Tuesday, August 15, 2017

「マスター・クリスチャン」マリー・コレーリ作

The Master-Christian (1900) by Marie Corelli

 正直に言って無駄に長い小説だった。前に語られたことがしつこく、何度も繰り返され、思わず好い加減にしてくれと叫びたくなった。よくわからないが、連載もので、読者の記憶を新たにするために繰り返しが多くなったのだろうか。

 長大な小説だが肝腎な部分だけ筋を抜き出すとこうなる。枢機卿のフェリックスがあるとき教会の前で一人の男の子を保護する。実はこの男の子は天使が姿を変えて地上に現れたもので、不思議な力を持っている。もちろんフェリックスはそんなことなど知らない。

 滞在先でフェリックスは、貧しい子供たちから、友達の中に足のきかない子がいるから、治るように祈ってくれないかと頼まれる。子供たちは偉い枢機卿が祈れば、神様はきっと足のきかない子供を元気な身体に戻してくれると考えていたのだ。フェリックスは信仰が厚く、人格の優れた人ではあるけれど、自分の祈りで病を治すことはとてもできないと正直に言う。しかし祈るだけは祈ってみようと約束する。

 ところが祈ってしばらくすると足の悪い子供は、本当に動けるようになったのだ。もちろんフェリックスに保護された天使のおかげなのだが、人々は、フェリックスが軌跡を起こしたと大騒ぎする。

 さて、この噂がローマの法王の耳にとどく。マリー・コレーリが描くローマの法王庁は、実にいやな人間どもの巣窟である。とにかく金に汚い。がめつい。自分たちの利益のために陰謀を巡らす。スパイを派遣することも平気だ。キリスト教の根本的な思想なんてどうでもいい。彼らにとっては自分たちが豊かになり、自分たちの身分が保障されることが何よりも大事なのだ。

 彼らはフェリックスを法王庁に呼びつけ、彼が起こした奇蹟の取り調べを行おうとする。ところがフェリックスと一緒に来た、男の子の姿をした天使が、烈々火を吐くような言葉遣いで法王と法王庁を批判するのだ。これがきっかけとなって法王庁はフェリックスと男の子を迫害する計画を立てる。そして後者の二人は命からがらイタリアを脱出することになる。

 これがメインの筋で、その他にフェリックスの姪で画家のアンジェラの話、革命家の話など、いくつかのサブ・プロットが存在する。

 宗教改革が起きるときは、いつも「今の信仰の形は、形式にとらわれている。信仰を信者の心に取り返さなければならない」と言われる。マリー・コレーリが描き方を見ると、法王庁は物質主義と拝金主義に陥って、本来の信仰心を失っている。それに対立するのは信仰心をみずからの中にたもっている人々である。つまり作者はこの作品で宗教改革の必要を説いていると言っていいだろう。これは他の作品でも作者が繰り返し主張していることだ。ただ、この主張はあまりにもまっとうすぎて、すくなくとも私にはひどく「くさい」ものに感じられる。マリー・コレーリの思想の幼稚さが出ているように思う。

 アンジェラの話はいわゆる当時の「新しい女」を擁護するような内容になっている。従来女は結婚して良人のよき慰め手、パートナーとなるべきと考えられていたが、十九世紀の後半になるとそれに異議を唱える人々が出てくる。とくに一八九〇年代には、そういう人々が大勢あらわれ、新聞や雑誌で揶揄的に言及されたものだ。アンジェラは画家で、物語の時点で大作の製作に取りかかっている。完成したそれを見るとキリストを描いたすばらしい傑作である。ところが彼女の恋人は(恋人も画家だ)、それを見て、アンジェラの才能に嫉妬し、彼女を殺そうとするのである。彼女は男の子の姿をした天使のおかげで、一命を取り留めるのだが、この挿話で言わんとすることは非常に明瞭だ。女であっても男以上の創造的才能を発揮することができる。決して女は家庭の守り手で終わる存在ではないということだ。

 「新しい女」が登場し出すと、とたんに世の中には「女は男よりも劣った性である」といった言説があらわれたが、そうした男尊女卑の考え方にマリー・コレーリは真っ向から対立している。いささか単純すぎる図式的な思考とはいえ、一九〇〇年の社会状況をよく示す物語にはなっている。