Sunday, January 15, 2017

「歪めて見る」 スラヴォイ・ジジェク作 (その4)

Looking Awry (1991) by Slavoy Zizek

 前回書いたまとめはそんなに難しいことではない。私自身、谷崎潤一郎の「途上」という短編を分析するときに同じようなことを考えたので、ある種の思考のレールに乗ると、だいたい似たような論理の経路をたどることになるのだな、と思った。ただ、犯人の二次加工が破綻している細部が必ずひとつは存在し、そこは外部を表象しているのだ、というところを読んだときに、はっと気がついたことがあった。

 私は前のブログ「本邦未訳ミステリ百冊を読む」で、古典的探偵は「事件=ドラマ」の外部に立つと考えた。それはジジェクの考え方とおなじである。そして探偵が外部から内部に位置を移動させると、彼はもはや探偵本来の活躍、論理的推理ができなくなることに気がついた。たとえば探偵がいちばんの容疑者である女性と恋に落ちたり、事件の関係者と大きな利害関係を持ったりすると、探偵は「事件=ドラマ」の一部と化してしまい、つまり内部の存在となってしまうのである。

 内部の存在となるととたんに探偵は事件を徴候として読むことができなくなる。最初は本格物のような出だしでも、探偵が物語の途中から内部の人間と化してしまうと、物語はは急に舵を切って、たんなるメロドラマになってしまう、ということがよくある。

 ところが前のブログを書くために読んでいた本のなかで一冊だけ変な作品があった。それは探偵の親友が妻を殺した容疑で警察に捕まるという話なのだが、この探偵が最初から徹頭徹尾、親友の無実を信じて疑わないのである。探偵には助手がついていて、助手は二回ほど探偵をいさめるのだ。「先生、証拠もないのに親友の無実を信じるのはおかしいではありませんか。探偵はあらゆる可能性を考慮に入れるべきです。親友も一応容疑者の一人に数え上げるのがほんとうの探偵でしょう」と。それを聞いて探偵も「そうだね」と納得せざるを得ないのだが、それでも彼は友人の無実を信じている。

 殺人事件でいちばん疑わしい容疑者の無実を信じるということは、探偵は「事件=ドラマ」の内部に入りこんでいることになる。しかしこの作品は本格推理の体裁を取っていて、最後に探偵が推理を展開し真犯人を指摘するのである。

 これは変な作品だと思っていろいろ考えたのだが、そのうち探偵それ自身がある種の徴候であることに気がついた。探偵は外部から精神分析の分析家のように「事件=ドラマ」を徴候としてとらえるのだが、この作品においては読者が探偵を作品の徴候としてとらえなければならないのだ。探偵は「親友はけっして犯人ではありえない」と繰り返す。われわれ読者はこの否定を分析家のように徴候としてとらえ、作品全体をもう一度見直さなければならない。

 こまかい点ははぶけれども、私はなぜ探偵それ自身が徴候となるのか、という点がうまく説明できないでいたのだが、ジジェクの外部性と内部性の議論を読んではっと気がついた。容疑者の無実を信じつつ探偵として振る舞う存在、それは内部に存在する外部性にほかならないではないか。探偵はまさしく内部の欠如を埋める、内部にとっては余計ななにかである。彼自身が徴候となるのは当然ではないか。