Sunday, May 14, 2017

「工場労働者」 ジョン・ウオーカー作 (その二)

The Factory Lad (1832) by John Walker

 かくして首になった工場労働者たちは酒場に集まり、工場主への復讐を計画する。そのとき首謀者となるのは、彼らの一人ではなく、密猟者としてその地域からのけ者扱いをされているラシュトンという男である。彼を首謀者に設定したあたりに、わたしはこの作者の知性を感じる。彼ははじめて舞台にあらわれたとき、こんなことを言う。
ラシュトン
  「(罠を仕掛けながら)大物がとれるぞ! ははっ! 狩猟法? 金持ちの暴君は、この土地を飛んだり走ったりする獣をみんな捕まえようとするが、貧乏人にはそうする権利がないみたいだな。おれは法律なんか屁とも思わん。自由と体力と活力があるかぎり、いちばんの金持ちとおなじように生きてやる」
ラシュトンは「私有」というものに疑問を持ち、それにあらがって生きている。彼の言葉から、「私有財産は横領と略奪」という、よくある観念へは一歩の距離しかないように思える。密猟者というのはたいてい教養のない田舎者なのだが、ラシュトンは違う。彼はもとともは真面目な労働者で家族もあったのだが、どうやら資本家の横暴にあって妻も子供もなくし、今は兎などを密猟して生活を立てているらしい。彼は資本家の裏の側面を知りつくしており、それゆえ資本家に怨念を抱いているだけでなく、鋭い洞察力を見せる。彼は慈善なるものの偽善性を見抜き、ずるがしこい判事の姿(その名もバイアス判事、つまりえこひいき判事である)を通して、法の不公正さを直観している。こういう人物だからこそ、労働者たちを指導する立場に立てるのだ。

 さてラシュトンは工場労働者たちの話を聞いて義憤を覚え、工場に放火する計画を立てる。ところが工場主のほうも労働者の報復を警戒していたので、彼らは警察に捕まり、裁判にかけられる。この裁判の場面でもラシュトンの舌鋒鋭く、法律と階級の問題をえぐり出す。
判事バイアス
  「法は金持ちにも貧乏人にも公平だ」
ラシュトン
  「そうかな? それじゃどうして貧乏人はしょっちゅう牢屋に入れられるのに、金持ちは放免されるんだ?」
バイアス
  「ええい、こんな話はもうやめだ」
今のわれわれにしてみれば、ラシュトンの指摘は当たり前なことに過ぎない。しかしこれが書かれたのが十九世紀前半だったことを忘れてはならない。

 この裁判の最中に、労働者のひとりの妻(実はラシュトンの死んだ妻の妹)が半狂乱になって飛びこんでくる。そして工場主の足にとりすがり、主人を許してほしい、これから一生あなたの奴隷になるからと嘆願する。工場主は彼女をはねのけ、「わたしに触るな。法律が正しい裁きをつけてくれる!」と言う。それを見たラシュトンは「慈悲を請う、無力な女をはね飛ばすのか……死ね、暴君め!」と工場主にピストルをぶっぱなす。工場主が倒れ、ラシュトンは舞台中央でヒステリカルに笑い、兵士たちがマスケット銃を彼にむけるところで幕は下りる。

 壮絶なドラマで、なるほどしばしば議論の対象になるのももっともだと思った。問題作である。

 調べて見ると工場に材を取った劇作品は少ないながらもいくつかあるようだ。G.F.テイラーの「ストライキ」(一八三八年)は工場主の立場からストライキをする労働者を非難し、J.T.ヘインズの「工場従業員」(一八四〇年)は酷薄な工場主を描いている。ディオン・ブーシコーはギャスケル夫人の「メアリー・バートン」を脚色した「長いストライキ」(一八六六年)という作品を出しているし、トム・テイラーは「指物師の妻」(一八七三年)のなかで十八世紀の機械の破壊や群衆暴力を批判的に描き出している。ほかにもジョージ・フェンの「親方」(一八八六年)とかアーサー・モスの「労働者の敵」(一九〇〇年頃)といった作品があるようだ。手に入れば是非とも読んでみたい。わたしはずっとメロドラマと、物語の外部性について考えているけれど、経済的な要素が物語の外部に出ていくきっかけになる場合があるのではないか。逆に内部に閉じこもっている物語は、内部が成立している経済的基盤を隠蔽しているのではないか。工場とか階級を扱ったメロドラマは少ないらしいが、しかしここにこそメロドラマについて考えるための重要な鍵がありそうな気がする。