Saturday, August 5, 2017

「文化における快楽原理――持ち主のいない幻想」 ロベルト・プファーラー (その三)

On the Pleasure Priciple in Culture -- Illusions without Owners by Robert Pfaller

 PCがいかれてしまったので、買い換えることにした。貧乏な私にとって万単位の買い物は痛い。何度も何軒も電気屋を訪れ、慎重に機種選びをしたので、時間がかかってしまった。久しぶりのブログ更新である。しかしPCは変わったが、私の頭は変わらないので、内容に清新さはない。

 「転移された信」について考えていたのだが、「私」と「転移された信」との関係はパラドキシカルである。それは同一性を持っている。なぜなら「転移された信」は「私」の信であるのだから。それは非同一である。なぜなら「転移された信」は「私」の外部に存在するもの、「私」が信じていない「信」であるから。

 「私」と「転移された信」のあいだにはこの矛盾する関係が同時に成立している。

 この関係に気がついて、私はシェイクスピアの「冬物語」を思い出した。この劇は二人の王の関係を描いたものである。二人の王は小さい頃から一緒に育ち、「双子のように」、あるいは「一本の木の二本の枝のように」そっくりなのだ。もちろん彼らは実際に双子なのではない。地球の反対にある国同士の王なのである。しかし両者は大きくなっても「無限に遠く離れていながら、常に手を取り合っているような関係」を保っているのだ。私はこの二人の王の関係を読みながら、考えこんだ。「双子」、「一本の木の二本の枝」、「無限に遠く離れていながら、常に手を取り合っているような関係」、これは何を意味するのだろうと。それは端的にこういう問いを発していると思う。彼らは一なるものなのか、それとも他なるものなのか。双子は一人なのか、それとも二人の異なる人間なのか。一本の木の二本の枝は、一つの木なのか、それとも異なる二つの枝なのか。無限に遠く離れている、とは、両者の間に決定的な距離、差異があることを意味するだろうが、同時に手を取り合っている、とは、両者の間に距離も差異もないことを意味するだろう。どうも二人の王の描写は、一であるとも二であるとも決定できない状態を表しているのではないか。彼らは一体、すなわち同一でありつつ、かつ、同一ならざるものでもある。同一なものが内的なずれをかかえて、二つのものに見えているのではないか。

 この関係が「私」と「転移された信」の関係とそっくりなのはわかってもらえると思う。

 シェイクスピアの「冬物語」からはさらに重要なことがわかる。同一なるものの内部にある「ずれ」は、女性によって占められる位置なのである。二人の王の一方が他方を訪ねて楽しく交流を深めている。ついに一方の王が自国に帰らなければならない時が来る。そのとき、彼をもてなしていたほうの王は、もう少しだけ滞在を延ばしてはどうだろうと言う。相手がやはり帰ると言うので、もてなしていたほうの王は妻に向かって、おまえがわたしに代わって彼を説得してくれないかと頼む。妻の説得は功を奏し、客の側の王はもうしばらく滞在を延ばすことになる。

 この挿話は何を意味するだろう。妻が二人の王を「結び合わす」ということだ。

 しかし妻が説得に成功したとたん、夫である王は疑心暗鬼にとらわれる。あまりにも妻は友人となれなれしいのではないか。二人は不貞をはたらいているのではないか。突然そう考えた王は友人と妻を裏切りの罪で捕まえようとする。

 妻が両者を「結び合わせた」その瞬間に、彼女は両者を「切断」するものとしてもはたらくのである。

 妻(女)は王(男)の同一性の中にある「ずれ」である。それは同一性を成立させているものでもあり、同時にそれを不可能にしているものでもある。

 「私」と「転移された信」においても同じような三者関係が見られないだろうか。「私」と「転移された信」は妻(女)によって媒介されている。それは両者を切断し、結合する役割を果たしている。

