Saturday, August 5, 2017

「文化における快楽原理――持ち主のいない幻想」 ロベルト・プファーラー (その三)

On the Pleasure Priciple in Culture -- Illusions without Owners by Robert Pfaller

 PCがいかれてしまったので、買い換えることにした。貧乏な私にとって万単位の買い物は痛い。何度も何軒も電気屋を訪れ、慎重に機種選びをしたので、時間がかかってしまった。久しぶりのブログ更新である。しかしPCは変わったが、私の頭は変わらないので、内容に清新さはない。

 「転移された信」について考えていたのだが、「私」と「転移された信」との関係はパラドキシカルである。それは同一性を持っている。なぜなら「転移された信」は「私」の信であるのだから。それは非同一である。なぜなら「転移された信」は「私」の外部に存在するもの、「私」が信じていない「信」であるから。

 「私」と「転移された信」のあいだにはこの矛盾する関係が同時に成立している。

 この関係に気がついて、私はシェイクスピアの「冬物語」を思い出した。この劇は二人の王の関係を描いたものである。二人の王は小さい頃から一緒に育ち、「双子のように」、あるいは「一本の木の二本の枝のように」そっくりなのだ。もちろん彼らは実際に双子なのではない。地球の反対にある国同士の王なのである。しかし両者は大きくなっても「無限に遠く離れていながら、常に手を取り合っているような関係」を保っているのだ。私はこの二人の王の関係を読みながら、考えこんだ。「双子」、「一本の木の二本の枝」、「無限に遠く離れていながら、常に手を取り合っているような関係」、これは何を意味するのだろうと。それは端的にこういう問いを発していると思う。彼らは一なるものなのか、それとも他なるものなのか。双子は一人なのか、それとも二人の異なる人間なのか。一本の木の二本の枝は、一つの木なのか、それとも異なる二つの枝なのか。無限に遠く離れている、とは、両者の間に決定的な距離、差異があることを意味するだろうが、同時に手を取り合っている、とは、両者の間に距離も差異もないことを意味するだろう。どうも二人の王の描写は、一であるとも二であるとも決定できない状態を表しているのではないか。彼らは一体、すなわち同一でありつつ、かつ、同一ならざるものでもある。同一なものが内的なずれをかかえて、二つのものに見えているのではないか。

 この関係が「私」と「転移された信」の関係とそっくりなのはわかってもらえると思う。

 シェイクスピアの「冬物語」からはさらに重要なことがわかる。同一なるものの内部にある「ずれ」は、女性によって占められる位置なのである。二人の王の一方が他方を訪ねて楽しく交流を深めている。ついに一方の王が自国に帰らなければならない時が来る。そのとき、彼をもてなしていたほうの王は、もう少しだけ滞在を延ばしてはどうだろうと言う。相手がやはり帰ると言うので、もてなしていたほうの王は妻に向かって、おまえがわたしに代わって彼を説得してくれないかと頼む。妻の説得は功を奏し、客の側の王はもうしばらく滞在を延ばすことになる。

 この挿話は何を意味するだろう。妻が二人の王を「結び合わす」ということだ。

 しかし妻が説得に成功したとたん、夫である王は疑心暗鬼にとらわれる。あまりにも妻は友人となれなれしいのではないか。二人は不貞をはたらいているのではないか。突然そう考えた王は友人と妻を裏切りの罪で捕まえようとする。

 妻が両者を「結び合わせた」その瞬間に、彼女は両者を「切断」するものとしてもはたらくのである。

 妻(女)は王(男)の同一性の中にある「ずれ」である。それは同一性を成立させているものでもあり、同時にそれを不可能にしているものでもある。

 「私」と「転移された信」においても同じような三者関係が見られないだろうか。「私」と「転移された信」は妻(女)によって媒介されている。それは両者を切断し、結合する役割を果たしている。

 シェイクスピアのことはずっと昔に考え、エマニュエル・レヴィナスの父と子の議論と関係づけたこともある。レヴィナスにとって父と子は同一にして同一ならざるものなのだ。レヴィナスは明示的に言ってはいなかったと思うけど、実はこの関係には第三項が隠されている。母の存在である。母の存在が父の子の同一性を可能にし、また両者を決定的に切断するのだ。

 私はプファーラーの本を読みながらこの三者関係のことを思い出し、いったいこれらがどういうつながりを持っているのだろうと考えこんだ。今も考えこんでいる。思考の渦と渦がぶつかりあって、なんだか海底の深みに呑みこまれそうな気がする。