Saturday, January 28, 2017

「荷風全集 巻之一」 永井荷風作

 昭和二年に春陽堂から出た「荷風全集」が近代デジタルライブラリーあったので読んでみた。第一巻の内容は

野心
地獄の花
夢の女
女優ナナ梗概
洪水
エミールゾラと其の小説

である。どれも未読だったので興味深かった。

 「野心」は処女作だろうか。漱石の「虞美人草」のような新旧対立図式に基づく物語でいかにも習作といった雰囲気をただよわせている。着物問屋の若主人が莫大な遺産を受け継ぎ、いままでの古い商売のやり方をあらため、西洋風のデパートをつくろうとする。すると旧套を墨守する彼の母親と親族がそれに反対する。さてこの対立の結末やいかに、という短い話である。新しい考え方をする一派が軽薄で冷酷なように描かれているのはいささか一方的な気がするし、そのことは荷風が時代の変化を正確に見て取る視点をまだ確立させていなかったことを意味するだろう。漱石は「虞美人草」以後、勧善懲悪的な図式で新旧の対立を描くのはだめだと気づいたのだろう、「坑夫」以降、文体も作風もずいぶん変わっている。荷風も以後の作品ではこんな書き方はしていない。この作品はやや唐突に終わりが訪れるが、その終わり方にはフランス小説風の味わいが感じられる。

 「地獄の花」はよくできている。荷風がフランス文学を学んだことを知らなくても、その影響はありありと感じられる作品だ。恋人に裏切られ、上司に操を奪われた、若い女性の教育者が、理想主義的な考え方を捨て、ある種の強い覚悟をもって人生にいどんでいくという話であるが、彼女の心の変化が痛いほどよくわかる、なかなかの作品だ。「野心」から「地獄の花」へと飛躍的な小説技術の進歩を見せている。さすが荷風だ。

 「夢の女」はさらに出来がいい。貧しい家に生まれた美貌の少女が、妾になったり、遊女になったり、待合の女将になったり、苦労しながら世間を渡っていく。物語的興味もそなえているし、女主人公の身の上に痛切な思いをいたさせる、フランス自然主義風の作品である。「墨東綺譚」とか「腕くらべ」に較べると、ずいぶんバタ臭い印象だが、面白い。

 しかし第一巻で一番よかったのは「女優ナナ梗概」である。ゾラの長篇小説を抄訳したもので、文語体で書かれているが、見事な文章、まとめっぷりで、ひたすら感服した。美しく驕慢なナナという女優の魔力に惹かれた、パリの上流階級の男たちの堕落した様子が描かれているのだが、ただたんに原作を要領よくまとめてあるというだけでなく、これはこれで一箇の立派な作品になっているところがすごい。この調子で「居酒屋」なんかも訳してくれていたらなあ、と思わず嘆息した。荷風がゾラにどれほど入れ込んでいたかということがよくわかる。

 「洪水」もやはりゾラの作品を訳したものだが、ゾラがこんな作品を書いていたとは知らなかった。裕福な農家が洪水に襲われ、家の者はみな屋根の上に避難するのだが、水の勢いは刻々と増して行き、生き延びようとした人々が次々と水に呑まれて死んでいく、その様子をサスペンスフルに描いている。ゾラというと遺伝によってその人の人生が決まってしまうという、例の考え方を表明した作品ばかりかと思っていたら、こんなアクション主体の作品も書いていたのか。

 最後の「エミールゾラと其の小説」は解説文である。「ナナ」と「洪水」は文学全集のなかの一巻だったのだろうか。それに付与したような解説文である。

 たしかスチュアート・ホールだったと思うけれど、思想家の作品のなかでは円熟期のそれよりも処女作のほうが興味深いと言っていた。私も同感である。思想家、小説家を問わず、処女作にはその人の可能性が胚のように詰まっている。「墨東綺譚」のような狡猾に小説の技術を背後に隠した作品もいいが、語学力を生かして海外の新しい潮流を学び取ろうとする、若々しい態度が感じられるこういう作品は、後期の作品の秘密を垣間見せてくれているようでじつに読むのが楽しかった。