 シェイクスピアのことはずっと昔に考え、エマニュエル・レヴィナスの父と子の議論と関係づけたこともある。レヴィナスにとって父と子は同一にして同一ならざるものなのだ。レヴィナスは明示的に言ってはいなかったと思うけど、実はこの関係には第三項が隠されている。母の存在である。母の存在が父の子の同一性を可能にし、また両者を決定的に切断するのだ。

 私はプファーラーの本を読みながらこの三者関係のことを思い出し、いったいこれらがどういうつながりを持っているのだろうと考えこんだ。今も考えこんでいる。思考の渦と渦がぶつかりあって、なんだか海底の深みに呑みこまれそうな気がする。

Sunday, July 16, 2017

「文化における快楽原理――持ち主のいない幻想」 ロベルト・プファーラー (その二)

On the Pleasure Priciple in Culture -- Illusions without Owners by Robert Pfaller

 プファーラーは faith/belief という区別を立てて、その間の差異をじつに理論的に明らかにしていく。そのとき導きの糸となるのは、マノーニやホイジンガやフロイトである。たとえば彼は belief はイマジナリーのレベルにあり、belief はシンボリックのレベルにあるという。一見すると逆のようだが、しかし考えてみるとプファーラーが正しい。faith というのは熱烈な信仰であり、理想自我との一体化を目指す段階である。理想自我との一体化を目指すのはまさしくイマジナリーなレベルである。それにたいして belief はそうしたものとのあいだにシニカルな距離が存在している。これはシンボリックなレベルだ。

 また faith と belief は理論的にどちらが先行するのかという問いにプファーラーは belief であると考える。普通は最初に faith があり、その堕落した形態として belief があらわれると考えるのだが、逆である。こまかい議論なので詳細は省くが、彼はこうした意外な発見をきわめて論理的で刺激的な議論を通して重ねていく。

 私は読みながらいろいろなことを考えさせられたが、実は私が考えている「信」のあり方はプファーラーが取りあげていない「信」のあり方である。コレーリの「悪魔の悲しみ」および谷崎の「或る調書の一節」において私が見出したのは、夫は神を信じないが、妻が夫の代わりに神に祈る、という形である。この場合、夫は妻を通して神に祈っている。あたかも夫は信仰心を自らの中から排出し、徹底した無神論者、モラル無き存在となるが、排出された、しかし自分の一部でもある信仰心を投げ捨てることができず、それを妻の中に保存しているようなものである。信仰心は夫にとって同一であり、かつ非同一なものとなる。

 排出された信仰心、他者に転移された信仰心に対して夫はアンビバレントな態度を取ることになる。まずそれは自分とは正反対のもの、否定されるべきものである。なぜなら夫は無神論者であり、モラル無き者だが、信仰心は神を信じ、モラルを守る心を意味するのだから。そういう意味で彼は信仰心、およびそれを担う妻をないがしろにする。同時に信仰心は彼そのものであり、彼はそれなしでは「やっていけない」。「悪魔の悲しみ」では妻が信仰心を持たないことを知って夫は絶望し、死ぬことを考える。「或る調書の一節」では夫は妻を犬猫同然に扱いながらも「非常に必要」な存在とみなす。

 プファーラーの本は、副題を見ればわかるように「持ち主のいない」信の形をとりあつかっている。私の場合は持ち主はいる。それは夫本人ではなく、妻であり、他者である。自分以外の何者かが信を保持しているという点で、私の考えている信の構造は belief に近いが、しかし belief にあるようなシニカルな距離感がない。夫にとって信は絶対的に不用であると同時に絶対的に必要なものでもあるという点で belief とは違っているのだ。こういう信の構造をプファーラーは扱っていない。さらに言うとジジェクも「本人以外の特定の誰かに転移された信」については議論をしていないようだ。

 だとすれば、この特殊な信の形態については自分で考えざるを得ないのだが、しかしそれにしても先行するこれら二人の議論は本当に参考になる。正直、いろいろなことを考えさせられすぎて、頭のなかがかえって混乱しているくらいである。前回、頭のなかで渦が巻いているといったけれど、第一の渦はこういうものである。

