Monday, September 4, 2017

終わりに(その三)

後書き

 三

 「悪魔の悲しみ」は百年以上も前に書かれた作品なので、多少は歴史的な背景について説明が必要でしょう。それを「物質主義」「心霊主義」「堕落した女」「新しい女」という四つのキーワードに沿って簡単に試みておこうと思います。また、百年以上前に書かれた作品であっても、非常に現代的な問題がそこに読み取れるということも指摘しておきたいと思います。

 まずは「物質主義」。誰もがご存じでしょうが、十九世紀のイギリスでは産業化が進み、中産階級が拡大し、帝国主義国家として大いに経済が繁栄しました。そこで生まれてきたのがこの物質主義です。下世話な言い方をすれば、お金を儲け、美食を味わい、宝石を身につける。こうしたことに人生の価値を置き、精神的なものや宗教的信仰をないがしろにする態度です。J・ジェフリー・フランクリンという学者によると、「物質主義」という単語は当時、無神論、科学、マモニズム(拝金主義のことです。本書にも「富の神マモン」という言い回しが出てきますが、それからできた言葉です)などを指す言葉として一般的によく使われました。そして物質主義は人間の魂を否定するものとして、時代の悪の根源のように見なされていたのだそうです。物質主義が科学をも含んでいるというのは、ちょっと奇異な感じがするかもしれませんが、しかし「悪魔の悲しみ」を読めばおわかりになるように、科学は神や魂の存在を否定していたのですから、無神論と同等と見なされたのも無理はありません。ダーウィンの進化論も、動物は神の創造物という従来の考え方を否定して大きな衝撃を与えました。またルシオは物質主義者の傲慢さを幾度となく批判していますが、わたしはとりわけこれは当時の科学者の態度にあてはまるのではないかと思います。当時の科学者は自然の原理はほぼ解明しえたと考えていましたから。物理学者のウィリアム・トムソンなどは、物理的事実の根底にある大原則はしっかりと定められた、あとは小数点以下の数値を精密に決定するだけだ、とまで言っています。

 こうした物質主義に対していろいろな形で反発が表明されました。その一つが本書にもあらわれている「神秘思想」あるいは「心霊主義」とでも呼ぶべきものです。おそらく本作を読んでいちばん「おや」と思うのは、キリスト教を擁護しているようで、正統的なキリスト教の考え方からはずれた要素が多々見られる、ということではないでしょうか。輪廻思想も見られますし、脳細胞は原子であり、そのなかには記憶がつまっている、などという奇妙な議論が展開され、悪魔のいっぷう変わった位置づけがなされる。シビルが死ぬとき、いや、新しい生の段階に移行する際の描写も異様で、キリスト教とは関係のないオカルト的な発想がまじっていることは明らかです。さらにコレーリの処女作「二つの世界のロマンス」ではイエスやモーゼは体内から電気を発し、その力で奇蹟を起こすことができたのだ、などと書かれています。電気ウナギじゃあるまいし、逆にキリスト教を冒涜しているともとられかねない考え方です。しかしこうした混淆はコレーリの独創というより、ヴィクトリア朝末期に特徴的に見られた現象でした。

 じつはイギリスでは十九世紀前半から霊的なものへの関心がとても高かった。三〇年代はフランツ・アントン・メスメルの「動物磁気」に関心が呼び起こされました。宇宙には目に見えない流体が存在し、それが人体をも天体をも流れている。この流体の体内におけるバランスが健康状態を左右する。そう考えたメスメルは流体が体内を適切に流れるように、金属の磁性を利用した治療をこころみたのです。四十年代に入るとニュー・イングランドで発生したオカルト・ブームがイギリスにもやってきて、大流行します。霊媒があらわれ、降霊会が開かれるようになり、テーブルが持ちあがるのを見たり、死者の声を聞いたりした、というわけです。さらに六〇年代にはいると、オカルト的な世界観といったものが組織化されていきます。「悪魔の悲しみ」にもブラバツキー夫人、ベサント夫人といった名前が出てきますが、こうした人々が神智学協会を設立し、オカルト的な思想の由来や原理が定められていきます。このときにエジプトの多神教とか、カバラとか、プラトニズムとか、占星術とか、グノーシス主義、ヒンデゥー教、仏教といったいろいろなオカルト的教義が混淆されていったのです。マリー・コレーリのニュー・エイジ的な宗教観も明らかにこうした流れの中にあります。実際彼女は一時期、薔薇十字会とも関係がありました。


Hours with the ghosts, or, Nineteenth century witchcraft - illustrated investigations into the phenomena of spiritualism and theosophy (1897) (14591719210).jpg
By Internet Archive Book Images - https://www.flickr.com/photos/internetarchivebookimages/14591719210/ Source book page: https://archive.org/stream/hourswithghostso00evan/hourswithghostso00evan#page/n180/mode/1up, No restrictions, Link

 先にも言いましたが、心霊主義やオカルト思想には、物質主義への反発という側面があります。「神は死んだ」という標語に代表されるように、科学によって宗教的なものが否定されるようになり、正統的な信仰が力を失ってきた。ところが心霊主義は霊媒を通して死者が語ったり、音を立てたりするわけですから、これこそ霊的な世界の証明であると、すくなくとも一部の人には、めざましい説得力を持っていた。心霊主義は科学主義によって凋落したキリスト教を再活性化しようとする試みであったともいえます。もちろんそれは代償をともなった。つまり正統的なキリスト教とは関係のないいろいろな要素がキリスト教にもちこまれてしまったという代償です。そのあたりの事情を「悪魔の悲しみ」は非常によく表しています。