Monday, January 9, 2017

「歪めて見る」 スラヴォイ・ジジェク作 (その3)

Looking Awry (1991) by Slavoy Zizek

 ジジェクやラカンの議論はむずかしい。簡単には要約できない。ブルース・フィンクは「ラカン的主体」というラカン入門書の名著をあらわしている。難解なラカンの考えをじつに平易に解き明かしていて、入門書としては最高の一冊であろうが、しかしそれでもやはり難解にならざらるをえない部分が残っている。私がうまく要約できないのも当然だろう。

 今度は第三章の前半部分を見ておく。ここでは論理的な推論によって事件を解決する古典的な探偵と、精神分析における分析者の相同性について指摘されている。私が探偵は「外形を見る」とか「外部に立つ」という表現で言おうとしていることとよく似ている議論だ。

 ジジェクは分析者が夢をどう読み解くかについて説明している。肝腎なことは、夢のなかの物事、図像に象徴的な意味があると考えてはならないことである。物事や図像は徹底してシニフィアンであり、シニフィアンに留め置かれなければならない。そしてシニフィアンとしての謎を解いたときにわれわれは夢思想に到達するのである。

 その例としてジジェクはアルテミドロスが伝えるアリスタンダーの有名な夢解きを引いてくる。アレキサンダーはツロの町を包囲していたが、攻め込むのに時間がかかっていることを気にしていた。その時彼はサチュロスが楯の上で踊っている夢を見たのだ。それを聞いてアリスタンダーはこう解釈する。サチュロス(satyr)とは sa Tyros つまり「ツロはなんじのものなり」、それゆえ思い切って攻めればよい、と。

 サチュロスが踊っていることを「歓喜」であるとか解釈してはならない。あくまでもシニフィアンとして見ろ、というのが精神分析の教えだ。夢というのは絵文字のようなものである。

 ただし夢と絵文字のあいだにはちがいがある。絵文字には全体に見かけの統一性を与える二次加工が存在しない点である。これが大事なところだ。夢にはもっともらしさを与えるある種の加工がほどこされている。それにひっかかってはならないのだ。

 さらに重要な点がある。この二次加工は完全には成功しない。本当はAであるのに、Bのような見せかけを与えようとするのが夢である。しかしAをBに、たとえば白を黒に見せかけるには強引な手続きが必要になる。このことにジジェクはややこしい、しかし理論的には実り豊かな説明を与える。つまり夢のなかには一つだけパラドキシカルな要素が存在する。夢に統一性を与えるためには絶対に必要だが、しかしある意味ではそれは余計ななにかであるような要素だ。この要素はつねに突出していて、夢を構成する欠如を示す。すなわち夢の内部において外部を表象しているのである。

 夢分析は夢のなかの欠如を埋めているパラドキシカルな要素を見つけ、一見した夢の統一性をひきはがすことからはじまる。

 ここにおいて分析家と探偵の類似性がはっきりする。犯罪現場とは夢のようなものだ。本当の犯罪の痕跡を隠すように、現場は犯人によって二次加工をほどこされている。探偵はこの加工を見破らなければならない。見破るには現場の一見した統一性から突き出している要素(手掛かり)を見つけなければならない。だから探偵が着目する手掛かりはいつも「奇怪な」とか「奇妙な」とか「異常な」などという言葉で形容されることになるのだ。このような手掛かりは現場の意味の全体性をかっこでくくり、細部に注意をむけたときにのみ見つかる。

 ここで言われていることはそう難しいことではない。犯人Aはその犯行をBの犯罪であるかのようにみせかける。つまり犯行現場は一見したところ犯人がBであるような様子をしている。しかしそのような意味作用につられてはいけない。それが犯行現場をシニフィアンとして見るということだ。

 理論的に面白いのは犯罪現場に見せかけの意味を与える作業、二次加工はかならず失敗するという点である。これは論理的に考えてそうだろう。AをBと言いくるめることはできない。必ずそのような理論には破綻が生じる。しかしその破綻を突き止めるには細部の論理の食い違いに着目しなければならない。ざっと全体を見わたすと、犯罪はBによって行われたような様相を呈している。しかし細部に注目すると、そこには全体を貫くはずの論理がほつれてしまっている部分があるのだ。それが必ず一箇所は存在する。そこから全体が一見して持っている意味をひっくり返すのである。ジジェクは必ず一箇所は存在するその破綻の部分、周囲から突出した部分は、内部における外部を表象しているという。これは重要なポイントだ。(つづく)