 最近この渦に第二の渦が加わった。それはずいぶん以前に考え、しばらくほったらかしにしていた問題である。

Friday, July 7, 2017

「文化における快楽原理――持ち主のいない幻想」 ロベルト・プファーラー (その一)

On the Pleasure Priciple in Culture -- Illusions without Owners by Robert Pfaller

 エドガー・アラン・ポーが「大渦に呑まれて」という短編を書いている。ノルウェイの海岸のごく近くには、地形的な理由から大渦が発生する場所がある。あるとき三人の漁師の兄弟がこの渦に巻きこまれてしまった。巨大な渦の壁をぐるぐる回転しながら次第に底の方へ沈んでいく船。もちろん底まで行ってしまえば、あとは船はばらばらになり、乗組員の命はない。ところが、兄弟のうちの一人だけが、恐怖と大混乱の中で希望の曙光を見出した。彼は恐怖の中で理性を働かせ、大混乱の中に規則性を見出したのだ。
 その第一は、通例、物体が大きければ大きいほど、その落ちかたが早いということ。第二は、球形のものと何か他の形のものとでは、同じ大きさでも、球形の方が落下の早さが優っているということ。第三は、円筒形のものと何か他の形のものとでは、同じ大きさでも、円筒形のものの方が吸いこまれかたが遅いということです。

 もうひとつ著しい出来事があって……(中略)……それは一回転するごとに船は樽だとか船の帆桁やマストのようなものを追いこすばかりでなく、わしがはじめて眼を開けて渦巻きの不思議に眼を見はったとき、こういう種類の物体の多くは、わしらの船と同じ高さにあったのに、いまでは船よりもずっと高くなって、はじめの位置からあんまり動いていないように見えるということです。
そこで彼は水樽に体をくくりつけ、船を跳び出した。彼の兄弟は恐怖で体が麻痺して、何をすべきか手でわからせようとしても、絶望的に頭を振るだけ。結局、規則性を見出した男だけが助かった。

 私はこの話が好きで何回も読んだ。物事を考えはじめると、私はいつも頭のなかで渦が巻きはじめるような気がする。その渦の中には気になる言葉の切れっ端がいくつもぐるぐると回転している。なんらかの結論を得たとき、それは渦の中に規則性を見つけることができた瞬間である。言葉や事象のあいだに連関性を見出し、もちろん渦の全体のメカニズムを理解し、渦を消滅させることなどできないけれど、すくなくとも命からがらその渦から脱出することはできるようになる。ポーの短編小説は、私の思考のいとなみの原型的な表現なのである。

 もっともさいわいなことに私の思考の渦は、「放置しておく」ことができる。私はいくつか渦をかかえているのだが、残念ながら規則性を見出すことができない場合は、その渦を頭のどこかにほったらかしにしている。思考するとき私は真剣だけれども、同時に長い人生を生きるためには、そうした呑気さも必要なのである。

 じつは今も私の頭のなかでなにかが渦を巻いている。「悪魔の悲しみ」という渦である。いくつかの規則性を見出しはしたが、まだそこから生還できるほど充分には理解していない。それどころか、この渦は昔ほったらかしにしておいた渦と似ているところがあり、その渦と力を合わせてより強力な渦になりつつある。そんなことを書きつけておきたいと思う。

ロベルト・プファーラーの「文化における快楽原理」を読み直しているのだが、これはやっぱり理論書の大傑作である。

 こまかな点については実際に読んでもらった方がいい。ここでは彼の議論の前提になる faith と belief の違いを簡単に紹介する。

 普通、信仰というと、たとえば「私はキリスト教徒です。毎日寝る前にお祈りし、日曜日には教会へ行きます。子供の時は日曜学校に行っていました」などと誇らしげに語る人を連想したりする。この人は自分が信仰の持ち主であることを明言しているし、それを誇りに思っている。こういうのはプファーラーの分類では faith という。

