Wednesday, May 3, 2017

「トリルビー」 ポール・ポッター作

Trilby (adapted to stage by Paul Potter)

 「トリルビー」は一八九四年にハーパーズ・マンスリー誌に連載されたジョージ・ドゥ・モーリアの小説である。トリルビーという画家のモデルをしている魅力的な若い女が、スヴェンガリという悪者に催眠術をかけられてかどわかされ、彼の金儲けのために利用されるという物語である。発表当時、たいへんな人気となり、何度かドラマ化もされている。今回読んだのはドラマ化されたシナリオのほうである。
小説の挿絵から

トリルビーと聞くと、トリルビー・ハットを思い出す人がいるかもしれない。これは舞台化されたときに出演者がかぶっていた帽子がこの手の、つばの狭い帽子だったのである。

 またスヴェンガリという名前に聞き覚えのある人も大勢いると思う。催眠術で意のままに他人を操ることのできるこのユダヤ人は、その魔術的・神秘的な力が人々の心に反ユダヤ主義的な怖れをかきたてた。

 「トリルビー」は英語の表現にも新しいものをつけ加えた。それは in the altogether という表現で、「ヌードで」というような意味である。トリルビーは画家のためにポーズを取るときヌードになるのだが、そこで使われている。

 話自体は単純である。トリルビーはボヘミアン的な生活をしている画家たちのためにモデルをしている。活発な女の子でみんなに好かれている。しかし歌はへたくそで、とてつもない音痴である。

 スヴェンガリは音楽家で催眠術を心得ている。彼はトリルビーの声がよいこと、音痴ではあるが、催眠術によってすばらしい歌い手になることを知っている。彼はトリルビーに催眠術をかけて、その恋人との仲を引き裂き、彼女を妻にしてヨーロッパ中を公演旅行してまわる。

 ところがスヴェンガリとトリルビーがパリで公演をしている最中に、スヴェンガリは心臓発作を起こして結局死んでしまう。とたんに催眠術は切れ、トリルビーはもとの音痴に戻ってしまう。しかもスヴェンガリとヨーロッパを旅行していた期間のことも忘れてしまうのだ。

 彼女は恋人と再会し、二人は結婚することになる。ところが……彼女はふとしたことからスヴェンガリの写真を見つめ、またもや彼の催眠術にかかってしまうのである。この劇の最後では彼女はそのまま昏倒してしまうのだろうか。それとも死んでしまうのだろうか。ある女性が彼女の様子を見て、「大変!」と言って大騒ぎする場面で芝居は終わっている。

 スヴェンガリの不気味さももちろん印象的だが、パリの芸術家たちのボヘミアン的生活も見事に描かれていて感心した。画家たちのアパートの向かいに建つ店舗の売り子たちが、窓から裸のモデルが見えるといって苦情を言う場面など、さもありなんと思わせる真実らしさがあるし、それに対する芸術家たちの反論も若い芸術家らしい自負の念に満ちている。聖職者が彼らのアパートを訪れ、スケッチブックを熱心に見入っている場面などはじつに愉快で、こうした明るさ、活気、ユーモアがあるので、スヴェンガリの底知れぬ異様な力が対照的に強調されるのだろう。

 ジョージ・オーウェルはスヴェンガリの反ユダヤ主義的描写を批判しているが、わたしは別の意味でスヴェンガリの能力に興味を抱いた。トリルビーは、スヴェンガリに催眠術をかけられ歌の訓練をさせられる前は、音痴だったのである。彼女の声の質は天下に並ぶ者がない。しかし音を認識したり、正しい音を発声することができないのだ。スヴェンガリはこの欠損を補うことによって、洗濯女をしたりモデルをしていた彼女を、ヨーロッパの皇族も注目するような歌姫に変えたのである。スヴェンガリは彼女と結婚するが、彼女を愛してはいない。正しく歌えなければ彼女に暴力をふるうし、金儲けの道具として利用しているだけであることは明らかだ。しかしそれでもスヴェンガリがこの欠損を補うという点は面白い。欠点を補われたトリルビーはどうなるのか。スヴェンガリの助手であるゲッコがこんなことを言う。
二人のトリルビーがいるんだ。一人はみんなも知っているトリルビー、音痴のトリルビーだよ。それはおれたちが愛しているトリルビーだ。ああ、そうとも、このゲッコさまだって彼女をただ一人の恋人、ただ一人の妹、ただ一人の子供みたいに愛しているんだ。ところが魔術師のスヴェンガリがひとたび睨み、手をひらひらさせると、彼女はべつのトリルビーになる。彼女はただの歌う機械になっちまう。スヴェンガリのかわりに歌う、無意識の声になっちまうのさ。トリルビーが歌っているとき、おれたちのトリルビーはいなくなるんだ。おれたちのトリルビーはぐっすり眠っている。死んでいるんだ。
Svengali (1931) 2.jpgトリルビーは欠点を補われて、各国の皇族たちも注目するヨーロッパ一の歌姫になるが、同時にそれは、死の状態に置かれてしまうことなのである。代補の論理という点から反ユダヤ主義(あるいはレイシズム)を捉え直すことができるだろうか。


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