うと、「悪魔の悲しみ」が出版される以前は、本というのは高価な商品で、一般人が購入できるようなものではなかった。大抵、貸本屋で借りるものだったのです。そして出版社は収益をあげるために、一冊の本を三冊に分けて出すのが普通でした。いわゆるスリー・デッカーと呼ばれる本です。ところが一八九五年にこの出版形態ががらりと変わりました。本は最初から廉価な一冊本として出版されるようになったのです。つまりイギリスは、本を借りる国から本を買う国に変貌したのですね。そしてこの変化が生じてから最初に人気を博した本、それが「悪魔の悲しみ」だったのです。

 メシュエン出版社から出た五百ページほどのこの本はじつによく売れました。部数はわからないのですが、出版されて一年あまりのあいだに三十二版(!)を重ね、その後も一九二〇年に至るまでほぼ毎年新しい版が出ています。コレーリの本は、ドイル、ウエルズ、キップリングを含む、当代の人気作家全員の本の売り上げよりももっと多く売れたそうですが、そう言われるだけのことはあります。ちなみに本書は二回ほど映画化もされています。

 コレーリはその後も「ジスカ」(一八九七)とか「マスター・クリスチャン」(一九〇〇)とか「イナセント」(一九一四)といった作品を発表しますが、第一次世界大戦中に食料の買いだめの罪を問われ、一夜にしてイギリス中の人々から憎まれることになります。この事件をきっかけに彼女は人気を失い、彼女の最後の作品である「愛と哲学者」(一九二三)はほとんど注目されることがありませんでした。

 コレーリは一生結婚せず、子供時代の女性の友達と一緒に暮らしました。なかにはレズビアン的な関係を疑う人もいますが、ヴィクトリア朝時代には未婚の女性同士が生活をともにすることはよくあったことなので、はっきりしたことはわかりません。また彼女は既婚者である画家のジェイムズ・サバーンに熱烈な思いを寄せ、「悪魔の車」(一九一〇)という短い童話のような作品を彼のイラスト入りで発表したこともあります。もっともこの恋がかなうことはありませんでした。