 一方、日本でもそうだが、地方には昔の伝説に基づいたいろいろな宗教行事や祭が行われる。なんとかの怒りを静めるために鎮魂祭をやったりとか慰霊祭をやるようなものだ。それをやる人々に、「あなたは行事のもとになる伝説を信じていますか」と聞いてみたなら、「いや、昔の人は信じていたんでしょうけど、今の人は嘘だって事を知っていますよ」と答えるだろう。しかし嘘だって事を知りつつも、伝説を信じているかのように祭を毎年行うのである。この場合の信仰は、持ち主がいない。今の人は誰も昔の伝説を信じていないのだから。しかし形の上では伝説はいまなお力を持っている。こういう信仰をプファーラーは belief と呼んでいる。

Wednesday, June 28, 2017

谷崎潤一郎「或る調書の一節」

谷崎潤一郎「或る調書の一節」(1921)

 最初読んだときはなにを言おうとしているのか、さっぱりわからなかった。ただ妙に気になって、忘れることができなかった短編小説である。パラドキシカルな「信」の構造を描いているのだ(説明しているのだ)と気づいてから、何回か読み返してみた。いま訳している「悪魔の悲しみ」とも主題的に関係がある作品なので、簡単に話をまとめておこう。もっともごくごく短い作品なので自分で読んだほうが早いかもしれないけど。

 この短編はAとB、二人の会話という形で進行する。Aは警察の取調官、Bは犯罪者である土工の頭だ。Bは結構収入があるのに、家の外に女を作り、賭博、窃盗、強姦、殺人と悪事の限りを尽くしている。彼は「私は一生悪いことは止められません。私は善人になれたにしてもなりたいとは思わないのです。悪い事をする方がどうも面白いのです」という。

 ところがBに罪の意識がまるでないかというと、あるのである。彼には女房がいて、彼が罪を犯すたびに

、「どうか自首してください」とか「何卒改心してください」とか「真人間になって下さい」と言って、ぽろぽろと涙をこぼす。それを聞くとBはなんとなく「しんみりした気持」になって自分も泣いてしまう。「胸の中がきれいに洗い清められるような気になる」。
 ここで注意すべきは、彼には本気で改心する気などないという点だ。彼は「後悔したって始まらないと思います」と言っている。それにもかかわらず、女房が泣いていさめると、「ただその時だけちょいと好い気持がする」のである。そしてこれがやめられないのだ。

 Bが徹底して悪事を働く人間なら、なぜ犯罪を犯すたびに女房を泣かせ、「胸の中がきれいに洗い清められるような気持」を求めようとするのか。

 もう一つBにはおかしなところがある。彼は女房をかわいげのある女とは見ていない。「器量もよくはありませんし、色が黒くって、鼻が低くって、体つきにもお杉(Bの愛人)のような意気な婀娜っぽいところがちっともなくって、物の言いっ節なんぞがイヤに几帳面で、不細工で、私は不断はあんな味もそっけもない女はないと思って」いる。しかしそれにもかかわらず、彼は女房と別れることができない。「犬猫同様に扱われて」いる彼女が「非常に必要な人間」なのである。

 取調官は彼と女房の奇妙な関係に気づき、この点をしつこく追求する。しかし追求しても明快で一貫した説明は出てこない。

 われわれがBの釈明に一貫した説明を与えようとするなら二つのパラドクスを組み合わせなければならない。まず一つパラドクスは、悪事に快楽を覚えるためには最低限の罪の意識がなければならないということだ。悪事にふける人間には罪の意識がないというのは嘘である。罪の意識がなければ悪事の快楽もない。これは精神分析のイロハである。

 第二のパラドクスは、罪の意識は悪事を働く者の内部ではなく、外部にあってもよい、ということだ。これはちょっと聞くと異常なことのように思えるが、Bと女房の関係はそうとらえるしかない。女房はBの外部化された罪の意識なのである。

 Bが悪事に快楽を覚えるには女房の罪の意識が必要だ。それがなければすでに言ったように悪事の快楽すらなくなる。女房はBの「代わりに」罪を悔いる。Bは罪の意識を自分から追い出し、女房という形で外在化することで、より効率的に快楽にふけることができるのだろう。

 しかし意識が外部化されるとはどういうことだろう。自分の意識と自分とのあいだにある種の境界線が引かれることだ。この境界線は二重のはたらきをする。接続すると共に、切断するのである。自分の意識の一部であるから、それが外部に置かれようとそれは自分のものである。その意味で境界線は接続の役割を果たす。しかしそれは自分とは別物であることを示すサインでもある。この二重性がBの妻に対する態度となってあらわれる。Bにとって妻はまったくどうでもいい他者、犬猫同然に扱いうる、自分には意味のない存在であり、同時に彼女は自分そのものであり、「非常に必要な人間」でもある。この関係が取調官をとまどわせるのだ。

 意識の外部化の構造という点から見る限り、Bとその妻を二項対立的に考えるのは間違いである。妻はBの一部が外化されたものにすぎないからである。そしてこれが父権的なものの構造なのだと思う。

 内部が外部化される物語はほかにもあるはずだ。まずは新しい全集も出たことだし、谷崎を読み返そうかと思っている。

Friday, June 23, 2017

「かわいい娘」ディオン・ブーシコー作

The Colleen Bawn (1860) by Dion Boucicault (1822-1890)

 イギリス十九世紀の文学作品には、よく秘密結婚の話がでてくる。領主の息子などが若気の至りで身分の低い女と結婚式をあげてしまう。しかしそのことを公にするとスキャンダルになるので、親にも誰にも告げず、今まで通り普通に自分の家で生活しながら、こっそり家族の目を盗んで妻の家にかようのだ。ところが、縁談がもちあがって、二重結婚せざるをえない羽目に陥ることがある。両親の経済的な事情から、どうしても金持ちの令嬢と一緒にならざるを得ない、なんてことは実際にあったらしい。しかし事情はどうあれ、最初の結婚を解消しない限りは、二回目の結婚は法律的には無効となる。二人目の妻とのあいだに子供ができたとしても、彼らは私生児というわけだ。

 私は以前、「雲形紋章」という、イギリスではマニアックな人気のある作品を訳したことがあるが、これも秘密結婚を扱った物語である。現実にこういう事例がどれだけあったのかは知らないが、文学ではよく取りあげられるようだ。「かわいい娘」のヒーローとヒロインも秘密結婚をしている。

 この作品は名前だけはよく知っていたが、読んだことはなかった。そして一読して、なるほどこれはメロドラマの最たるものだと思った。主人公たちが窮地に陥り、ちょっと信じられないような偶然に助けられて、そこから一気に抜け出す。劇の最後、善玉は仕合わせになり、悪玉はこらしめられる。この唖然とするほど凡庸な終わり方も、じつにメロドラマらしい。
作者プーシコー

 アイルランドの地主クリーガンは母親に黙って教養のない農家の娘アイリーと結婚する。彼らは夜になると光を使って合図をかわし、こっそりアイリーの家で密会している。

 一方、母親は息子を金持ちの娘アンと結婚させたがっている。というのは一家が経済的苦境に陥り、その地方の行政長官コリガンに大きな借金をしているからである。その借金を返すためにはどうしてもアンの家の金銭的な助力が必要なのだ。

 ある日この行政長官のコリガンがやってきて、借金を返してくれと母親に言う。もしも返せないなら、おれと結婚してくれないか、とおかしなことまで言いはじめた。母親はもちろんコリガンとなど結婚したくないし、彼女の息子も母親の再婚には大反対である。

 これでドラマの舞台はできあがったわけだが、このあとは説明しようとすると非常にややこしい。登場人物の思惑がさまざまに入り乱れ、いろいろな勘違いがその過程で生じていくからである。それを無理矢理簡単に言うと、まずクリーガンの忠実な召使いがアイリーを殺そうとする。アイリーが死ねばクリーガンはアンと結婚できると考えたのである。しかしアイリーは危ないところを助けられ、ひそかにとある小屋で介抱される。しかし人々はアイリーが殺されたものと思ってしまう。行政長官のコリガンは、アイリーを殺したのはクリーガンだと考え、兵士を連れてクリーガンとアンの結婚式に乗り込み、彼を逮捕しようとする。ところがここですべての真実が明かされ、クリーガンは逮捕をのがれ、命を助けられたアイリーと暮らしていくことを決心する。またアンはクリーガン家の借金を肩代わりしてやり、彼女を慕うべつの男と一緒になることにする。

 三幕の芝居だけれど結構ボリュームがあって、いろいろな事件が展開される。そのいずれもがいかにもメロドラマらしいのだ。登場人物の類型性、事件に対する彼らの反応のある種の単純さ、現実的ではない(いわゆるメロドラマチックな)事件の進展。馬鹿馬鹿しいと言えば馬鹿馬鹿しい劇だが、逆にこういう作品には問題性を感じてしまう。このドラマの始点となる設定、地主階級の没落は、非常に現実的な状況を示している。しかしその没落が回避される過程はメロドラマという非現実的な展開を示す。ここにはなにかを隠蔽し、無理矢理表面を取り繕ろおうとする力がはたらいているように感じられる。

 ウィキペディアによると、この作品は現実の事件がもとになっているらしい。ジョン・スキャニオンという男が十五才の少女エレンと結婚するのだが、彼女が家族には受け入れられないことがわかるや、ジョンは召使いに命じて彼女を殺させるのである。そして現実の事件では本当にエレンは殺され、のちにジョンも召使いも捕まれて絞首刑になっている。こういう陰惨な事件をある種のハッピーエンドに変えていくメロドラマは、現実の亀裂を糊塗するという、イデオロギー的な機能を持たされているのではないか。そういう意味ではこれは案外興味深い劇になっていると思う。

Monday, June 12, 2017

近況報告(その五)

 ついでだからもっと書いておこう。前回紹介した、他者を通しての信仰、というのは哲学の世界ではインターパッシヴィティという名前で知られている。スラヴォイ・ジジェクやロベルト・プファーラーが盛んに議論している概念で、私は今、復習のためにいろいろな文献を読み返している。

Robert Pfaller, Philosoph, a photo taken by Suzie1212 from Wikimedia (https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Robert_Pfaller.jpg)
「悪魔の悲しみ」に即してもう一度この奇怪な信仰を説明すると、主人公で語り手のジェフリー・テンペストは神を信じていない。さらに彼は、当時の上流階級の男たちと同様に、悪徳にふける。彼は、男は好きなことを、好きなときに、好きなようにする権利があると考えている。しかし妻には、自分の悪徳に正比例した美徳を要求する権利もあると考えている。簡単に言えば、夫は好きなだけ悪徳にふけることが許されるが、妻には信心深くあってほしいと思っているのだ。ところがジェフリー・テンペストが結婚したシビルという女は、彼に負けないくらい無神論者で、悪徳にふける。彼女は外面的にはイギリスで一番をうたわれるほどの美人だが、その内面は腐りきっていて、そのためにジェフリーは絶望に陥る。

 ここで注意すべきは、ジェフリーは神を否定しているが、しかし神を信じている他者を必要としているという点だ。彼はみずからは祈ることはないが、他者を通して祈るのである。この他者は彼にとって自分とおなじくらい大切であって、だからこそ妻が無神論者で道徳のかけらも持たないことを知ると愕然として苦悩することになるのだ。

 ヴィクトリア朝時代には、妻は家庭の天使と呼ばれたものだが、「悪魔の悲しみ」には夫と家庭の天使のあいだの関係がいかなるものであるのか、それが見事に表現されていると思う。妻は夫の「代わりに」祈ることを期待されている。いったいこれはどういうことなのだろう。

 早急に結論を下したくはないのだけれど、今の段階で私はこんなことを考えている。無神論者になるためには神を信仰しなければならない。ただしその信仰はその人の内部にあるのではなく、他者に存する。だが他者であってもその人にとってかけがえのない他者である。悪徳にふけるには清浄な心が必要である。ただしその清浄な心はやはり他者に存する。かけがいのない他者のなかに。彼は信仰をもたず、悪徳にふけるが、他者のなかに信仰や清浄な心を見いだせないとき、絶望に陥るのだ。他者が祈り、清い心を持っている限りにおいて、彼は無神論者であり、放蕩者でありえる。

 この男と女の関係は「悪魔の悲しみ」においては悪魔と人間、創造者と被創造者の関係にも投影されている。悪魔は徹底的に人間を堕落させようとする。この当時、最大の社会悪は物質主義であると言われていたが、悪魔は人間を信仰心のない物質主義者に変えてしまおうとする。だが前段で述べたことは悪魔にも適用される。悪魔が徹底して悪を広めようとするには、善を信じなければならない。ただしその善は悪魔の内部にあるのではなく、彼が堕落させようとしている対象、他者に仮託されているのだ。

 人間が悪魔になれるとしたら、良心を自分の中から放逐しなければならない。しかしそれは良心などなくなってもいいというのではなく、他者のなかに保存しておかなければならないということらしい。他者の中に良心がみつからないと、彼は悪魔ではいられなくなる。悪を行う意欲もなくなるほど絶望してしまうのである。

 妻を家庭の天使などと呼んで持ち上げ、信仰心や無垢を強制することは、夫が悪徳にふけるための前提条件となっている。

 快楽を感じるためには罪の観念がなければならない、罪の観念がなければ快楽もない、というのは、精神分析では常識だが、この罪の観念は行為をする人の中になければならない、ということではないのだ。外にあってもよいのである。

 こんな冗談がある。カトリックもプロテスタントも好きなことをしていい。ただしカトリックは週の終わりに告解をし、プロテスタントは行為の最中に罪の意識を感じればいいのだ。ヴィクトリア朝時代の男についていえば、彼らはなにをしてもいいのだ。ただし妻が代わりに祈ってくれていさえすれば。

 さらにこんなことも私は考えている。今述べたことは実は英国と植民地の関係についてもいえることではないか。イギリスが植民地の文化を褒め称えるとき、それはイギリスが自らのなかから放逐した良心をそこに見出しているのではないのか。それを見出すことは他者の文化を称揚することではなく(一見してそう見えるが、本当はそうではなく)、他者を徹底的に踏みにじるための(帝国主義的に植民地を搾取するための)前提条件となっているのではないか。

 それを考えると十九世紀末に日本の文化がヨーロッパで関心を呼んだことも喜ばしい一方の現象とは言えない。ヨーロッパの日本に対する視線は帝国主義的な視線ではなかったか。それは相手を持ち上げれば持ち上げるほど凶悪な反面を持ち合わせる視線の筈である。フランスの核実験を批判した大江健三郎に対してクロード・シモンは、日本は芸術によってわれわれを驚かせてくれ、というようなことを言い、大江はシモンの日本認識が十九世紀のヤポニスムをいくらも出ないことを知って唖然としたらしいが、こういう言説と帝国主義との関係を私は非常に疑っている。

Friday, June 9, 2017

近況報告(その四)

 「悪魔の悲しみ」についてもう一点、書いておこう。理論的なことである。

 私は前のブログ「本邦未訳ミステリ百冊を読む」で谷崎潤一郎の「途上」という短編小説をもとに「行為の外形性」について考えたことがある(http://untranslatedmysterybooks.blogspot.jp/2015/)。人間がなにをしようとしているのか、それをその人の意識に問うてはならない。その人の行為の外形に求めなければならないというのが論点である。「途上」について言えば、ここに出てくる会社員は、病弱な妻のためにいろいろと忠告を与えるが、なぜそうするのか、その理由を会社員の意識に尋ねると、「妻を愛しているから、妻の健康が気遣われるから」などという返事が返ってくるだろう。しかしそれは嘘なのだ。意識は嘘をつくのだ。「途上」に出てくる探偵は会社員の意識による説明には論理矛盾があることを暴露し、彼の行為を外形において捕らえようとする。すると彼が密かに妻の死を願っていることがわかってくるのである。ここにこそミステリと精神分析の接点があると私は考える。

 さらにここから私は「信」の問題にぶつかった。前のブログでは幽霊の例を出して説明した(http://untranslatedmysterybooks.blogspot.jp/2016/09/blog-post_15.html)。私は幽霊を信じていない。しかし寂しい夜道を歩くとき、私はあたかも幽霊を信じているかのように怖れを感じる。私の意識に問えば、私は幽霊を否定する。しかし夜道を歩く私の行為の外形を見れば、私は幽霊を信じている。

 じつは谷崎潤一郎もやはりこの「信」の問題を作品化している。「ある調書の一節」というのがそれだ。女遊びにふけり、悪いことばかりをしている土工の頭が警察で尋問を受ける。彼は悪事がやめられない。やめる気などさらさらない。しかし善女である女房が彼のことを思ってしくしく泣き出すと、なんだか自分の罪が滅ぼされるような気がする。でも彼は悔い改めることはしないのだ。とことん彼は悪人なのである。

 まったく妙な話ではあるけれど、この男は善を信じている。が、彼が信じているのではない。女房が信じているのである。彼の「信」は彼の外に存在している。でも外に存在しているからと言って、それが彼から切り離し可能かというとそうではない。彼が女房と別れることができないということは、彼が外的な「信」を失うことができないことを意味しているだろう。彼の「信」は外的だが、絶対必要という意味においてそれは彼にとって「内的」なものでもあるのだ。

 こういう「信」の不思議な構造についてはスラヴォイ・ジジェクも議論している。YouTube の Slavoy Zizek: Only An Atheist Can Believe を見ていただければ彼の最新の議論がだいたいわかるはずだ。

Slavoj Zizek Fot M Kubik May15 2009 02.jpg
By Mariusz Kubik, http://www.mariuszkubik.pl - Own workhttp://commons.wikimedia.org/wiki/User:KmariusCC BY 3.0Link
じつは私は「悪魔の悲しみ」はこの妙ちくりんな「信」の構造を主題化していると考えている。いや、まだ考えがまとまっていないので、ここでは示唆的なことしか言えないのだが、たとえば悪魔の力によってイギリス社交界でいちばんの美人と結婚するジェフリー・テンペストは、妻が無神論者であることを残念に思う。彼自身が無神論者であるにもかかわらず、だ。彼は金持ちになると同時に悪徳にふけるようになるのだが、妻には純潔でセンチメンタルな心情をもっていてほしいと願う。彼は「神」や「善」といったものへの「信」を自分の代わりに妻に持っていてほしい考えるのである。

 これはまことに身勝手な男の言い分のように聞こえるが、身勝手と非難してすむような問題ではない。「信」のあり方そのものにかかわってくる問題である。

 このことに気づけば、この作品のあちらこちらに同じような内容の言説が見つかるだろう。だいたい悪魔そのものがその「信」を外に置いているではないか。彼は悪へとまっしぐらに突き進もうとする。それが彼の自由意志だ。しかし彼は人間の「信」によって天へと一歩近づくのである。「ある調書の一節」に出てくる土工の頭のように、外的な「信」によってなんともいい気分になってしまう(=天国に近づく)のである。

 翻訳は今年中には出したいと思うけれど、それまでに「信」の問題について考えがまとまるかどうかはわからない。